エピローグー➁
……段々と、記憶が蘇ってくる。山下奈緒子が転入してきたその日、黒板を背にして挨拶をしたその少女に、私は一瞬にして心を奪われていた。それまで密かに想いを寄せていた紀子の存在を一瞬のうちに忘れてしまうほどに。それからというもの、勉強に集中しようと思うたび、脳裡に山下奈緒子の顔がチラつき、私は焦っていた。集中しなければ、努力しなければ、私のように頭のあまり良くない人間は成績を上げられないというのに、どう足掻いても、いや、足掻けば足掻くほど、山下奈緒子の存在が日増しに私の心をがんじがらめにしていった。話しかけることも出来ず、まんじりともせず奈緒子を盗み見する日々が続いているうちに、なぜかは分からなかったが、急に宮瀨慎吾が彼女と親しげに話すようになっていた。それを憎々しげに思いながら夏休みに入り、私は山下奈緒子と距離を置けることに、ホッと胸をなで下ろしていた。しかしそう思ったのもつかの間、紀子が塾で「宮瀨慎吾と山下奈緒子、それに林直人と高島佐智子が一緒になって遊んでいた」と、楽しそうに話しているのが耳に入った。ようやく勉強だけに集中できると思っていた私を、ふたたびあの少女の面影が締めつけていった。それから成績が思うように上がらなかった私は、皆が帰ったあとも夜遅くまで残り、山下奈緒子の甘やかな幻影を振り払いながら、がむしゃらに勉強する日々に身を窶していた。精神も肉体もボロボロになりながら夜道を独りで帰り、その時、私は赤いワンピースを着た山下奈緒子に遭遇したのだった。正直、あの時は一瞬、久しぶりに見た山下奈緒子に心が舞い上がっていたのを否定できない。それでも、私は努めて冷静に山下奈緒子と宮瀨慎吾を責めていた。責めながら、本当は私もその輪の中に入りたいと思っていた。しかしそんなことを言えるはずもなく、そして私は宮瀨慎吾に憎しみを抱き始めたのだった。それからしばらくはまた山下奈緒子のことも忘れて、「縁日に行こう」という誘いも断って勉強に励んでいた。宮瀨慎吾への憎しみが爆発したのは、縁日の翌日だった。紀子が嬉々として話す前日の話の中で、「宮瀨慎吾と山下奈緒子が一緒に来ていた」という耳を疑うものがあった。私は、私にはそれがどうしても許せなかった。今になって思えば、それはただの嫉妬だったのだろう。しかしそれを聞いたその時の私は、自分でも抑えきれないほどの憎しみを宮瀨慎吾に抱いていた。その日も夜遅くまで塾に残っていた私は、塾を出るとその足で神社へと向かっていた。たそがれ坂を下り、暗闇の衣をまとう神社を苔むした石段の下から見上げた私は、昨日、この神社に、この町の幸福がすべて集まっていたのであろうという哀しい思いに身をよじらせた。私は黒いものを胸の裡に秘めてゆっくりと階段を上り、そして参道を進み、『失恋大樹』の前に立った。まだ、縁日の残り香が漂っていた。ぬかるむ黒土の上に転がる五寸釘を拾った私は、《宮瀨慎吾》の名を彫ろうとして、はたと、そこに《林直人》といういびつな文字が刻まれていることに気づいた。「バカだな」と、私は独りごちていた。誰が彫ったのかは分からなかったが、この犯人はきっとこの『失恋大樹』が本物の呪いの樹であるということを知らないのだ。私はここへ名前を彫るのが二度目だった。前に彫ったのは、瀬戸正次という、紀子が惚れていたであろう男子であった。小五の初め、それまで私と紀子しか通っていなかった塾に、とつぜん瀬戸正次が通いだした。急速に仲良くなる紀子と瀬戸正次に黒い感情を抱いた私は、六年生に上がってすぐの頃、その気持ちを紛らわせるために冗談半分でここへその名前を彫り込んだ。それから十五日を経て、瀬戸正次は学校へ来なくなった。私はすぐ、彼になんらかの罰が下ったのだと確信していた。そしてそのことを誰にも言わずに、瀬戸正次が来なくなってうち沈むクラスメイトを、ほくそ笑んで眺めていたのだ。偶然かもしれない。しかし、私はそれを信じた。そして宮瀨慎吾にも同じ、いや、瀬戸正次よりも酷い罰が下るように願いながら、その名を、《林直人》の名前の横へと彫り込んだ。それから私はその日が来るのを指折り数えて待った。ミオカさんという変質者が捕まったと聞いて、私は瀬戸正次がどのような目にあったのか推察し、宮瀨慎吾にはどのような罰が下るのかと思い、胸が躍り、眠れぬ日もあった。そして、山下奈緒子が、死んだ。私には何が起こったのか分からなかった。宮瀨慎吾を地獄へ落とすための所業が、山下奈緒子の命を奪う結果に終わるとは夢にも思わなかった。それが宮瀨慎吾の最大の不幸で、それは私にとっても同様であった。山下奈緒子の死の理由は分からなかった。私は、軽はずみに宮瀨慎吾の名前を『失恋大樹』に彫り込んだ罪に長いあいだ心を苛まれていた。それを必死に抑えながら、私は教科書だけに向き合い、見事に難関私立の北科中学校に合格した。入学式の日、私は横に座る、隣町からやって来たという少女に山下奈緒子の面影を見た。一目惚れだった。すぐに山下奈緒子の影がぼやけ始め、一年を過ぎる頃には、山下奈緒子はたまに思い出すだけの存在になっていた。それから高校へ進み、また私はべつの恋をし、大学生、社会人になって幾度も恋をした。山下奈緒子の影はすっかり消え失せ、幾度目かに愛した女と、私は結婚した。娘が生まれ、ささやかながらも幸せな日々を過ごし、このまま私はその幸せの中でこの町で死んでいくのだと思っていた………




