12:通信簿ー①
この世には憂鬱の代名詞が、処分セール品のようにあり余っていて、慎吾の場合は、《夏休み》という言葉がそれに当たる。
慎吾は、エロ本を読んだあの日から、クラスのみんなとのあいだに、越えられない壁を感じていた。それも透明な壁を。向こう側に行けないのに、向こう側がハッキリと見えるという、苦痛と焦燥と恐怖と孤独。
それがとても辛くてたまらない。
笑うみんなの口からこぼれる白い歯。その純白が、胸をギュッと締めつける。
みんなが笑えば笑うほど、その境界線上にある壁が、どんどんとその丈を伸ばしていくのだ。
だから、夏休みという、笑い声の四十日が、つらくてたまらない。
あの日を境にして、夏休みは楽しい時間ではなくなってしまったのだ。
だけど、今年はちがう。
ちがうはずだ、と慎吾は思う。
明日からはじまる今年の夏休みは、ちがうものになってほしいと、心から願っていた。
◆◆◆
廃病院の207号室。
その中央で犬たちにエサをやっている奈緒子のうしろ姿を、ベッドに座って眺めながら、自分にそう言い聞かせていた。
今年は、奈緒子がいる。
好きな娘だからとか、そういうことじゃなくて、ただ単に誰かがそばにいてくれるのが、とてもありがたかった。
キレイな後ろ髪のあいだからのぞく、吸い込まれそうな白いうなじを見ながら「今年の夏休みは最後の夏休みだ」と、慎吾は思う。
来年からは中学生。
制服に袖をとおし、みんな大人への階段を登りはじめるのだ。
「どうだった?」
またどうでもいいことを考えてボウッとしていた慎吾に、奈緒子が言った。
「え?」
マヌケな顔をしてマヌケな声を出しながら、主語を飛ばしてしゃべる奈緒子の癖に、いつも自分は戸惑うな、とふと思う。
「通信簿」
「あ、うん、フツーだよ」
「見せて」
「えー」
「いいじゃんいいじゃん。わたしのも見せるから」
渋々とランドセルの中から通信簿を取り出すと、奈緒子がそれを奪い取り、となりに座って楽しそうに開いた。
五段階評価の通信簿。慎吾のそれには、3ばかりが並ぶ。可もなく不可もなく。それがたまらなくイヤだった。
「……なんか、フツー」
「だ、だから言ったじゃんか」
「うーん……あ、でも図工は5じゃん」
「あ、そうだよ。そうなんだよ。それしかないけど」
「へえ、あ、でも、うしろに飾ってる紙粘土のヤツって、すごいもんね」
自由に作品を作るという授業で、町山先生に褒められた『飛ぶドラゴン』という粘土細工。
慎吾の唯一の取り柄は、手の器用さだった。
それだけが自慢できることで、みんなからも、本当にその点だけはうらやましがられた。
だけど、と慎吾は思う。
いつもみんなに感心されていた自分の取り柄は、もう過去のものなんだ、と慎吾は思う。




