10:失恋大樹-②
「ねえ、この中に、チャーの知っている人とかいない?」
「え?」
「こっち来てよ」
「う、うん」
奈緒子の言葉の、絶対的な力。
慎吾は、奈緒子に逆らえない意気地のなさが情けなくなり、裏に回って、
「無いと思うよ。こんなの、誰も信じないって」
と、少しだけ奈緒子に抗弁してみせた。
それを意に介さず、
「いいからちゃんと見てよ」
と、さらに強く命令する奈緒子。
慎吾は気乗りせずに、樹の下方に書かれた何十個かの名前を、上から順々に見ていった。
知らない名前……知らない名前……シルベスタ・スタローン……知らない名前……×印のついた知らない名前………………瀬戸正次……………瀬戸正次!
「セト君!」
「え、誰かいた?」
思わず口をついて出た大声に、奈緒子が驚きながらも、嬉々としてたずねた。
しかし慎吾は、しばらく開いた口を塞ぐことも忘れて、唖然としていた。
知っている名前があるなんて考えもしなかったし、しかもそれが、いちばん仲の良かった正次のものだなんて、夢にも思わなかった。
何が何やら、ワケが分からない。
その《瀬戸正次》の文字は、黒ずんでほとんど消えかけていて、その上の方にある、おそらく最近書かれたのであろう名前に比べても、だいぶ古いものであるのは確かだった。
「ねえ、誰か知ってる人の名前、あったの?」
「う、うん。あ、ううん、勘違いだったみたい」
「なんだ……つまんないな」
「や、やっぱり言ったとおりでしょ」
「そうね。でも今日、誰かがここに来て、名前を書くかもよ」
「でも、そんなの分からないじゃん」
「だからさ、アッチに隠れて、見張るってどう?」
「え?」
「だから」
「い、言ってることは分かるけど。それ本気? ずっといるわけ?」
「うん。どうせヒマでしょ?」
「そういうことじゃなくて」
「いいからいいから」
慎吾の言葉を聞き流し、生け垣の穴を、四つん這いになって抜けようとする奈緒子。
一瞬、めくれたスカートから、淡雪のように白い太ももがチラと見えたが、奈緒子はそれを気にもかけなかった。
目のやり場に困りながら、慎吾はその穴を越えるのをためらった。
今まで忘れていた場所。これから忘れようとしている場所。
その境界線を越えることはとても辛いことだったが、それを拒否できないということも分かっていた。
「どうしたの? 早く来て。誰か来ちゃうよ」
「来るわけないじゃん……」
奈緒子に聞こえないようにつぶやいて、渋々と向こうがわに抜け、奈緒子のとなりに並んでしゃがむと、となりからほのかに甘い香りが漂って、鼻を優しくくすぐった。
「でもホント、誰も来ないと思うよ」
「わかんないじゃん。誰か一人くらいフラれてるでしょ、さすがに」
「さすがにって」
「あ、ほら誰か来たよ」
「あ、うん」
失恋大樹へと近づいてくる人影を、気もそぞろに見つめながら、慎吾は《瀬戸正次》の文字に考えを巡らせた。




