6 弟の頭痛と胃痛
シュテイン・リスクアール侯爵令息は、早足で姉のいる応接室へと向かっていた。
(先方が望んだからといって、姉様と公爵令息を二人きりにさせるだなんて…父上は危機感が足りない)
うっかり現実が認められず見送ってしまったが、花を抱えたまま時を止めていたシュテインは何事か悩む父と好奇心でワクワクが止まらない母の婚約に関する話し合いで目を覚ました。
目を覚ましてすぐ鼻腔を擽った薔薇の香りに、姉のステファニーが今誰と居るのかを思い出して慌てて応接室へと向かっている。
突然やって来た、ヨーゼフ・アルガッツ公爵令息。
アルガッツ家の五男で、王立騎士団の王宮を警護する部隊に所属している。
精悍な顔立ちと公爵家出身の立場から、一部の令嬢達から熱い視線を集めている注目株の一人だ。
――侯爵家の婿として、申し分ない立場である。
(アルガッツ公爵家の跡取りは既に決まっているし、彼は騎士として身を立てつつ爵位を持たない五男)
公爵家がいくつ爵位を抱えているか知らないが、五男ともなれば売り切れているだろう。
(婿になれば女侯爵の夫として立場を得るし、騎士として働かなくても生きていける…侯爵家も目上の公爵家と縁繋ぎができるのは悪くない。太いパイプを持つ男は、むしろ諸手を挙げて喜ばれる物件)
わかっている。
この話がまとまれば、高い利益となることは。
だがしかし。
(姉様だぞ…!)
ぎゅっと顔を顰めるシュテインの脳裏で、ステファニーが悪女の高笑いを決めていた。
シュテインは知らないが、日曜早朝の特撮に出てくるお色気女幹部を連想させる高笑いだった。
(あの人は噂だけじゃなく本当に歯止めが利かないんだ! 公爵令息が一体姉様の何を見初めたのか知らないが、油断していると骨の髄までしゃぶられる…!)
シュテインは知っている。
身分の高い男ほどステファニーを警戒しているが…それでも近付いてくる男は、自分ならば御せると思っている傲慢な男だと。
ヨーゼフも恐らく、自分ならば上手く付き合えると思っているタイプの男なのだろう。
傲慢だ。慢心だ。相手を舐めている。
シュテインは眼鏡の位置を調整しながら舌打ちをした。
(姉様のあの言動が、甘く見られる原因だ)
男の間を飛び交う様はさぞかし、男に頼り切りの、頭の緩い女に見えることだろう。
口は達者だが、何かを成し遂げるだけの技量も行動力もない、取るに足らない女だと思われているに違いない。
なんて幸せな勘違い。
シュテインは強く拳を握りしめた。
(姉様は…そんな簡単な女じゃない!)
幼い頃はなんとも思わなかったが、ステファニーは幼い頃からステファニーだった。
お気に入りの護衛にぴったり貼り付いて誘惑するし、家庭教師と詩の添削をしていたかと思えば意味深な言葉を贈り合う。使用人と距離が近いかと思えばいつの間にかほとんどの侍女を陥落させ、いつも顔を寄せ合って秘密の話ばかりしている。
領地では酒蔵に出入りして、幼いのに酒を舐めては大人のような発言を繰り返した。葡萄畑にも乗り込んだし、田んぼにも突っ込んだ。麦畑を吟味して、樽の材質がどうと話をしながら十年後の相談までしていた。
今は負担かもしれないが、ちゃんと保証するから。十年先には利益になるから投資して欲しいと頭を下げた。
今を見ているのに、ステファニーは先の話をよくしていた。
五年先、十年先の話を当然のようにする。
幼い姿をしていたけれど、ステファニーは大人の女性だった。
シュテインは…そんな姉を、誇らしく思っていた。
ちょっとだけ。
しかし社交デビューしたかと思えばいきなり理性と品性を放り投げて男達の間を飛び回りだしたので、姉の生態は全く理解できない。
理解できないが、ステファニーは考えなしではない。
シュテインがわかっているのは、何も考えていないように見せかけて姉が常に思考を続けていること。
舐めてかかれば痛い目を見る。
ステファニーは、美しい女人の皮を被った得体の知れない化け物だ。
そう、常人には理解できない考えで生きている。
――そんな女を、公爵令息だからって飼い慣らせるわけがない。
(早く二人を引き離さないと…これ以上無礼を重ねるわけにはいかない…!)
