3 魔王、杉並区に立つ
漫画喫茶の薄暗い一室から、魔王ヴァルナクスは初めてのアニメ視聴を終え、意気揚々とレジへ向かった。胸中には溢れんばかりの感動と興奮が渦巻いている。
「余はこの文化を極めねばならぬ。余の覇業に新たなる使命が加わったぞ!」
しかし、彼の決意に待ったをかけたのは、会計での現実だった。
……
「お会計は10,500円です。」
店員の冷静な声に、魔王は「うむ、大義である。釣りはいらんぞ……」と言って、2,000円札を出した。
「あのー、お金、足りてないんですけど…」
魔王は首をかしげた。
「貴様、どういうことだ。金なら払ったではないか!」
魔王は、若干の怒りを込めて、威圧感たっぷりに二千円札を指さした。
「全然足りません」
しかし、魔王の圧倒的な威圧感も、店員の圧倒的無気力の前には為す術がなかった。
「これで事足りぬだとぉ!? この魔王が下民如きに金を払ってやっただけでも有り難いことなのに、足りないだとぉ~!」
店員の説明に魔王は激怒する。
「申し訳ありません。ご利用時間が長かったので、追加料金がかかります。」
店員は、困惑する魔王をしり目に無表情かつ淡々と料金を請求する。
「追加だと? 余に黙って、なぜ勝手に追加などした!!」
思わず大きな声を出してしまった魔王。
すると、周囲の客やスタッフが怪訝そうな目でこちらを見始める。さらに、店の外では店員の一人が携帯を取り出し、何やら電話をかけ始めた。どうやら同志(ロジータ信者の店員)は、今は不在の様だ…。
(しまった……これはまずい!)
魔王は己の危機的状況を悟った。
この世界に来たばかりの今、不要な衝突は避けるべき。しかし、魔王たる者が無様に逃げるのも許されぬ…。
(ここは、余の知恵の見せ所か…!)
「ふ、ふははは…今の冗談だ。こ、これでどうだ!」
懐からキラリと光る金貨を2枚取り出し、堂々とカウンターに置く。
「お、お客様…これは何ですか?」
いきなり異世界のコインを見せられたことで、さすがの無気力店員も困惑の色を隠せない。
「何を言うか! これは正真正銘の魔王印の金貨だ!!」
スタッフの視線がさらに鋭くなる。奥から別の店員もやって来た。嫌な予感がする。
(くっ……これは思ったよりも厄介なことになったな……)
店員の一人が外へ出て、再び電話をかけているのを視界の端で捉えた。何か対策を打たねば…。
「やむを得ぬ! 王たる者、無用な争いを避けねばならぬ!これも全てアニメのためだ、許せ!!」
彼は呪文を唱えた。
「《催眠魔法》テネブリス・ソムニフィカ!」
店内のスタッフ全員がその場で深い眠りに落ちる。魔王は金貨を1枚だけ置き、「齟齬はあるとはいえ、余には悪意はない。これで勘弁せよ……」と呟きながら店を後にした。
……
なんとか漫画喫茶を抜け出した魔王は、調べた情報をもとに、アニメ制作の聖地である杉並区へと飛ぶ。道中の街並みを眺めながら、彼の胸は高鳴っていた。さすが魔王だけあって切り替えが早い。
「ふはははっ! 待っていろ、杉並区よ!! 余の考える壮大なるアニメを思う存分作らせてやろう!!」
彼が目をつけたのは阿佐ヶ谷にある大手の制作会社だった。
(この余が描く壮大なアニメじゃ。大手の制作会社を使わねば、話にもならん…いや、果たして一社だけで大丈夫であろうか……ふふふっ)
制作会社の近くまでくると、魔王は着地し、不敵な笑みを浮かべながら杉並の街を闊歩する。
制作会社の前まで来た魔王は、躊躇なく堂々とした足取りで受付に向かう。そして威厳たっぷりに名乗りを上げた。
「余は魔王ヴァルナクス。貴様らの作るアニメにいたく感動した。よって貴様らに余の物語を制作する機会を与えてやる! ありがたく思え!」
