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裏界線と裏世界と切風2

 そう言われた山次が、面白くなさそうに、忍装束の男――これは魏良というらしい――の傍らへ引き上げていった。


「故ってなに? ああ、猿は答えなくていいよ。魏良、お願い」

「……我ら信州妖怪、長らく、人にあだなすことは控えてきたが。そうも言っておれんようになった。妖怪が力を増すには、人を食らうのが手っ取り早い。人の血肉は妖力の格を上げるからな。あまり無秩序な真似は、せんようにはしたいが」


 そうもいかん、と魏良が嘆息する。


「なにそれ。……魏良、お前がこの辺り仕切ってんだろ。お前ら、なにやってんの?」

「切風、お前こそ、みだりに人間側に立つような真似はもうよすのだ。その娘とも、特段懇意というわけではあるまい?」


 魏良がそう言うと、その場にいる全員の目が、茉莉に向いた。


「あ、の……」

「ん? 言いたいことがあれば言っていいよ、茉莉、だっけ」


「皆さん……妖怪、なんですか?」

「そう。そして、あんたを食べようとしてる」


「えっ!?」

「いや、聞いてたっしょ、話」


「で、でも、そちらの魏良さんという方は、理性的というか、紳士的な感じがしたんですけど」


 ちらりと茉莉が目をやると、魏良はばつが悪そうにしながらも答えてきた。


「いや。ここまで我らの身をさらした以上、あなたを人里に返すわけにはいかぬ。すまないが、ここで食らわせてもらう。わざわざこんなところまで踏み込んできたのだ、覚悟の上であろう」

「な……」


 茉莉は、数歩後ずさった。

 しかし遠目にも、魏良が同じ歩数分だけ前に詰めたのが分かる。逃がす気はないのだ。


「ま、待ってください。私はここに、この南信州は飯田市に引っ越してきたばかりで、個人的にはなんの縁もゆかりもなかった土地なんです。少し夜の散歩に出ようと思って、市内の近所をうろうろしていただけで。なのに、ここはなんなんです、いきなり辺りに人の気配はなくなるし、スマホは通じないし、妖怪は出てくるし、挙句食べられそうになってるし……! 長野県ってこんな感じなんですか!? いくら山が多いからって!?」


 途中からどんどん早口になっていった茉莉に、切風が目を丸くする。


「え。茉莉って、ここがなんだか知らないで来たの? 確かに信州の飯田市から入る(・・)ことはできるけどさあ」

「……入る?」


「ははあ、分かったかも。茉莉の越してきたところって、飯田駅の近くの、林檎並木のあたりでしょ」

「そうです……けど。どうして分かるんですか?」


「で、かなり適当に、ぐるぐる歩き回ったなあ?」

「私、知らない土地をあてどもなく歩くのが好きで……。いえ、だからっ、どうして分かるんです?」


「あそこには、裏界線(りかいせん)があるんだよね」

「りかい、せん?」


 妖怪たちが、ああ、そうさのう、とうなずき合っている。

 茉莉だけが取り残されていた。ただ、確かに、いくつもの細い路地の集合が珍しくて、ひたすらにほっつき歩いていたのを思い出す。

そうしたらいつの間にか、見慣れない建物ばかりのこの場所にたどり着き、辺りに人気がなくなり、あの猩猩に追い立てられたのだ。


「裏の世界の線、って書くんだよ。なんだか怪しげな名前だけど、それ自体はただの細い裏路地でさ。縦横に何本も走ってて、町を区切ってる。飯田が昔大火事に見舞われた後に、防火のために作ったとか言ってたかな」

「は、はあ……。そのリカイセンが、どうしたんです?」


「裏界線は、言ったとおり、ただの路地だよ。でもそれを、決まった順番、決まった道筋で、決まった回数歩くと、この裏世界への門が開く。茉莉はそれを通って、ここへ来たんだ」