シュテインの使命は、姉がやらかさないように常に見張って対処すること。
彼は公爵令息相手だろうと、ステファニーが何かやらかすと確信していた。
二人っきりにするにはまだ早い。
使命感を抱いて速やかに応接室前に辿り着いたヨーゼフは、扉がきっちり閉められているのに眉をしかめた。
これでは密室。室内の二人が何をしているのかわからない。
(姉様が好き放題してしまうじゃないか!)
シュテインの中でステファニーへの信頼は零に等しい。別の意味でとても高い。
実際公爵家の夜会でもやらかしているので信用回復には長い時間が掛かる。
シュテインは咳払いをしてから、きっちりノックをして、三秒間待ってから扉を開いた。
返事は待たない。気分は御用改めなので。
「アルガッツ様。そろそろ家族で話をさせて頂いてもよろしって何をしている!?」
室内でシュテインが見たのはソファにグッタリ倒れ伏すヨーゼフと、勝利のポーズで仁王立ちするステファニーの姿だった。
(遅かった! 何かしたあとだ!!)
誰がどう見てもステファニーが戦犯。
シュテインは慌ててヨーゼフに駆け寄った。
「だい…大丈夫ですかアルガッツ様! 姉様! 公爵令息に一体何を…!」
「大袈裟ね。ちょっとつまみ食いしただけよ」
「何をしている!?」
犯行を認めて胸を張るんじゃない。
ヨーゼフを振り返れば、顔が赤い。衣類が多少乱れている。
堅物な印象の大柄な男性が息を乱して涙目になっている様子は目に毒だ。
普段は性を感じさせない堅物なのに、がっつり色を匂わせる状態にされている。
「なんてことを…!」
「ちょっとはしたなかったわね」
「今更か!?」
「だけど私に求婚してきたのだもの。身分なんて関係ないわ。私に求婚したからにはどんな男もただの男。身分や美醜は関係ない。私が気にするのは彼が私の性欲を受け止める度量とテクニックがあるか…それだけよ」
「大真面目にとんでもない理論をぶつけてくるな!」
ちろりと赤い唇に舌を這わせるステファニー。
反省の色がない姉にぶち切れながら怒鳴ったシュテインは、焦点の定まらないヨーゼフを揺さぶった。
「お気を確かにアルガッツ様! 傷は…傷は浅いはず…!」
「…はじめて…はじめて女性に、敗北を、感じた…♡」
「深い! 致命傷だ!」
うっとりしていやがる。
この反応。ヤバい扉を開いているかもしれない。
そして焦点だけじゃない。腰もガクガクしている。暫く立ち上がるのは無理そうだ。
(公爵令息になんてむごい仕打ちを!)
シュテインはどう詫びを入れるのかとても悩んだ。求婚してきた相手に、その日のうちにする仕打ちではない。
まさか狼も猫と思った相手が女豹だったなんて思わなかっただろう。
多くの令息は、ステファニーのつまみ食いにより自信を無くしたり新しい扉を開いたりしている。
いつも思うがこれはつまみ食いに入るのか。食べられていないか?
「試してわかったけれど、私、あなたと上手くやっていけそうにないわ」
(こんな状態にしておきながら会話を続け、かつお断りするだと…!)
「な、何故ですか。こんなに乱されたのに」
(泣きすがりそうになるな自分をしっかり持て!)
相手が目上なので怒鳴れないが、介抱のつもりでヨーゼフの肩をがっつり掴んだ。相手がステファニーに縋り付くのを防いでいた。
濡れた唇に指を這わせ、口元の黒子も撫でたステファニーは、残念そうに嘆息した。
「だってあなた、別に性欲が強いわけじゃなさそう」
ステファニーが一貫して相手に求める条件に、シュテインは目眩を覚えた。
こんな会話になると言うことは、公爵令息はステファニーの出す条件を知っていたらしい。知っていて飛び込んできたのなら、ステファニーの身体目当てだった説が強くなる。
だって男なら、性欲の強い相手がいいと女性に言われて、その女体を意識しないわけがない。
相手が好みなら、欲を覚えたなら、性欲が強いからと…すぐに身体の関係を築けると考えて近付く輩も多い。
ステファニーの言う性欲が多い、が。一般人の考える強さと別とは知らず。
「…今まで一度も満足したことがないのですが…」
ヨーゼフにも齟齬があるのだろう。納得がいかない顔でステファニーを見上げている。
ステファニーは腰に手を当てて、胸を反らして断言した。
「いいえ違うわ。あなたは性欲が強いわけじゃない――…下手くそなだけよ」
男性陣に稲妻走る。
ヨーゼフはわかりやすく目も口も開いてショックを受けた顔になり、シュテインは蒼白になって悲鳴を上げた。
そんなヨーゼフをとても可哀想な者を見る目で一瞥してから、ステファニーはゆったり視線を逸らした。
「…身分が高いから忖度して、誰も言えなかったのでしょうね…」
ヨーゼフはソファに倒れた。
断言より、しんみり追い打ちされた言葉が刺さる。
(やめて差し上げろ!?)
