16:奈緒子の部屋ー②
「ごめんね、ヒドイでしょ、バラの香り」
「ううん、大丈夫。へえ、バラの香りだったんだね」
「あ、やっぱりわたしも臭ってた? ごめんね、部屋にお香があってね、それをつけてないと、あのヒト怒るんだ。コレも魔除けなんだって、バカみたいでしょ?」
悲しみを隠した奈緒子の笑顔が、なんだか痛かった。
「いいよ。いい匂いじゃん。ぼくは好きだけど」
精一杯のウソを吐きながら、慎吾は部屋を見渡した。
なんにもない部屋だな、と慎吾は思う。
四方の壁に、例の曼荼羅が飾られているだけの、女の子らしいモノが一つもない部屋。すみに置かれた勉強机だけが、逆に場違いに思える。洋服箪笥の扉が少し開いていて、その中には白いワンピースがいくつも掛けられていた。
「ちょっと待っててね」
奈緒子が部屋を出て行った。
ひとり残され、所在なく部屋を歩き、勉強机に目をやると、机の上のクリアシートの中には、《邪悪体ヲ遠ザケル五ヶ条》と書かれた、小汚いわら半紙が入っていた。
◆◆
一、外出時、邪悪体ノ入魂ヲ防グタメ、身体ヲ露出セザルガ吉ナリ
二、マタソノ折ニハ、護封色第二位色デアル《清白》ヲ身に纏ウガ最モ吉ナリ
三、室内ニオイテハ護封色第三位色デアル《天紫》ヲ纏ウガ吉ナリ
四、マタ部屋ノ四隅ニハ盛塩ヲ3~5センチ大ニシテスエルトナホ吉ナリ
五、マタ婦女子ノ場合、護封花デアル薔薇ノ薫香ヲ室内ニ充界サセルガ吉ナリ
以上ヲモッテシテモ必ズシモ邪悪体ヲ完全ニ遠ザケルコト能ワズ、入魂セシ折、護封色第一位色デアリマタ総覇色デモアル《覇赤》ヲモチイテ入魂者ノ身体カラ邪悪体ヲ追否サセルコトモデキルガ、コノ最終奥義デモアル《追否ノ儀》ハ功徳ヲ積ミシ聖悟師ニヨッテシカ執リ行ウコトガデキズ。
◆◆
怖気が、走っていた。
見てはいけないものを見てしまったのではないかという、悔悟の念にからめ取られながら、部屋の四隅を見渡すと、盛塩があった。
一つ、大きなゲップが出た。
「大丈夫?」
グラスをふたつ乗せた丸盆を手に、奈緒子が戻ってきた。
どうやらゲップを聞かれたようである。
「う、うん。なんか、すごいね、奈緒子んチ」
「おかしいでしょ。全部コモダさんがやらせてるの」
「コモダさんって、あの、さっきの人?」
「そう」
座って慎吾にグラスを差し出しながら、奈緒子が答えた。
奈緒子に対座してグラスを覗くと、泡のはじける真っ黒な液体がナミナミと注がれていた。得体の知れないそれを飲むこともできず、手持ち無沙汰に、敷かれた座布団を撫でる慎吾の眼前で、奈緒子がゴクゴクとそれを飲んでゆく。喉仏のない透きとおるように白いノドが、異性であることをイヤでも意識させる。
「どうしたの? 飲みなよ」
「う、うん……でもこれ、なに?」
悲しみの光が、サッと奈緒子の瞳に宿った。
慎吾は、すぐにその無思慮な言葉を恥じ、
「あ、ごめん。ちがうんだ……」
と、謝るのが精一杯だった。
「怖いの? 大丈夫だよ、それただのコーラだから」
「あ、え、コーラ? コーラって、コーラ?」
「コーラって、コーラ」
呆ける慎吾に破顔する奈緒子の二重の瞳に、もう悲しみの光はなかった。
「じゃあ、いただきます」
少しためらいながらグラスを手に取り、恐る恐るそれを口に含んだ。知っている味が口内を駆け巡り、ノドに炭酸のつぶてを当てながら胃袋にすべり落ちていく。
「あー、ウマイ! やっぱり最高だな!」
「なにそれ、オジサンみたい」
慎吾の口癖に吹き出す奈緒子。
それを見て、慎吾もようやく笑うことができた。
「でもさ、あの人ってなんなの? お父さん、じゃないよね?」
「やめてよ、あのヒトはそんなんじゃないよ。お父さん……もう死んでるから」
耳を閉じたい。心に傷跡を残す真実なんて聞きたくなかった。
奈緒子に初めて会った日の、あの物憂げな顔が脳裏を過ぎる。
その謎が解けたような気がして、それなのに、なぜか心がかき乱れていた。




