毛むくじゃらの生物とセカンドローライフ
ぷらーん、と右に揺れる。
木の枝と枯れ葉で作られた粗雑な秘密基地の中にいる二人が見えた。女の子が手紙を渡している。相手は初恋の相手、こう君だろう。
ぷらーん、と左に揺れる。
体育館の舞台に立つ女子生徒が見える。文化祭の注意点を丁寧にマイクに向かって話すと、無駄に大きい声で全校生徒が返事をした。
ぷらん、と右に。
机に向かう予備校生が見える。冷たい蛍光灯の光、積み重なった参考書、絡まったイヤホン。予備校で何時間も勉強していた私だ。一年のハンデは思ったよりも重く、彼女はもう志望校が刻まれた赤本にしか頼れないようだ。
ぷらん、と左に。
皺ひとつない似合わないスーツを着る新入社員。誰にでも大きな声で返事をして、耳に入ったことは全てノートに殴り書いていた。
ぷらん、と揺れずに綿紐は止まった。
最期に見えたのは、布団の中で泣きじゃくる女だった。油っぽい髪の毛、ささくれだらけの指、染みだらけのティシャツ。鳴りやまない電話を無視して、「首吊り 結び方」と検索ボックスに打ち込んでいる。
頭を巡る熱い血が、一気に冷たくなっていく。手足ももう、痺れていない。辛さのピークは過ぎたようだ。これでようやく、楽になれる。
あぁそう言えば、遺書とか書くの忘れたなぁ。どうせだったら、あの会社を訴えてやればよかった。
うわ、今日月曜日だから朝礼の日か。行かなくてよかったぁ。ちょうど今始まったところかな。
あ、お母さんの筑前煮ってどんな味だったっけ。送ってもらったレシピ、まだちゃんと見てないや。
あ、あと、
薄暗さの中央に、じんわりと光が漏れ出している。次第に光量は増え、色を帯びだした。もうその光を眩しいと感じなくなった時、私はようやく、自分が森の中にいると気付いた。どこを見ても木、木、木―――。
「ここ、どこ」
勿論答える者はなく、小鳥かなんかのさえずりが聞こえるだけである。原色のようにぱきっとした水色の空がうざったい。どんなに頑張っても、あの暗い部屋からここにくるまでの過程が分からない。
「私って、死んでるんかな」
そう言うと同時に、膨らはぎに痛みを感じた。
「いたっ」
急いで足元を確認すると、毛むくじゃらで汚らしいナニかが私を噛んでいた。
冷静になるとそこまで痛くは無いのだが、謎の動物に噛まれたと分かると別の恐怖が湧いてくる。そう、感染症だ。狂犬病にエキノコックス。それくらいしか分からないが、野生の動物ほど怖いものはない。それにこんなに不潔な見た目をしているのだから、病原菌を持っていない方がおかしい。
「ちょっ、ほんとに」
「くぅん」
足を思い切り振っても、謎の動物は変な声を漏らすだけで離れようとはしなかった。
「おーいぃ、なんなの」
「くぅん」
その内あほらしくなってきて、私はその場に座りこんだ。
よう分からん物体と二人、森の中で体育座りをしている私。俯瞰すると、滑稽で仕方がない。
それにしても、こんなに大きな声を出したのはいつぶりだろうか。