 切風が周囲を指でさす。

 茉莉も、改めて辺りを見回した。

 朽ちかけたビル。少し離れたところには、日本家屋の屋根らしいものも見える。鬱蒼とした森。遠くには山。月だけで、星のない夜空。

 茉莉がいつも過ごしている世界と、なにもかもが似ていて、少しずつ違う。


「裏世界……」

「そういう門は国の中のあっちこっちにある。たまたま、裏界線がその一個だってだけ。茉莉、迷い込んじゃったね」


 そう言って、切風はけらけらと笑った。

 さく、さく、と下草を踏んで――地面は、アスファルトと草地が無秩序に入り混じっていた。ようやく、その異様さに茉莉は気づいた――、魏良が二人に接近してくる。

 茉莉は身を固くした。


「娘よ、不運だとは思う。だが、だからと言って見逃すわけにはいかぬ。苦しまぬよう始末してやるから、さあ、こちらへ」


 魏良が手を伸ばした。

 とっさに走って逃げようとした茉莉は、しかし、妖怪に背を向ける恐怖心から、相対したままの状態から動くことができなかった。

 一度体が静止してしまうと、人ならざる者が放つ恐怖に、茉莉は打ち勝てなくなって、固まった。

涙がこぼれそうになり、あまり長いとは言えない、今日までの半生が高速で頭の中に展開した。

――なぜか、腹の奥がやけに熱くなった。

 そして深緑色の忍装束の男の手が、茉莉の腕をつかみかけた時。

 切風の手が、魏良の肘をつかんで、それを阻んだ。


「切風。どういうつもりだ」

「見逃してやろうよ」


 魏良の視線が鋭くなった。


「今一度問う。どういうつもりだ?」

「この子は、好き好んでここにきたわけじゃない。一人ぼっちで、戦う力も持たないで、いるべきじゃない場所に迷い込んだわけでしょ。……同じじゃないか、おれと。おれたちと。おれは敵は殺せるけど、そんなやつは手にかけらんない」


「お前にやれとは言っておらん」

「見て見ぬ振りしたなら、やったのと同じだよね。おれ、そういうやつになりたくないな」


 魏良の眉間にしわが寄る。まだつかまれていた肘を、強く払った。


「切風。貴様が我らと共に暮らしながら、どこか一線を引いていたのは知っている」

「えっ? いやおれ、一線なんて」


「だがこれは、仲間を危険にさらす裏切りとなろう。我らは、すでに人への敵意を示したのだ。この娘が、人間を引き連れて裏世界に攻め込んできたならなんとする」


 慌てて茉莉が一歩踏み出す。


「わ、私、そんなことしません!」

「さえずるな! 言葉が通じれば意思が通じるなどと思うなよ、我らは人とは別種の理の内にあるのだ。我らあやかしの歴史は、人との欺き合いの歴史でもあることだしな。……切風」


