第3話 消えた命(SIDE:ニコラルド)
ガチャン!
妻のオリーヴがカップをテーブルに倒した。
こぼれた液体が、テーブルクロスに大きな沁みを作っていく。
「…君はお茶もろくに飲めないのか…」
ジルドーラからたまには奥様との時間を作ってあげたら…と言われたお茶の時間。
彼女から勧められた事もあったが、僕はあの夜の事を……詫びる場を探していた。
それに僕は、最初の出会いから妻を邪険にした。
そんな彼女に心からの謝罪をするべきなのに、口から出た言葉は粗相をした彼女を突き放すような物言い。
本当に僕はどうしようもない男だ。
自己嫌悪に陥りながら、ふと妻を見ると、苦しそうな顔をしてお腹を押さえている。
ガッターン!
椅子と共に、床へ倒れた妻。
「オリーヴ!」
「うぅ…っ」
僕はあわてて妻の傍に行き、抱き起した。
彼女の顔は真っ青になっている。
そしてスカートが徐々に……赤く染まっていった。
「!! い、医者を呼べ! 早く!!」
僕は少し離れた場所に待機していた使用人に向かって声を上げた。
使用人は脱兎のごとく、本邸に向かって走って行った。
◇◇◇◇
妻の部屋の前で、僕は右往左往しながら診察が終わるのを待っていた。
血塗れになっていった彼女の姿が脳裏に焼き付いている。
彼女の身に一体何が起こったんだ!
ガチャリ
部屋から出て来た医師が神妙な面持ちで口を開く。
「残念ですが…流産されました…」
「………りゅ、流産? 流産って……っ つ、妻は、妻は妊娠していたのか!?」
僕は初めて聞いた事実に驚愕した。
「え!? は、はい。奥様はご懐妊されておりました。……ご、ご存じではなかったのですか?」
「……聞いてないっ そんな話、聞いてない!!」
!!ダン!!
僕は壁を叩きつけ、突き付けられた事実に愕然とした。
その様子を見ていた医師の顔は顔面蒼白状態だ。
彼女が妊娠!?
……だが、心当たりはある。
数か月前…夫婦同伴が必須の夜会。
僕はオリーヴを伴って会場に出席した。
美しい彼女は周りの注目の的だった。
ファーストダンスが終わった後、妻にダンスを申し込む令息たちが続く。
戸惑いながらも、男の手を取り、楽しそうに踊る彼女に僕は苛立った。
僕にはあんな風に微笑みかける事はないのに……!
僕は夫なのに!!
自分の彼女に対する今までの態度を棚に上げ、溢れ出しそうな独占欲が心を占めた。
その気持ちを抑えるかのように、僕は次々にワインを口にしていく。
この時点で、すでに冷静さを失くしていたのだろう。
屋敷に戻るなり、彼女の腕を掴むと寝室へ行き、そして……
「…はぁ…」
深い溜息をつきながら、あの夜の事を思い出していた。
彼女は、自分はジルドーラではないと何度も言った。
そんな事は分かっていた。
分かっていて僕は、君を抱いた。
「…オリーヴ……」
僕は膝から崩れ落ち、床を見ながら彼女の名を呟いた。
「…旦那様…一先ず、お部屋へ戻りましょう…」
執事が僕を抱き起すように立ち上がらせ、支えながら自室へと向かった。
医師がお辞儀をするのが、目の端に映った。
「…一人にしてくれ…」
部屋に着くとソファに崩れ落ち、執事を下がらせた。
「失礼致します」
執事は頭を下げ、静かに扉を閉める。
「どうして…どうして言ってくれなかったんだ…!」
僕は両手で頭を抱えた。
いや…言えるはずもない…あんな形で妊娠したんだ。
それに…結婚後は彼女を本邸に放置し、僕はいつもジルドーラといた。
今まで僕が彼女にしてきた事を考えれば…ジルドーラがいる僕に……何も言えるはずがない…
「…こ…ども…」
僕の…初めての子供。
存在さえ知らずに、消えてしまった……僕の子供…
「…今更君にどう向き合えばいいんだ…っ」
自責の念に雁字搦めになり、その場から動けなかった。
彼女にどんな顔を向ければいいのか、どんな言葉をかければいいのかわからなくて、傷ついているだろう君に会いにいけなかった…
「…すまないっ…すまない、オリーヴ……っ 僕は身勝手で臆病で…卑怯者だ…! すまない…っ…」
誰もいない部屋で、謝罪の言葉を何度も口にする。
そんな事しても何の意味もないのに…
◇◇◇◇
僕にはオリーヴと結婚する前から、ジルドーラという恋人がいた。
