貝殻の思い出
これは今から十年ほど昔の話で、誰かに話したのは、これでだいたい三回くらいになる。君がこの話を信じるのかはわからないが、もしも君が信じてくれたのなら、僕はとても嬉しく思う。僕はこの体験で、海はまだ人類には未知の領域であるのだとはっきり気づいたし、人類が海に引かれる理由なんかもなんとなく気づけた。十代って驚きの連続だ。僕はこの時、本当に貴重な体験をしたのだから。
実家が海岸にある僕にとって、貝殻というものは、意図も簡単に手に入れることができる代物であった。大きなものは少ないが、小さなものでも形の良いもの、色の美しいものなんかは探すと割と多く、近所の少女たちはこぞって海辺に貝殻を拾いに集まっていた。噂で聞いたのだが、なにやら貝殻でアクセサリーを作って、その裏に絵を彫って保存し、三年後に意中の相手に渡すことで、結ばれるそうだ。冷静に考えれば、そんなものはただの噂で、そのほとんどの実行者は、三年後には貝殻のことなんか忘れて、別の相手をまた追いかけ始めているのだろう。恋愛は、幻覚と似ている。どちらも一瞬の出来事であり、深く脳内を侵食してしまう。僕はそんな恋心が許せなかった。
浦田涼真、十三歳。先ほど失恋したばかりで、絶賛傷心中である。
一口に『失恋』といっても、幾つか種類が存在する。一つ目が、自身から相手に思いを打ち明けることで、相手の本命を知ってしまうことだ。恐らく、人類のほとんどは、こちらが頭に浮かぶ割合が圧倒的に多いのだろう。そして二つ目。それはこちらが意図せず相手の本命を知ってしまうことだ。こちらは自分の様な敗者にとって最も相応しい失恋の仕方なのだが、前者よりも受けるダメージが多いことを踏まえると、喜んでダメージを受けるような真似はしない。今回僕が経験したのは、後者の方である。意中の相手である川原亜希と、その友人の南雲茜の恋ばなというものを、偶然耳にしてしまったことが原因だった。
「亜希ちゃんはさー、好きな人とかいるの?」
教室の隅で本を読んでいた僕は、その会話にひっそりと耳を傾けていた。緊張と期待で、心臓の鼓動が速くなる。
「…青木、優斗くん…」
頬を若干染めながら語る彼女は、本当に彼のことが好きなようで、顔を手で覆い、足をばたつかせた。僕は意識を本に戻し、胸にどす黒い物体を抱えながら、休み時間を過ごした。
その後の記憶は曖昧だ。恐らく、ショックで脳が記憶を外に漏らしてしまったのだろう。授業内容まで曖昧なのは最悪だ。只でさえ学力は中の下なのだから、これ以上落ちたくはないのだ。
…いつまでも不満を垂れていても仕方ない。僕はこの失恋を乗り越えて、前に進まなければいけないのだ。
僕は思考したこととは矛盾して、指で足元の貝殻をつつく。海の砂は若干湿っていて、貝殻も同じように濡れていた。人差し指でひょいと裏返すと、虹色の光沢が輝いていた。女々しいと馬鹿にされるかもしれないが、僕も一度、貝殻のブレスレットを作り、三年ほど待った記憶がある。その期限が今日だったし、結果的に、僕は失恋してしまったのだが。
「すみませんが、ちょいと話を聞いてはくれませんかねぇ」
僕はこの時本当に驚いた。人が来る気配も音も感じなかったのだ。加えて、目の前にいるのは海亀だった。これは何かのドッキリだと思うのも、無理はないと思う。
「…ど、どなたですか、急に」
僕が動揺したのは、驚いたからと、長年自分と話せる友人がいなかったから、つまり、単にコミュニケーション不足が原因である。
「わしは海亀じゃ」
人間は急に驚くと、声が出ないものなのだろう。僕はこの瞬間、どくりと心臓が動いただけで、声なんかは出なかった。
海亀は、僕が驚いていると知ってか知らずか、ゆっくりした口調で続けた。