しかしステファニーは止まらない。
「あなたが有り余っているのは性欲じゃなくて体力だわ。性欲と体力はイコールじゃないの。あなたは性欲よりも体力勝負だったから、女性の方が力尽きてしまっていたの」
性的欲求も薄いから、その気になるのに時間が掛かる。
でも相手より体力があるから、その気になったときには相手が力尽きている。
「力加減もできていないわ。あなたは軽く掴んでいるつもりでしょうけど女性の肌は繊細なのよ?」
言いながらぷらぷら揺らすステファニーの腕に異常は見られない。しかし負担はあったのだろう。労るようにそっと撫でた。
「相手を酔わせることも自分が酔うこともできず、満足するために数々の女性と関係を持っても、自分が酔えないから相手を酔わせることもできない…酔えないくせに乱暴に扱われるなら、店も出禁にするわ」
(出禁になったのか…)
なんの店か聞かないが、察するにあまりある。
「酒の楽しみを一切知らず、高い酒も安い酒も水のように扱うなら酒場じゃなくて牧場で牛の乳でも飲んでいただく方が有意義ね。そう、つまりあなたは性欲の強い困ったさんではなくて…独り善がりなちろ…干物男だったのよ!」
「俺が…干物…!」
(許されるレベルの暴言を超えている!)
ヨーゼフは外面を落とすくらい動揺している。衝撃で立場を忘れているかもしれないが、正気に返ってからぶん殴られても擁護できないレベルの大暴言。
シュテインの肝は冷えた。一瞬別の台詞を言おうとして切り替えたところで暴言に変わりなし。
「酔えないのは同情に値するわ! だけど酔いは酒だけにあらず! 場にも女にも酔う努力もせず、自分は(性欲が)強いから満足できないなんて勘違いをして恥ずかしい! 拒否された理由をもっと考えて、酔うための努力をしなさい!」
「酔うための…努力…」
「酒で酔えなくても…楽しみ方は一つじゃないわ。ぶつけるだけじゃない。高め合うの。相手と尊重し合う行為を目指しなさい」
「ステファニー…俺は、間違えていたのか…」
「いいの。よくあることだもの…これからは自分に見合った酒…プレイ…落とし所を見付けて行きなさい」
(何の話になっているんだ)
どうして不敬で無礼な暴言がちょっといい話みたいにまとまりかけているのか。
はじめから聞いていたのに全くわからない。
しかし突っ込めば正気に返ったヨーゼフに手打ちにされるかもしれないので、シュテインはきゅっと唇を閉ざした。
話している間に回復したらしいヨーゼフは、力なく上体を起こして深いため息をついた。
「こんな気分になるなんて…あなたは酒だな。まるで、度数の高い酒を煽ったようだ。以前めでたい夜に、特別と呼ばれる酒を飲んだことがあったが…あの喉を焼く強い酒に、よく似ている」
ヨーゼフはステファニーを酒にたとえた。
強いとわかっていても繰り返し飲みたくなる中毒性を、ステファニーに重ねた。
回復しているが正気ではなさそうだ。
シュテインは真顔で空気に徹した。
気配を消すシュテインを横目に、ステファニーはゆったり笑った。
「あらぁ、特別な酒に見立てられるだなんて…最高の褒め言葉だわ」
ステファニーは自らを抱くように白い腕を回し、艶然と微笑む。
「でも酒造の国と名高いこのクチネイケル国で、繰り返し注意されている言葉があるわよね。あなたも知っているでしょう?」
くるくると後れ毛を絡めながら、黒子の目立つ赤い唇で笑う。
「酒と女に溺れるな――…身を滅ぼしたくなければ、強い酒は自重しなさいね」
――私は高いぞ。
高く付くぞと、脅しを含めてステファニーはヨーゼフからの求婚を蹴飛ばした。
シュテインは見た。
艶然と微笑むステファニーを見上げ、メラメラと燃え上がる、炎を。
「――気持ちよく酔うのも、男の甲斐性だろう」
「引き返せ」
目上とわかっていてもつい厳しい口調で返してしまったシュテインだった。
シュテインは苦労人。
私がなんとかしなければ! と使命感に燃えている。
明日 6/8が更新お休みします。次回、月曜日6/9 12:00更新です。
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