10:失恋大樹-③
いつ、誰が、なんで《瀬戸正次》と書いたのだろう?
この『失恋大樹』に名前を書き込むのには、二とおりの理由がある。
即ち、
「フッたアイツのことが憎いから、名前を書いてやれ」と、
「好きな人の好きなアイツが憎いから、名前を書いてやれ」だ。
つまり、そこに書いてあるのが男の名前だからといって、必ずしも書いたのが女とは限らないし、その逆もまた然り。故に書き込んだ犯人は「バレることはない」と高をくくり、そして実際、その二つの理由によって、犯人を突き止めるための容疑者の数が、格段に増すのも事実。だからこそ罪悪感が薄まり、みんな軽い気持ちで、ここへ憎い相手の名前を書き込めるのだ。
無論、一時の激情で、誰かが不幸になるのさえかまわないと思うような人間は、ごくごく少数なのかもしれないが、人は他人の心の裡がわを見るすべを持っていない。人は「バレなければ大丈夫」という悪魔の声にしばしば耳を傾けてしまう弱い生き物。
そこのところをよく理解して作られた、ウマイ都市伝説だな、と、慎吾は今さらながらに思う。
「ワチコちゃんだ」
「え?」
「ほらあれ、ワチコちゃんじゃない?」
我に返った慎吾は、奈緒子の言っている意味が分からないながらも、生け垣の隙間から、なぜか失恋大樹の文字をつぶさに見ていく、その近い後ろ姿を見た。
赤いランドセルにショートヘアをなびかせる、薄桃色のTシャツに黄色い短パン姿の、小汚いシューズを履いた少女。その右ふくらはぎについた、小さなL字型の古傷に見覚えがあった。
「ワチコだ」
とつぜん振り向いたその顔は、たしかに、クラス一の変わり者のそれだった。
「誰かいるのか?」
どこのなまりなのかも分からない、ワチコ独特の男子みたいなしゃべり方。緊張している風でもなく辺りを見渡したワチコは、フン、と鼻を鳴らして、また失恋大樹に視線を戻した。
「なにしてんだろ?」
「さあ。ワチコちゃん、フられたのかもよ」
奈緒子の弾む声が、信じられなかった。
「なんで、ちょっと嬉しそうなのさ」
「誰かの名前を書き込むのを、見れるかもしれないじゃん」
「なに……言ってるんだよ。もしそうなら、ぼくはワチコを止めるよ」
「いいから、黙ってて」
「なんだよ、それ」
奈緒子の命令に逆らえないふがいなさに、ほぞを噛む思いをしながら、慎吾は息を殺して、ワチコを観察した。
どうやら、ワチコは誰かの名前を書き込むつもりはなく、その道具すら持っていないようだった。
しばらく失恋大樹を見ていたワチコは、それに飽きたのか、古傷を二度かいてから、そこを後にした。
「……なんだったんだろうね」
ワチコの姿が見えなくなってから、奈緒子がすこし落胆して、ため息混じりに呟いた。
慎吾にも、ワチコがここに来た理由は、さっぱり分からなかった。
ワチコが、誰かのことを好きだなんて聞いたこともないし、絶対にそんなことはあり得ない。ワチコが誰かに恋しているなんて、考えただけで気分が悪くなるし、もしそれが自分だったらと思うと、更に更に気分が悪くなる。
きっと、他の目的があって、ワチコはこの失恋大樹を見に来たのだ。
ワチコは、真剣に彫られた名前をチェックしていた。
でも、一体、なんのために?
さっぱり分からない。