彼女と会ったのは、悪友に連れられた下町の居酒屋。
そこで給仕をしていたのがジルドーラだ。
赤い髪に惹きつけられ、同じ色の瞳に色香を感じた。
取り澄ました貴族令嬢にはいないタイプの彼女。
明るく自由で奔放なジルドーラに、僕は夢中になった。
その反面、孤児としてひとりで生きてきた健気さに、庇護欲を掻き立てられた。
彼女と関係を持つまでに、時間はいらなかった。
そして僕は彼女との結婚も視野に入れていた。
平民だが、どこかの貴族と養子縁組をすればいいと思った。
けれど予想通り、両親からは強く反対された。
そんな時に、子爵令嬢であるオリーヴとの縁談話が持ち上がる。
ほぼ確定の婚姻。
ならば…と、代わりに屋敷の離れにジルドーラを住まわすように交換条件を出した。
父は万が一、僕と妻になる女性に子供ができなかった場合の安全策を考えたのだろう。
「愛人としてなら…」と許諾を得た。
だが僕の気持ちを無視して結婚話を勧めた両親に、その相手となるオリーヴに怒りの感情しかもてなかった。
けれど初顔合わせの日、君に会った衝撃を今でも忘れない。
美しい絹のように輝く金髪。
淡い空色の瞳。
嫋やかな仕草。
胸の鼓動が鳴ったが、僕はその感情をすぐに打ち消した。
僕にはジルドーラがいる。
心から愛する人はジルドーラだ!……と。
だから僕はその場を早々に立ち去った。
これ以上、僕の心に君が入らないよう…逃げるように立ち去った
挙式は挙げず、披露宴も行わず、婚姻許可書に互いのサインをして形ばかりの夫婦となった。
初夜となるその日、僕はジルドーラを連れて夫婦の寝室に行った。
そこでオリーヴに僕の気持ちを伝えた。
愛している女性はジルドーラだけ、白い結婚とし、三年後には離縁する事を。
すると彼女は冷静に答えた。
「…承知いたしました」
泣くか怒るかどちらかと思ったが、彼女は静かに答えた。
まるで、そう言われる事を予想していたかのように…
その後、彼女が実家では肩身の狭い思いをしていた事を知る。
彼女の母親はとうに亡くなっており、父親は再婚相手の継母と異母弟を溺愛した。
反面、父親は娘には無関心。
彼女は最低限の面倒しかされてこなかったようだ。
そんな彼女の背景を知った後、僕の心に変化が生じる。
ジルドーラといても、彼女のことを考える事が増えていった。
そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、ジルドーラが前以上に僕に依存するようになる。
「彼女はお飾りの妻なんでしょ? 私を妻にしてくれるのよね?」
「……ああ、彼女とは三年後に離婚する。離縁が成立したら、君を妻にする」
「本邸に行かないで、仕事以外はここで過ごして」
「……分かったよ。いつでも君の傍にいる」
「愛しているわ、ニコラルド様」
「……僕も愛しているよ、ジルドーラ」
自由で奔放な彼女との恋が楽しかった。
けれどオリーヴと結婚してから、ジルドーラの僕に対する束縛と依存が強くなっていく。
彼女と会わせないようにしている事が、ひしひしと伝わった。
最初は嫉妬から来る愛しい言動だと思った。
けれどそれが毎回毎回続けば……煩わしくもなってくる。
ジルドーラに対してそんな感情が大きくなればなるほど、オリーヴへと気持ちが傾いていくのを感じた。
けれどある日、ジルドーラが珍しい事を言い出す。
「ねぇ、たまには奥様とお茶でもしたら? あ、庭園なんて素敵だわっ」
「え? そんな事いうの初めてじゃないか。それにあの庭園は君のお気に入りの場所なのに…」
ジルドーラはいつもは、彼女を警戒していた。
仕事の都合、本邸に戻らなければならない時も、
『すぐに戻ってきて!』
『彼女には会わないで!』
そんな風に言っていたのに…今はオリーヴとお茶をしろと言う。
「だって…形ばかりとはいえ、子爵夫人なのは事実だわ。あまり私の方ばかりに来ていたら外聞もよろしくないでしょ?」
「…まあ…そうだな…」
彼女の言う事も一理あった。
「じゃあ、これ。今巷で人気のレモン味の焼き菓子なんですって。使用人に買ってきてもらったのよっ ほら、今からでも行ってきて」
「…わかった」
この時手渡された焼き菓子は、彼女なりの心遣いと思っていた―――