「わしは長い間生きとる亀での、今年で二百歳になるのじゃ。この村ーーいや、町には、何度か流れ着いたことがあるんじゃよ。そこには浦島太郎という男がおってな、彼は肝が据わってて、優しい男だった。浦島太郎は、かつてわしが会った女を、貝殻の飾りを手がかりに、探してくれたんじゃ」
僕は気づけば、その話に聞き入っていた。この話が本当なら、例の恋の噂はここから来たようだ。噂に乗ってブレスレットを作ったからこそ、物語の最後が気になってしまった。「…その女性は、居たのですか」
海亀はかぶりを振った。僕の心から期待が消え、代わりに残ったのは、虚しさだった。
「いや、彼女は、もう亡くなっていた。わしは、何十年も生きれることを知らずに生きてきとったからな。じゃが、彼女は貝殻の飾りを残していてくれたんじゃ」
海亀は僕がつついていた貝殻を見て、嬉しそうに笑った。本当に彼女のことが好きだったんだなと、僕は少し痛む心臓の中で思った。
「そのおかげで、わしはその孫と会うことができた。何の縁なのか、彼女の孫は、浦島太郎だったのじゃよ。わしは、それから人間に興味を持ったのじゃ。人間は何年生きれるか、仲間たちから聞いて回った。浦島太郎とは会う約束をしていたから、彼が生きとるうちにと、亀らしくなく、焦っとった」
亀の甲羅が乾いていて気になったので、僕は亀がゆっくり話をしている時、そっと肌に海水をかけてやった。亀はひぇひぇと笑った。
「今日がその約束の日じゃ。浦島太郎はいるかのぅ」
浦島太郎という男は、恐らく偽名を使ったのだ。自分の祖父も似たような話をしてくれた時があり、祖父の名は、浦田四郎といった。
「ああ、いるよ。まだ歩けるから、来てもらおうか?」
僕は亀の動きを見て、そう判断した。申し訳ないのだが、亀は少しのろまだ。会話だってゆっくりとしか出来ない。しかも、さっきの話が本当なら、亀にとっての一時間は、一瞬の出来事なのだろう。
「そうさな、お願いしようかねぇ」
僕は亀が幸せそうな顔をしているのを、見逃さなかった。
僕の家は、走って十分の高台に建っている。祖父は今年で五二歳。健康のために運動は怠らないし、まだまだ元気なじいさんだ。
「おじいちゃん、一緒に海に来て!」
帰ってきて早々祖父を呼び出す僕に、母は少し腹が立ったようだ。
「ちょっと涼真!帰ったらまず『ただいま』でしょう!」
祖父は椅子から立ち上がり、母をなだめた。
「まぁまぁ…。それで、涼真。急にどうしたんだ?」
母はまだ何か言いたげだったが、祖父が掌を上げると、ぶつくさ何かを言いながら、家事をしに戻っていった。
「海亀が来たんだ!おじいちゃんが言ってた、あの海亀だよ!!」
僕は興奮していた。祖父に会いたがっていた亀と祖父が、やっと会えるのだ。だから僕は、この物語の終わりを迎えることになる。それはとても光栄で、光輝くようなことだと感じていた。
「…そうか、あの海亀が…」
祖父は手で顔を覆うと、深呼吸を何度か繰り返し、最後に息をふっと吐くと、笑顔で僕の手を握った。
「……行こうか、涼真」
僕は跳ねるような心地で扉を開いた。いつの間にか、空は夕焼けで赤くなり始めていた。
亀は先ほどと同じところにいた。海の奥の方を見て、感傷に浸っているようだった。
「海亀!連れてきたよ!!」
海亀はゆっくり此方を向いた。真顔だった表情に、段々と喜びの感情が芽生える。
「…おお…、ようやっと……約束が守れたのう…!」
祖父は海亀の前でそっと片膝をついた。
「…久しいな、亀よ」
祖父の顔は何かを堪えているようだった。祖父のことを見た海亀は、右側のヒレを差し出す。
「…わしもそろそろ歳じゃ。お前さんの顔も、もうはっきりとは見えなくなってしまった…。最後に、ヒレに感触を覚えさせてくれんかのぅ…」
