42:最後の日-➁
「あ、ありがとう」
「前に借りたのだよ。返すの忘れてたからな」
「あ、ああ、あのとき貸したヤツだ」
「学校のみんなには、あたしが泣いたこと言うなよ」
「分かってるよ」
「おれは言うけど」
「直人が言うことなんて、誰も信じねえよ」
「あ、ひっでえ。そのティッシュっておれのだぜ。おれにも感謝しろよ」
ワチコが笑い、それにつられて慎吾も笑った。直人も顔を綻ばせている。
幸せな日常に浸っていると、不意にこういう会話も今日で最後かもしれない、と言いようのない不安に駆られた。
なぜだろう?
さっきからおかしい。ナニカが胸の奥をチクチクと刺しているような不安感。
朝からずっとだ。
自分なりにその不安感に答えを出すのならば、きっとあの『失恋大樹』のことでだ。
正次の身に起き、直人にも起きかけた不幸を思うと、やはり気が気でないのだろう。気にしていないつもりでも、明日が十五日目かと思うと、少しだけ怖かった。
廃病院に近づくにつれて段々と大きくなる、その不安感に軽い頭痛を覚えながら、ワチコと直人の他愛のないおしゃべりに相づちを打っているあいだに、気がつくと、眼前に赤錆びた鉄扉が立ちふさがっていた。
改めて見ても、その威容に圧倒される。
いつの間にか忘れていたが、ここはこの町でもいちばん怖い『血塗れナース』の都市伝説にまつわる場所なのだ。
それに不確かではあるが、そのバケモノを見ている。
鉄扉の隙間から見える朽ちた廃病院が、朝だというのに、闇夜に沈んでいるようにさえ見えた。
「ナオちゃん、ホントに来てるのかな?」
「寝坊だよ、絶対。こんなに早くから来てるわけねえよ」
「賭けるか?」
「いいよ」
二人の賭けが成立して207号室へ入ると、派手な紫色のパジャマを着た奈緒子が、ベッドの上で寝息をたてている姿が見えた。
「来てるじゃん、あたしの勝ちだな」
「でもこれって、寝坊じゃねえの?」
二人の不毛な言い争いを背に聞きながら、奈緒子に近寄った慎吾は、
「奈緒子、おはよう」
と、優しく声をかけた。
「う、ううん……」
寝ぼけまなこの奈緒子が、三人に気づきすぐに体を起こした。寝姿を見られた恥ずかしさからバツの悪い顔を作る奈緒子の髪は、寝癖で鳥の巣みたいになっていた。
「ちょっと、来るの早すぎない?」
「今日で最後だからね。それよりナオちゃん、髪がすごいことになってるぞ」
「え…… あ、ホントだ。ちょっと待ってよ、すごい恥ずかしいじゃん!」
なぜか怒鳴られた慎吾は、困ってうしろの二人を見やった。
「もう、しょうがないなあ」
そう言うと、ワチコが奈緒子の手を引いて207号室を出ていった。




