3:席替えー①
それからというもの、山下奈緒子のことが気になって気になってしょうがなかった。
山下奈緒子は、国語算数理科社会、それに音楽と図工において、とても優秀な成績を残した。国語の授業では、彼女の、淀みなく紡がれる春風のような音読にウットリとし、算数の授業では、黒板に書かれてゆく、彼女の容姿そのもののように均整のとれた数式に嘆息し、そのほかの授業でも、彼女の存在に圧倒されない者はいなかった。
平等主義の町山先生ですら、図工の時間に山下奈緒子が提出した、『犬たち』という、絶妙な構図と、今にも吠え出しそうなほど精緻に描かれた五匹の犬の絵を見たときには、思わず「すごい……」と声を漏らしていたし、とにかく山下奈緒子が転校してきてから一ヶ月と経たないうちに、彼女はこの六年一組の生徒のほとんどを虜にしていた。
例外的に、なにを考えているのか分からない直人、クラス一の変わり者にして、《ワチコ》というノリだけでつけられたあだ名を持つ高島佐智子、教科書が友だちで勉強が趣味だと顔に書いてある純平、それに、あくまで誰とでも対等な関係を崩さない学級委員の紀子なんかは、山下奈緒子という存在をなんとも思っていない風だったが、それも本当に少数の例外。
慎吾は、どんな顔なのかも知らない神様に、山下奈緒子のとなりの席という幸運を心の底から感謝していた。
山下奈緒子から優しく漂う、甘やかな香りは自分しか知らない。そう思うだけで胸が早鐘を打って、暑くもないのに、額には玉のような汗をかき、そのたびに太一や直人にからかわれた。だが不思議なことにそのからかいも気にはならず、それどころか、みんなが知らない山下奈緒子の魅力に気づいている優越感に酔ってさえいた。
さらに不思議なことに、今年に入ってからの一番の悩みの種である不眠症がウソのようになくなり、さらにさらに不思議なことに、身長がこの数週間で2センチも伸びていた。
すべてが順調で世界が輝いて見え、あの山下奈緒子の笑顔を見るたび、クリスマスが一気に百万回来たみたいな喜びが胸一杯に広がり、「恋だ。恋なんだ。これがぼくの初恋なんだ!」と、一日のうちに何度も胸の裡で叫ばすにはいられなかった。
目羅博士が濡れ女のヌレヨちゃんに恋をした時に言った、「おれは君が何者であっても、この命ある限り君を愛す」という台詞を、もし山下奈緒子に格好良く言えたとしたら、どんなにかステキなことかと思ったりもした。
幸せだった。
自分みたいなダメダメな男子のことを、山下奈緒子が好きになってくれるわけがないなんてことは痛いくらいに分かってはいたが、そんなことはどうでもよかった。
山下奈緒子が自分を好きかどうかじゃなくて、自分が山下奈緒子に恋をしているということ。
それだけが輝かしい事実で、山下奈緒子がとなりで優しく微笑んでいてさえくれれば、ほかに何もいらなかった。