 魏良は再び切風をにらみつける。


「これが最後だ。いやそうさな、我らの群れへの忠誠の証に、その娘の首をお前の手で取れ。さすれば――」

「……嫌だね。茉莉が死ななくちゃならないとは、おれは思わねえから」


 それから、十数秒。二人は、手を伸ばせば届く距離でにらみ合った。

 そして、魏良が、ぷいと背を向ける。


「お。分かってくれたと思っていいんだよね、魏良?」


 魏良は振り向かず、背中で答える。


「ああ。分かった。お前は、たった今この場をもって、我が群れを追放する」

「つ――っ?」


 それまでどこか弛緩した余裕を持ち続けていた切風が、はっきりと動揺を見せた。

 絶句して、口をぱくぱくと空転させている。


「当然であろう。お前は自らの意志で、我らとたもとを分かったのだ」

「ち、違う。それは誤解だって。むしろおれたちだからこそ、」


「お前はもともと、人に近しくして生きてきた妖怪だ。我らと無理に相いろうとすることはない。……お前とその娘を今ここで討たずにおくのは、最後の情けだ」


 後ろにいた妖怪たちがざわついている。

 中には「手ぬるい」「首を取れ」「人間を帰すな」という声も上がっていた。魏良がそれを手で制する。

 切風が慌てて、そこへ声をかけた。


「わ、分かった、さっきのうそうそ、この子殺せばいいんでしょ!? オーケー了解、やっちゃおうかなー! そーれ食べちゃうぞー!」

「えっ!?」と茉莉。

「好きにしろ」と魏良。


 切風は、おどけているとしか見えない、大人が子供を「お化けだぞー」と驚かす時の姿勢で静止していた。


 魏良が妖怪たちの辺りまで歩きつくと、一団の気配が一気に薄くなっていった。

 彼らの背後には森があったのだが、まるでそこへ溶け込むように、妖怪たちの輪郭はおぼろげに淡くなり、やがて消えた。

 静寂だけが残る。

 切風は、地面に膝をついていた。さっきまでとは打って変わってがっくりと肩を落とした様子が、まるで子供のように見える。


「あ……の。切風、さん」

「……ん。よかったじゃん、茉莉。助かって……」


「……最後、殺そうとしてませんでした?」

「あんなの振りだけ振りだけ。見抜かれてたなー、どうも。ははは……。魏良だって、本気で茉莉が妖怪をやっつけにくるなんて思ってねーよ。ただ最近どうも皆ピリついてるから、そう、あれもそういう振りだな……たぶん」


 茉莉は、切風の横にしゃがみ込んだ。


「ありがとうございました、助けていただいて。……私、どうしたらいいでしょうか」

「どうって、なにがあ?」


 軽薄そうな声とは裏腹に、切風の視線は焦点を合わせず、ただ向こう側にある森のほうを見ている。

 切れ長の鋭い目に、全く力がこもっていないのが、いかにも痛々しかった。


「私のせいですよね……群れを、追われてしまったのは」

「追われた……追われたかー……そうだね……」


 茉莉が、重ねて謝ろうとしたが、それより先に切風が続けた。


「ははは、そうなんだよね……おれ、また一人になっちゃったなあ……せっかく、おれにも手に入ったと思ったのにな……。一線引かれてた、か……へへ……そうだったのかなー……」


「手に入ったって、なにがですか……?」

「家族」


 ぼそりとつぶやいて、切風が立ち上がった。


「行こうか。裏世界は、生身の女の子が長居するとこじゃないね」



 二人は、森の中の獣道を歩いていた。

 茉莉は、裏世界へ来る時にこんな道を通っていない。しかし、切風がこれが帰り道だというので、大人しくついてきている。


「あの、さっきは途中になってしまいましたけど」

「うん?」


「私、どうしたらいいでしょう。切風さんのために、なにかできることありませんか?」

「あー。いいよいいよそんなの。おれの群れ抜けのことなんて気にしてんだ? 人間って律儀だよねー」


「だって、私の気が済みません。命を助けてくださったんですよね?」

「そうか。そんなに値打ちのあるもん助けたんなら、タダってほうが失礼かな。考えとくよ。……あ、ほら」


 獣道の先が、ぼんやりと明るくなっているのが見える。

 それが人里の生む人工の明かりだということが、茉莉にも分かった。


「とにかく一度出るからさ。そしたら裏世界の入り方も教えるよ。入り方が分かれば、もう入らなくて済むでしょ」

「は、はい、ありがとうございます。……あの」


 茉莉が足を止め、数歩先を言っていた切風が振り返る。


「どした?」

「さっき、妖怪の……魏良さんでしたっけ。これからは人間に危害を加えていく、みたいなこと言ってませんでした……?」


「言ってたね。でも茉莉は、今日のことで、いわゆる霊感みたいなものが強くなったと思うから、妖怪の類で怪しいやつがいたら見えるさ。そしたら逃げりゃいいよ」

「あ、そういえば私、小さいころから霊感強いみたいなんですよね。寝てる時に幽霊にのしかかられたり、ここに越してくる前は千葉に住んでたんですけど、小さい山でキャンプしたらお化けが寄ってきたり……」


