一時間目
(六)
「ねえ、沙耶。ドアを開けてよ。話しよう」
みつきは固く動かないドアノブに手をかけながら呼びかけた。
「いいから帰ってよ。話すことなんて何もない」
「そんなこと言わないで。何か力になれるかも知れない」
「みつきに何が出来るって言うの?もう放っておいてよ」
二人が言い合っている所へミズルがやって来る。
「どけ」
みつきをどかしたミズルはドアノブに手をかけた。
「先生、鍵がかかってるから開かな…」
みつきが言い終わる前にミズルは「学校に来い!」とドアを腕力でぶち開けた。
鍵が壊れ、蝶番が外れたドアをミズルは部屋の壁に立て掛ける。みつきはポカンと口を開けて外れたドアとミズルを何度も交互に見た。
「やっぱお前が来ないと俺がインチキしてもバレるらしい。だから明日から学校に来い」
ベッドに腰かけていた沙耶も何が起こったかわからない様子だったがすぐに立ち上がって敵意を向ける姿勢を取った。
「何してくれてんの?弁償して貰うよ」
「お前が学校に来るなら何でもしてやるよ。いいか?明日から学校に来いよ。絶対だからな」
「だからふざけないでよ」
「先生はふざけてないよ」ミズルと沙耶の間へ割って入ったみつきは「沙耶、先生は本当に学校に来て欲しいんだよ」と続けた。
「だからあんたはこの体の私に学校へ来いって言ってんの?それがどれだけ酷いことか分からないの?」
「それは…」
「みつき、見てよ!私の体!私はもう人間じゃないんだよ!」
沙耶はみつきに近づいてみつきの腕をつかんだ。
「つ、冷たい」
「でしょ?人間の体温じゃないでしょ?それでも学校に来て欲しいんなら、みつきも私みたいな体になってよ」
「え?」
「伝染してあげるよ。一緒に人間を辞めよう?」
沙耶の体を間近で見たみつきの体は恐怖に震えた。
髪の毛や耳や鼻の形など人間の特徴は僅かで、ほとんどが爬虫類の特徴だった。
人の言葉を話す巨大な爬虫類。
それが今の沙耶だった。
けれども沙耶は沙耶だった。
みつきにとって目の前に立つ巨大な爬虫類はずっと前からの友達である沙耶だった。
姿形が変わったからといって過去の思いでまでが変わる訳じゃない。
過去からの積み重ねがみつきの友達である今の沙耶なのだから。
「いいよ。一緒に人間を辞めよう。私も沙耶みたいになる。そしたらずっと友達でいられるじゃん」
沙耶は戸惑った様子でみつきから手を離した。
「じょ、冗談に決まってるでしょ。伝染すことなんて出来ないんだから」
そしてみつきの体をトンと突き飛ばす。
みつきはミズルの胸にぶつかった。
その目からは涙がこぼれていた。
「お願い帰って。そしてもう来ないで。みつきにはもっとふさわしい友達が出来るよ。人間の友達が」
「私は沙耶が良いの!沙耶だから友達になったんだよ!」
「ありがとう。だけどね、私はもういいの。なんとなくわかってたんだ。私は元には戻れない」
「私が何とかする!沙耶をもとに戻す方法を絶対に見つけ出す!だからずっと友達でいてよ!」
「ごめんね。だけどこれが私の運命なんだよ。これからは誰にも会わず、ひっそりと影を潜めて、この世界の隅っこで、死ぬまで闇を見つめていく。そういう運命」
沙耶の言葉にみつきは出す言葉が見つからなかった。
思いの丈は全てぶつけた。
それでも沙耶には届きそうにない。
沙耶はすでに全てを諦めていた。
「お前は部屋から出てろ」
ミズルがみつきを部屋の入り口へ促した。
「先生は?」
みつきはミズルの顔を見上げた。
しかしメガネが光りどんな目をしているのかは分からない。
「何度も言わせるな。沙耶の母親の所へ行ってろ」
ずしりと体にのし掛かるような低く重たい迫力のある恐ろしい声にみつきは従い、ドアの無くなった入り口から廊下へと出た。
「まだ何か用なの?あんたも出てってよ」
