第2話 望まれない妊娠 2 (SIDE:オリーヴ)
旦那様であるニコラルド・ダンジュール伯爵令息と結婚して1年が過ぎた頃、自分の身体に違和感を感じた。
ここ数日、食欲が湧かず、いつも眠気に襲われる感覚が続く。
ダンジュール家のかかりつけ医には相談できない。
旦那様に知られたら、きっと彼は不機嫌になる。
彼にとって私は目障りな存在だから…
だから酷くなる前に…と思い、私は下町の病院へ赴いた。
ここは主に平民が出入りしている病院。
ダンジュール子爵夫人と気づかれたら後々と面倒な事になると思い、偽名を使った。身形も出来るだけ地味で質素に、髪は無造作に一つにまとめる。
そして受診した結果を医師に告げられ、眩暈がした。
私は待合室の椅子で俯いたまま、未だ動けない状態だった。
(…あの時に、妊娠したのね…)
この妊娠は事故のようなもの。
数か月前の夜会。
夫婦同伴が必須だったから、旦那様は私を伴って出席した。
旦那様はワインをかなり飲んだようで、大分酔っておられた。
屋敷に戻ると、酔った旦那様が私を寝室に連れて行き、そして――――…
私はジルドーラ様ではないと何度も言ったのに……彼は私を抱いた。
ジルドーラの代わり…
結婚して彼に触れられたのも抱かれたのも、あの夜が初めての事だった。
“僕が愛しているのはジルドーラだけだ”
“だから君とは白い結婚とし、三年後に離縁する”
結婚式の夜、そう言ってたのは旦那様なのに……なぜ……
朝方気が付くと、隣にいたはずの彼はいなかった。
シーツには赤い印が残っており、夢ではなかった事を示している。
あの時流した涙は、身体の痛みからなのか心の痛みからなのか分からない―――…
旦那様と閨を共にしたのはあの夜の一度きり。
もともと不順気味だったから、月の物がこなくてもあまりに気かけていなかった。
だけど妊娠したなんて……
「旦那様が私の妊娠を喜ぶとは思えない。ジルドーラ様にお子がいないのなら尚更だわ…」
仮にも夫婦であり、私は正妻の立場。
けれど、妻が妊娠した事を喜ばない夫の方が想像しやすいなんて。
離縁の際は手切れ金を頂ける約束になっている。
もともと実家に戻るつもりはなく、お金を頂いたら平民として生きていこう、そのための準備をしておかなければ…そう心構えをしていたのに、妊娠だなんて……
ひとりなら何とか生活できたかもしれない。
けれど身重の身体でどうすればいいの?
でもこのまま屋敷にいたら、いつかは私の妊娠が知られてしまう。
そしたら旦那様は堕ろせと仰るかもしれない。
ううん、きっとそう言うはず。
彼が望むのはジルドーラ様とのお子だけだから。
けど……
私は自分のお腹の中に在る命にそっと触れた。
この子にとって私は、誰よりも必要される存在。
私は誰かに必要とされる事に、初めての喜びを感じていた。
産みたい
旦那様が拒絶されても産みたい!
このまま旦那様には知られずに離縁できれば…
残り二年まで離縁を待っている訳にはいかない。
ならば、サインした離縁承諾書を置いて出て行けばいい。
けどその後は?
子供がいるこの身体で、どこに行けばいいの?
またこの思考に戻る。
問題なのは、屋敷を出た後だ。
これからどんどんお腹も大きくなっていく。
住むところも探さなければならない。
定期的に検診を受ける必要がある、出産の準備も必要だ。
そのための費用を賄うには?
手切れ金を頂いても、すぐに底をつくだろう。
身重の身体で仕事に就くのも難しい。
実家に帰る事はできないし、頼れるような友人や縁戚などいるはずもない。
どうすればいいの……
答えが出ない絶望の中、ある文字が目に入った。
『母子生活支援団体』
それは病院の案内板に貼られている紙。
そこには聞きなれない名称が書かれていた。
「これは…」
私はそこに記載されている連絡先をメモし、病院に設置されている電話を使って問い合わせた。
対応して下さったのは、優しそうな声の女性。
彼女の説明によれば、『母子生活支援団体』は国からの補助で賄っており、ひとり身の出産や出産後のサポート、生活支援、就労斡旋をしているという答えが返ってきた。現在、住む場所に困窮しているのであれば、共同住宅の入居もできるそうだ。
今すぐあの屋敷を出る事は出来ない為、後日連絡する旨を伝えてその場は終えた。
とりあえず、屋敷を出ても頼れそうな場所を見つける事ができ安堵する。
旦那様に妊娠したことを知られたら、取り返しがつかない。
なるべく早く出なければ!
