12:通信簿ー③
「今日は、お母さんたち早く帰って来ちゃうから、ぼく、あんまり遅くまでいられないよ」
「えー、じゃあ、わたしを置いて、一人で帰っちゃうわけ?」
「そういうわけじゃないけど」
「そうじゃん、絶対」
「で、でもほら、明日から夏休みだしさ、明日から遊べばいいじゃん」
「じゃあ、今日はもう解散なわけ?」
「うん、ごめん。まだ少しはいられるけど」
「ふうん、まあいいけど。強制はわたしの趣味じゃないから」
明らかに不満顔の奈緒子に、少し怒りを覚えた。
最近、奈緒子は自分がなんでも言うことを聞くヤツだと誤解している節がある。それは否定できないが、絶対にどうしようもないこともある。
それにしても、奈緒子の家庭の事情はよく分からないけれど、そこは、ここに一人でいるよりも居心地の悪い場所なのだろうか? もしそうならば、それは想像できる範疇を大きく上回っている。
「奈緒子もさ、今日は早く帰ればいいんじゃないの?」
「なんで?」
「だって終業式だよ。通信簿とか見せなきゃ」
「なんで?」
「なんでって……だってそういうもんじゃん」
「なんで?」
「だって……」
言葉に詰まる。
不機嫌に「なんで?」ばかりを連発する奈緒子を、納得させるだけの言葉を知らない。いや、不機嫌な人間を納得させるだけの言葉なんて、この世に存在しないのだ。
何を言ってもムカつかれるし、何をしてもムカつかれる。
「……分かったよ。勝手にすればいいだろ。ぼくはもう帰るから」
「え? あ……いま帰ったらもう明日からわたしここに来ないかもよ」
「好きにすれば?」
今日は引かない。引いちゃいけない、と慎吾は思う。
このままズルズルと奈緒子の言いなりになるのは絶対にいけないことだし、奈緒子にもそのことを分からせなければいけない。目の前の、慎吾の反抗に意外な顔をしている少女に、自分だって一人の人間であるということを分からせるのだ。
「ホントにいいの? わたし、もうここに来ないよ?」
「好きにすれば?」
「……そう、分かった。じゃあ、明日から、誰か連れてきちゃうからね」
慎吾は、「来るんじゃないか」という言葉を飲み込んで、
「好きにすれば?」
と、ため息混じりに返した。
そのため息はもちろんウソ。奈緒子が誰かを連れてくるというのだってウソだ。クラスのみんなとほとんどしゃべらない奈緒子が、ここに誰かを連れてくるなんて、絶対にウソだ。
だからウソのため息を吐いてやった。
目には目を、ウソにはウソを。
目の前で悲しみの光を瞳に浮かべる少女に対して、少しの罪悪感を抱きながらも、初めて勝ったという満足感に酔う自分を、否定できなかった。
「じゃ、そういうことだから」
大げさに冷たく言い放ち、なにか言いたげに口を開きかけた奈緒子から、自分の通信簿を引ったくって、そのままランドセルを背負いながら207号室を出た。
「少し言い過ぎたかな?」と思いながら階段の手前で立ち止まって振り向くと、雑種の中型犬、鼻の周りだけが白い黒犬のサブローが、舌を出してあとを追ってきていた。
二人の異常事態を敏感に察知したのか、クゥーン、と悲しそうに鳴く。
「大丈夫、怒ってないよ。奈緒子のところに行ってあげな」
サブローの頭を撫でながら207号室を見やると、慎吾に見られないよう入り口の横に隠れて立つ、奈緒子の細い影が廊下まで伸びて、まるで心を引き留めようとしているようだった。
だけど、今日は戻らない。戻ったら負けだ。
「じゃ、また明日!」
奈緒子に聞こえるよう大きく言った慎吾は、サブローの頭をもう一撫でしてから、廃病院をあとにした。
たそがれ坂を下りながら、明日はこっちから先に折れて、謝ろうと思った。
明日から、また元どおりの関係でいい。
そして奈緒子と楽しい夏休みを過ごすんだ、と、慎吾は顔を綻ばせた。




