46:ありがとうー➁
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アルミ板のドアを開くと、雨がコンクリートの床をすっかり濡らしていた。
外へ出て雨に濡れるのもかまわずに辺りを照らすと、いつか一緒に超えた柵の向こう側で、奈緒子がこっちを向いて佇んでいた。
手には包丁を持ち、なぜか《バラバラ女の血みどろワンピース》を着た奈緒子が、
「やっぱり、来てくれると思ってた」
と、何事もなかったかのように、優しく笑った。
「な、奈緒子、なにやってるの?」
「殺しちゃった」
耳が、痛かった。
「殺した……の?」
慎吾は柵の前までゆっくりと近寄り、奈緒子を見つめた。
赤黒いワンピース。
絵の具の赤色なんかじゃなかった。
柵の向こうがわの赤い少女が、雨でどんどん濡れていく。
「ど、どうして?」
「言えないし、言いたくないから、言わない」
「う、うん分かった。こっち来てよ、危ないから」
「行けないよ」
笑う奈緒子。
声が死んだように冷たかった。
雨がその勢いを増して、ワンピースに着いた赤色をすすぎ落としていく。
「これさ、ぜんぶあのヒトの血。すごいでしょ」
笑う奈緒子。
赤黒いワンピースから伝ったのであろう血が、その裾から垂れ落ち、内股からは赤い筋が、蛇みたいにつたい落ちていた。
「いいからさ、こっち来てよ」
それしか言えなかった。
「ダメだって。もう《《そっち》》へは行けない」
笑う奈緒子。
「あーあ、なんでこうなるんだろうね、今日はずっと楽しいままで終わるはずだったのに」
笑う奈緒子。
「お願いだから、こっち来てよ」
それしか言えなかった。
「……最後にひとつだけ、聞いていいかな?」
「最後とか、言わないでよ」
「チャーは、わたしのこと……」
奈緒子は言い淀み、そして、
「……わたしが死ぬことが、チャーの最大の不幸なのかな?」
と、言った。
なぜ奈緒子がそんなことを訊くのか、分からなかった。
「うん、うん、絶対にそうだよ、だ、だから死なないで」
言葉に詰まりながら言うと、それを聞いた奈緒子が笑い、
「……そっか」
と言って、また笑った。
「それが聞けてよかった……さよなら」
奈緒子の手が、柵から離れた。
その腕を、慎吾は咄嗟に掴んだ。
「……痛い、離して、お願い」
ほとんど中空に身を傾けた奈緒子が、二重の瞳で慎吾を見つめていた。
雷鳴が轟き、稲妻が日常にヒビを入れてゆく。
――この世に前触れのない事件はない。すべて偶然の積み重ねで起きる必然だ。
目羅博士の言葉が、悪魔みたいに笑っていた。
「イヤだよ、死なないで!」
「……チャーさ、わたしのお願い、聞いてくれる?」
「うん、うん、なんでも聞くから、だから死なないでよ!」
「……『バラバラ女』さ、この町に溶かして。そうすればみんな、ワチコちゃんも直人君も、それにチャーもわたしのこと忘れないでしょ?」
「やめてよ、そういうこと言うの、死なないでよ!」
右手が、痺れていた。
柵を掴んで体を支える左手も、悲鳴を上げ始めている。
なんで、こんなことが起きるんだ?
なにが起こったんだ?
「ありがとう」
それが奈緒子の最期の言葉で、
その笑顔は、いつもの笑顔だった。
そして――
――宮瀨慎吾は、山下奈緒子の腕を掴む手を、離した。