「ふうん。もともといいカンしてるんだ」

「でも、もしかして私、ただ帰るだけではいけないのでは……。私だけが安全でいてもいけませんし」


 切風が首をかしげた。


「なんで?」

「これでも人間なので、人間が襲われるようなことがあるのなら……防がないと」


 切風が、さらに深く首をかしげる。


「なんで? ああ、茉莉の家族とか仲間とかが襲われるのが心配?」

「それ以外もです。町の人とか、とにかく人間みんなですよ」


 切風が、首をかしげすぎて、上半身が地面と水平になるほどに傾いた。


「わっかんないな。自分と身内以外のことを、なんで気にするわけ?」

「そんな。切風さんだって、見ず知らずの私のことを助けてくれたじゃないですか。しかも私、妖怪ですらないのに」


「おれはただ、おれより弱いやつのことはいじめないって決めてるだけだよ。ま、理解はできないけどちょっぴり納得はした。とにかく出ようよ、ここ。もう少しだからさ」

「……はいっ」


 そう言って、二人が歩き出した時、頭上の枝が音を立てて揺れた。

 風ではない。

 小鳥でもない。

 もっと大きくて、重そうな。

 たとえば、さっきの、大猩猩のような――


 どすっ。

 茉莉は再び、その着地音を聞いた。


「切風えええ……」

「なんだ、猿。まだなにか用かよ」


 果たして、二人の道をふさいで立ちはだかったのは、山次だった。

 その形相は、さっきよりもさらに激しい感情が込められて、顔がしわだらけなのが茉莉にも分かる。


「ひ……ひあ……」


 切風が、茉莉に「下がってな。でもあんま離れないでね」と告げた。


「切風、この犬ころが。お前を殺す。その人間ともども、食ってやる」

「魏良に怒られんじゃねえの?」


「魏良が決めたのは、お前を追放することだけだ。殺すなとは言っておらん」

「似たようなこと言っただろよ」


「あの場ではな。だから、ここまで辛抱してやったのよ。切風、お前はわしに恥をかかせてくれたから殺す。そっちの小娘は、食ってわしの妖力の(にえ)にする」

「別に恥なんてかかせてないじゃん。ちょっと投げつけてやっただけで」


 山次が、牙を剥いて咆哮した。

 茉莉の足に、びりびりというしびれが走る。


「牙も持たん貴様にいいようにあしらわれれば、十二分な屈辱よ! まずは娘のほうからもらおう! そこをのけえ!」

「ちっ!」


 山次が跳ねた。

 切風が迎え撃つ。

 山次が突き出してきた右手を、また切風が取ろうとした。

 しかし山次は体ごと右に跳び、傍らにあった木立を蹴って、切風をかわして茉莉を狙う。


「しまっ……茉莉、逃げ――」


 逃げる。茉莉もそれは承知していた。しかし、さっきの山次の凄まじい吠え声を聴いてから、足が萎えてしまっている。


「くそっ!」


 切風の声と、茉莉が目を閉じるのが、同時だった。

 それからほんの二三秒。

 茉莉が目を開けると、すぐ先に、切風の黒い和服の背中があった。体のどこにも痛いところはない。切風が守ってくれたのだと、礼を言おうと思ったが。


「切風さん!?」


 切風の右腕には袖がなかった。山次に引きちぎられたに違いない。その証拠に、肘のすぐ下にはえぐられた傷跡と、おびただしい流血が見て取れる。


「猿のくせに、頭使うよねえ」

「はん。お前に、他者を守って戦うなどという芸当はできんだろうが」


「茉莉」切風が山次をにらんだまま、振り向かずに言う。


「は、はいっ」

「なんとか隙を作るから、その間に逃げなね。あの光に向かって走れば、表の世界まではすぐだから」


「な……そんな、私だけ……切風さん、私の」

「言っとくけど、別に茉莉を守って犠牲になろうとか、そういうのは全然ないから。ただ、あんたいると足手まといなだけ」


 それは事実だったろう。

 茉莉は、傷つきはした。しかし、納得もした。


「おお、おお、なにをぼそぼそやってやがる。切風、お前その腕じゃ、もうわしの爪は防げんだろうな。一思いに首を取ってやろうか。いや、またその小娘を狙ってもいいな。またお前がかばうだろうからよ。どちらでもわしの勝ちよのお」


 山次がぐにゃりと笑う。切風の血がついた自分の爪を、べろりと舐め上げた。


「あんにゃろう、猿がいっぱしに駆け引きかよ。いいよ、どっち狙ってきても、撃墜してやる」

「ほおお。できるかのお?」


「できないと思ってんのか……?」


 腰を落とした切風が、呼吸を整える。

 その肩の辺りを、茉莉が後ろからちょいちょいとつついた。


「切風さん、あの人なんですけど」

「茉莉、今ちょっと忙しいから」


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