祖父は海亀のヒレを優しく握った。そして、とうとう祖父の目から雫が落ちた。それは悲しく、海水を吸い上げた砂に溶けていった。僕は突っ立ったままその様子を見て、目頭が熱くなった。…邪魔しないように、そっと我慢したけれど。
「…もう、空が赤いのぅ…」
すっかり赤く染まった空を見て、亀は海を見る。僕らもつられて海を見ると、夕焼けが海を映して、まるで二つのガーネットのように、光り輝いていた。祖父はそっと、握っていた亀のヒレを離すと、こう言った。
「…またな」
海亀は祖父の方を見て、そのしわくちゃな顔をさらにしわくちゃにした。
「千歳まで、生きてやるからな!」
最後に海亀はそう言うと、小さく笑って海水に身を任せた。亀が見えなくなるまで、僕はまるで石のように動くことができなかった。
僕は満足した心地で祖父の元に向かった。祖父はきっと笑顔で家に帰れる。そしたら、母だって怒らず、僕に優しくしてくれるだろう。
しかし、僕が駆け寄ると、祖父は大声を出しておんおん泣いた。
「…おじいちゃん?」
僕は不審に思った。『またな』と約束も出来たし、亀は笑顔で帰っていった。出来すぎたと思えるくらいのハッピーエンドだった。
…この時僕は、自分がどのようにして間違いを犯したのか、忘れていたのだ。僕がもっと冷静に物事を進められれば、こんなことにはならなかったのだろう。
「…俺は、あいつに嘘をついた…!」
僕は最初、『またな』というのが嘘だと思っていた。それならまだ僕に擁護できると、本気で思うくらいには浮かれていたのだろう。
「俺は、浦島太郎なんかじゃねぇんだっ…!」
浮かれていた心臓が、急に動いたように感じた。頭は働かず、疑問がこみあげてくる。
「…それじゃあ…『浦島太郎』って…誰なの…?」
祖父は、僕の疑問に対して、ゆっくりと語ってくれた。
祖父は四人兄弟だった。
一番上から、一郎、次郎、三郎、四郎というらしい。歳は長男から末っ子では、十歳以上離れていたが、四人とも、仲が良かったらしい。浦島太郎と名乗ったのは、長男で正義感が特に強かった、一郎だったそうだ。当時小さな村だったここで、一番の働き者と言われ、英雄という意味で『浦島太郎』と呼称されることが多かったらしい。
「…実はな、涼真も一度、一郎伯父さんに会ったことがあるんだ」
僕は記憶を巡らせた。しかし、僕のちっぽけな脳では、記憶の片鱗すら見つけられなかった。
「…そうだったの…?」
祖父は僕の頭をそっと撫でた。ゴツゴツした、海の男の手だ。
「……三年前、葬式があったろぅ…?」
その言葉ではっきりと僕は思い出した。確か、何処かで『浦田 一郎 様』という文字を見た気がする。目を閉じている姿しか見たことがなかったが、確かに祖父に似ていたと感じた記憶があった。
「…あと三年くらい待っていれば、亀に会えたってのになぁ…」
祖父は悲しそうに夕焼け空を眺めていた。僕は体育座りをしたまま、膝のなかに顔を埋めた。
まだ赤いままの海で、ただ潮の満ち引きの音だけが、いつまで経っても、僕の耳から消えることがなかった。
これが、僕が十三歳で体験したとある日の出来事だ。
現在の文献には乗っていないが、喋る海亀がいるかもしれないし、深海には竜宮城があるかもしれない。そういうことを、研究途中に想像するのも良いんじゃないかと思う。
だから君も、一度は作ってみて欲しい。
裏に魚の絵を彫った、貝殻のアクセサリー。
もしかすると、君にも不思議な幸運が訪れるかもしれない。
…それでは、研究に戻ろうか。
浦田涼真は海洋生物についての論文を出し、研究者として生きていきます。その後、海亀がどこにいったのか、またこの場所に来られたのかは、誰にもわかりません。