16:奈緒子の部屋ー①
平屋の木造住宅。
慎吾はそれを見ながら、ひとつの夢想が瓦解する音を聞いていた。
勝手ながら、奈緒子はもっと大きな、それこそマンガの中でしか見たことがないような大豪邸に住んでいて、爺やのお出迎えやなんかがあるように思っていた。「お嬢様、紅茶とケーキのご用意ができています」とかが日常としてある世界。大きな庭で、奈緒子が弾くバイオリンの音を聞きながら、口ひげをたくわえた父親がそれをキャンバスに写生しているような世界。
慎吾の住む世界から境界線をまたいだ先にある、夢と平和と愛にあふれるユートピア。
今までの短いつきあいの中で、奈緒子の家庭には、自分の立ち入れない何か後ろ暗いものがあるんだろうな、とは思っていたが、それでも慎吾は、奈緒子の家庭に漠然とした憧れを抱いていたのだ。
「さ、入って」
門扉をひらいて手招きをする奈緒子に促されて敷地に入ると、雑草が伸び放題の殺風景な庭が見えた。そこへ乱雑にうち捨てられた新聞のたばに、魚の骨がノドに引っかかった時のようなモヤモヤとした感覚が湧き出ていた。十字にかけられたビニールひもが食い込む、いちばん上の新聞の見出しに書かれた《殺人事件》という文字が、頭の中でグルグルと回る。
「ただいま」
奈緒子が磨りガラスの引き戸を開き、薄暗い屋内に向かって言った。
「お邪魔します」
慎吾もそのあとに続き、タイル張りの三和土に足を踏み入れた。そこに一足の男モノの履き古された赤いシューズがあり、家人が中にいることを告げている。
「はいコレ」
奈緒子が、壁の帽子掛けから紫色の野球帽をふたつ外し、ひとつを慎吾に手渡した。
「えっと……」
「被って」
麦わら帽子を脱いでそれを帽子掛けに掛けた奈緒子が、申し訳なさそうに言って、自身も紫色の野球帽を被った。
「う、うん」
言われるがままに帽子を被り、少し窮屈に感じて、二、三度その位置を変えていると、
「うしろ向いて」
と、奈緒子が慎吾の両肩をつかみ半回転させた。
奈緒子に触れられると時が止まる。
直立不動で、心臓の祭り太鼓みたいな爆音を聞かれやしないかと思いながらぢっとしていると、奈緒子が帽子の調整ホックをいじって、ちょうどいい幅にしてくれた。
「ごめんね、変なことさせて」
謝る奈緒子の沈んだ声。
首筋にかかる柔らかな吐息が、心臓をさらに早く叩く。
「うん、でもなにコレ?」
「魔除けの帽子。家の中はコレ被ってなきゃいけないの」
「ふうん……」
それ以上つっこんで聞く気にはなれなかった。いや、聞いてはいけないような気がしていた。
「じゃ、入ろ」
「うん」
靴を脱いで奈緒子のうしろについて歩きながら、慎吾は、壁や襖に張られた不思議な模様の絵をしげしげと眺めた。
「曼荼羅」
「え、マンダラ?」
「そう、曼荼羅。て言っても、コモダさんのオリジナルらしいけど」
極彩色のその絵には、中央に真っ赤な袈裟を着たえびす顔の僧侶が描かれていた。不気味でありながら力強いその曼荼羅に、慎吾はさらに不安を募らせる。
「お、ナオちゃんお帰り」
廊下の先、台所につながるドアが開き、不釣り合いな縄のれんをまくり上げた痩せぎすのオジサンが、口の端を上げて不自然な笑みを作った。斜視気味で目の焦点が合っていないそのオジサンは、頭に赤いハンチング帽を被り、赤いフランネルのシャツを羽織り、その裾を赤いチノパンに入れた、とても異様なかっこうをしていた。
「ただいま」
つれなく言い放ち、奈緒子はそのオジサンと目を合わせようともせずに、
「部屋、こっちだから」
と言って、右手にある引き戸を開いた。
「う、うん。お邪魔します」
いまだ微笑むオジサンに頭を下げて奈緒子の部屋に入ると、いつも奈緒子からほのかに漂うモノと同じ香りが、一層つよく鼻腔をくすぐった。
それがあまりにも強すぎて、慎吾は思わずむせた。