しかし、受付の女性はキョトンとした表情のまま、硬直している。
(そうか、そうか。余の威厳を前にして、言葉も出ないのか。悪いことをしてしまったな。相変わらず、余は罪な男じゃな。)
軽く笑みを浮かべたあと再び威厳たっぷりに名乗りを上げた。
「余は魔王ヴァルナクス。貴様らの作るアニメに…」
「申し訳ありませんが、ご予約はございますか?」
「予約…?」
魔王は一瞬言葉を失った。
「アポイントがない場合は、お取り次ぎできませんので…。」
「何を言っておる…余は魔王ぞ! 異世界とはいえ、門番如きに制限されて良いはずが…!?」
警備員が様子を見に来る。魔王はさすがに異変を感じた。
「どうなさいましたか?」
警備員が訝しげにこちらの様子を伺ってきた。
(ここで争いになっては、のちのちのアニメ制作に響くかもしれん。仕方ない、ここは一度撤退するしかないか…とりあえず、また催眠魔法で……)
その時、どこからともなく現れた男が仲裁に入った。
「ちょっと待ってください。この人は…ええっと…友人なんです!」
そこに現れたのは、コミケで魔王に2,000円札を与え、アニメオタクの道を示してしまったあの男だった。
「すみません! こいつ、撮影会の後、飲み過ぎちゃって…ご迷惑をお掛けしました! ほら、行くよ!」
男は、魔王の強引に手を引き、そそくさと制作会社を後にした…
「ちょっ、待てよ! 余は魔王ぞ! 助けなどいらん!!」
「ほら、行くよ!!」
魔王は、一瞬抵抗しようとしたが、男が自分を救おうとして必死になっている表情を見て、「ああ…かたじけない……」と素直に従った。
……
「男よ、一度ならず、二度までも余を助けてくれた…感謝の言葉もない……感謝する!!」
制作会社から少し離れたところで、魔王は深々と頭を下げ、大きな声で感謝の意を表した。
「いや、感謝なんていいよ。たまたまシフト上がりにあそこの前を通ったら、聞き覚えのある声がしたんだよ。覗いてみたら君がいて、なんかヤバそうだったからさ……まぁ、間に合ってよかったよ…」
変な騎士みたいなコスプレをした大男が道端でいきなり大声で感謝するものだから、男はひどく恥ずかしそうに状況を説明した。
「そ、そこに公園があるから、ちょっと休憩しよう。コーヒー奢るからさ!」
「ん、コーヒー? なんだそれ!?」
「え? コーヒー飲んだことないの? せ、せっかくだから飲んでみなよ。ブラックでいい?」
(この人、本当に……いや、まさか…)
「うむ、頂くとしよう。なんだか分からんが、余は魔王だからブラックが良い!なんてな!ハハハ!!」
魔王のギャグセンスは常に絶望的である。
「わかった、ちょっと待ってって!」
そう言うと男は、公園の端にある四角い箱に向かった。
ベンチに座って待っていると、男が缶コーヒーを手渡してきた。
「うむ。これがコーヒーなるものか。どれどれ、どんな味がするのかな…ん?」
…
「開けられぬ!」
魔王は、開け方が分からず、イライラが頂点に達したので、缶ごと素粒子レベルに分解しようとした。しかし、恩人の貰いものを粗末にできない、と何とか思いとどまった…
「ホラ、やってあげるから、貸して…」
ガシャ
男は、少し呆れた様子で缶コーヒーを開けてくれた。
「またしても……感謝する。では…。」
そう言いながら、缶コーヒーを口に運ぶ。そして——
「うわっ、苦い……余は甘いのが良い…」
魔王は甘党だった…。
(何なんだよ、コイツ…)
内心、そう思った男だったが、「分かったよ、なんか別の買ってくるよ…」と、隣に座っているおかしなコスプレ男を見捨てることもできず、再び自販機に向かう。
しかしジュースを買って戻ってきた時には、魔王はベンチで眠っていた…。
「…困ったなぁ。」
魔王、杉並区でもやらかす…
続く…。