沙耶はベッドでに座り込んで手で追い払うしぐさを見せた。
そんな沙耶にミズルは足早に近づき頭を鷲掴みにすると顔を覗き込んだ。
互いの鼻の先が触れそうなほどに近い距離。
「な、何すんの?」
沙耶は顔を背けようとするが頭を押さえるミズルの凄まじい力で首はびくともしない。
「お前、ずいぶんと呑気なんだな」
「な、何がよ?」
「お前に憑いてんのは蛇だぜ。しかも悪質な奴だ」
「え?」
「お前はこの先静かに暮らしていくとの事だけどよ、そんな平穏があると本気で思ってるところが哀れで救われねぇな。お前はこれから蛇に体を乗っ取られていく。そして次第に脳も奪われる。そうしたらもう理性なんてもんはねぇ。最初は家族を襲い殺すんだろうな。その後は近所のやつらか。ひょっとしたら友達かもな。なんにせよお前は殺されるまで人間を殺し続けるんだよ」
ミズルは脅すような冷たい声で言った。
沙耶はゴクリと喉を鳴らした後、「ふぅー」と微かな息を吐いて「だったら自殺するよ。もうこの先の人生に光がないのなら生きる意味なんてないでしょ?」と口にした。
その途端、ミズルの眉がつり上がった。
沙耶の着ていたピンクの寝巻の胸ぐらを掴みベッドから引き起こす。
「おい、お前は人間だろ?自分が助かるためにはどれだけでも醜く浅ましく、不様になれる人間だろう?そんな人間がクソ神みたいに全てわかってます。これが私の運命ですみてえなツラをして自分の不幸を受け入れてんじゃねえよ。俺はお前みたいな悟ったフリした人間が一番嫌いだぜ。なぁ、本当は怖いんだろ?苦しいんだろ?悔しいんだろ?希望の光なんて見えなくても何かにすがりたいんだろ?それが神でも例え悪魔でもよぉ!そんな時、人間はなんて言うんだ?言えよ!ギャアギャア泣きわめいて地べたを這いずり回り泥をすすり惨めな姿を晒して、それでも顔を天に向けて叫ぶ言葉が人間にはあるだろうが!それは何だ!」
沙耶の感情の読み取れない爬虫類の目に涙がじわりと浮かぶ。
ミズルが胸ぐらから手を離すと、沙耶は全身を震わせて膝から崩れ落ち、床に伏してミズルに土下座するような形になった。
そして顔を上げる。 ミズルと目が合った。
「こんなのズルい!どうして私だけがこんな目に遭うの?こんな運命、納得できない!お願いです!神様!助けてください!誰でもいい!どうか私を助けて!」
わんわんと泣き出す沙耶をミズルは満足気な顔で見下ろす。
「ひひひ、それでこそ人間だ。不様でよぉ、良い顔すんじゃねぇか」
沙耶の髪の毛を掴んで顔を近づけるミズルは耳まで裂けた沙耶の大きな口へ腕を突っ込んだ。
「う、ごぐぐぐ…」
沙耶は苦しそうにミズルの腕に爪を立てるがミズルは意に介さず「こいつだろ」と腕を引っこ抜いた。
ミズルの手には青い蛇の首元がつかまれている。
「おえええ」
えずく沙耶の口からは唾液や胃液にまみれた青い蛇の長い体がどんどんと引きずり出されてついに尻尾の先が外に出た。
「がはぁ」と床に倒れ、荒く呼吸をする沙耶の体に鱗はもうない。
口も元の大きさに、涙に濡れた目も人間の感情を持つ瞳に戻っていた。
「こいつは土地を納める者、東洋で言うところの神になり損ねた化け蛇だろうな。百年ほど生きて神になろうとしたが徳が足らず堕ちて悪魔になったって感じかな」
ミズルの腕に絡み付く蛇は長い二本の牙をミズルの手の甲に突き立てた。
舌打ちしてミズルが手を離すと青い蛇はボトリと床に落ち、窓の方へ向かってスーっと姿を消した。
「ほっとけばまた来やがるな」
ミズルは手の甲から流れる血をペロペロと舐めながら部屋を出た。
「せ、先生!中で何が?」
心配そうな顔をした沙耶の母親とみつきが階段の下にいた。
「明日、学校へ来るようにそいつに言っとけよ」
それだけ言い残して二人の間を通り、ミズルは玄関へと向かった。