日を改めて支援団体に連絡をし、共同住宅への入居を申し込んだ。
そして、今後の生活についていろいろ取り決めた。
翌日は旦那様が視察で留守にすると耳にした。
だから私は明日、この屋敷を出るつもりでいた。
持ち出す荷物はさほどない、いつでも出られる。
明日の事を考えると落ち着かない。
そんな時、侍女が思いもかけない事を私に伝えにきた。
「旦那様が奥様と一緒にお茶をご所望です」
「…え? 旦那様が? これから?」
こんな事初めてだった。
けれど、これが最後と思い、呼ばれた場所へ向かった。
設けられた場所は、庭園にあるガゼボ。
彩り豊かな花たちが咲き誇り、とても美しい。
ここに来るのは初めてだった。
いつもは旦那様とジルドーラ様がお使いになっているから。
屋敷を出る前日に入れるなんて…
「「……」」
向かい合わせに座った旦那様の表情は…気まずそう。
お互いかける言葉が見つからず、続いたのは沈黙だけ。
なぜ私とお茶を?
あの夜の事を弁解する為に呼んだのかしら。
弁解も何も……ひどく酔っていたから、覚えていないでしょうけど…
「…食べないのか?」
沈黙を破ったのは旦那様。
「…あ、い、いただきます…」
並べられたクッキーは、ほんのりレモンの香りがした。
とても美味しくて、枚数が進む。
「あの…旦那様…何かお話でもありましたか?」
「……え? い、いや…」
(でしたらどうして…)
このお茶会の理由を尋ねようと思った瞬間、突然お腹に痛みが走った。
ガチャン!
「……っい…っ」
「…君は…お茶もろくに飲めないのか…」
旦那様の呆れた声が聞こえる。
(お腹…痛…っ 赤ちゃ… 私のっ…! 助…け…て…)
声にならない!
ガッターン!!
私は痛みのあまり椅子ごと床に倒れた。
記憶はそこまでだった―――
次に目が覚めたのは自室のベッドの上。
傍には医師がおり、私が流産した事を告げた。
「…そうですか…」
生まれて初めて私を必要としてくれた存在。
私に生きる意味を教えてくれた存在。
あなたがいる場所が私の居場所。
なのに………もういない……
空っぽになったお腹に手をあてると、目から一滴の涙が零れた。
医師が退席したあと、ノックもせずに誰かが入って来た。
ジルドーラ様だ。
「流産したんですってね、ふふふ」
「……」
嬉しそうに話すジルドーラ様の言葉を、私は黙って聞いていた。
「私、妊娠したのよ。旦那様にはまだ言っていないけど」
「え…」
「そんな時、あんたも妊娠したと聞いたの。最近、あんたが食事を摂らず、具合が悪い様子を目にしたって侍女から報告を受けたのよ。いやな予感がしてずっと見張らせていたら、病院に行ったというじゃない。金を握らして看護婦を買収し、あんたの事を聞いたわ!」
この屋敷では、私よりジルドーラ様が使用人たちへの影響力が強い。
次期当主であるニコライド様の寵愛を受けているのだから当然だ。
私の動向が、逐一ジルドーラ様に報告されていたのね。
「彼の跡継ぎを生むのはこの私よ! 私以外の女が産むなんて許すはずがないでしょ! 彼が珍しくあなたをお茶に誘ったのは私が頼んだからよっ あなたにあのクッキーを食べさせるため!」
「…クッキー…?」
…クッキー…レモンの香りがしたあのクッキーの事……?
「そのクッキーには、レモングラスというハーブから抽出した子宮収縮作用がある液体を混ぜた物が入っていたの。レモンのような香りがしなかった? 妊娠初期に摂取すると早産しやすいんですってっ こんなに効果覿面とは思わなかったけど、流れてくれてよかった! はははっ!」
「……」
私は黙って、彼女の言葉を聞いていた。
「あんたなんかこの家には、不要なのよ!」
そして話すだけ話したら満足したように、笑いながら部屋を出て行ったジルドーラ様。
「…旦那様は私の妊娠をご存じだったのかしら……いえ…もうどうでもいいわ……」
珍しくお茶に誘って下さったから、おかしいとは感じた。
まさか彼女がこんな事をするなんて…
今の私にできる事は、ただ両手を強く握り締めることだけ。
そして、旦那様が私の部屋を訪れる事はなかった……