第9話 幕間・師弟の格差
今回は微妙に短くなりました。ちょっと説明が多めですがご容赦を。
風呂。それは人類が生み出した文化の極みである。その歴史は古く、少なくとも紀元前一千年頃には湯を沸かして入浴する文化があったとされる。現代日本においてはほぼ全家庭に浴室が備えられ、入浴はもはや日常生活を送る上で欠かせないものとなっている。そんな現代日本で育ったマキオは、当然の帰結としてごく普通に風呂好きであり、自宅兼店舗のここにも風呂を設置した。
しかし、ここでいう「普通」とは、あくまでもマキオの主観によるものであり、その水準は当然ながら現代日本に置かれている。
では、異世界においてそれがどう捉えられるかといえば。
「はぁ~…………」
現在、『黒猫印の魔導書屋さん』居住スペースの更に奥にある浴室で溜め息を付いているのは、翼耳族の少女ククルゥだ。
肩まで湯に浸かっており、湯加減もちょうど良い塩梅ではあるが、溜め息の理由は湯に浸かったときの条件反射ではない。
「中々のもんじゃろ。この店を建てるときにマキオの奴がえらく拘りおったんじゃ」
少女の横でだらりと力を抜いて浮かんでいる黒猫は当時を思い出したのかしみじみとそう言っているが、「中々」どころではないというのがククルゥの正直な感想だ。まさか店の奥にこんなものがあるとは思いもよらなかった。
そもそも世間一般の共通認識として、浴室とは個人で所有するものではない。庶民のお風呂事情といえば基本は数日おきに水浴びか水拭き、ちょっと贅沢をするならお湯で体を拭く、或いは公衆浴場に行くのだ。
ところがこの浴室ときたら。
まず照明が蝋台ではない。子供の頭ほどの大きさのガラス玉が四隅に備え付けられ、ぼんやりとした温かみのある光で室内を満たしている。
照らし出された床と壁には小さな色違いのタイルが整然と敷き詰められており、耐水性を高めると同時に幾何学模様を作り出して、機能性と見た目を両立していた。公衆浴場でさえ、精々が石畳か、地面に簀子が敷かれている程度であることを考えれば、これだけでも相当な手の込みようだ。
そんな壁面には何に使うものなのか、金属の管が一本天井に向かって這っていて、途中で壁から離れるように折れ曲がった先にはラッパを逆さ吊りにして蓋を付けた様な形の器具が取り付けられていた。
さらに、今まさにククルゥが使っている浴槽は、大きな岩の中央がくり抜かれた物で、座れば肩まで浸かれる深さと大人でも十分に脚を伸ばせる広さがあり、滑らかに整えられた表面は入浴する者がリラックスできるように考えられていることが分かる。
繰り返すが、個人宅に浴室がある、というだけでも贅沢なのだ。その上ここまで拘って作られているのだから、もはや酔狂という言葉でさえ足りない。
「この浴室には幾つかの魔道具が備えられておる。念の為聞くが、魔道具は知っておるな?」
「は、はい、持ってはいませんが何度か見たことは」
未だに軽い放心状態のククルゥをよそに、クロは説明を始める。
既存の道具に魔法陣を刻み、様々な効果を付与した魔道具は、少々値は張るが利便性が高く、長期間の野外活動をすることが多い冒険者や行商人には特に重宝されている。一番人気は魔力を流すと水が湧き出る水筒だが、最低でも金貨十数枚程度はするという話だ。
そんな魔道具をお風呂の為だけに使用しているという。もはや驚きも限界を超え、一周回って冷静になり始めるククルゥだった。
「今見えておるだけでも照明、シャワー、それにこの湯船もそうじゃ」
「シャワー……?」
聞き慣れない言葉に小首を傾げるククルゥに、クロは前足で実物を指し示してみせる。
「ああ、あの壁に付いておる管……正確にはその先の散水器までを含めたものじゃ。簡単に言えば上から湯を出して浴びることができる魔道具じゃな」
「どうしてそんな物を……?」
用途を聞いても今ひとつ理解できずにいるククルゥだったが、これは彼女の理解力が低いわけではない。温泉のような豊富にお湯が使える特殊な環境を除けば、浴場の湯というのは有限である。必然的に利用者各位が譲り合い、無駄にしないという暗黙の了解が出来上がっていた。それ故、体を洗ったり流したりするのは一つの桶に汲んだお湯で済ませるのが常識であり、お湯を張って浸かる浴槽はともかく、上からお湯を浴びる為の設備などというものは無駄遣いにしか思えなかったのである。
クロとしてもその感覚は非常によく分かるが、実際日常的に使ってその恩恵に預かっている身としてはその困惑もかつての自分を見るようで妙に微笑ましく感じ、ククルゥに向ける眼差しに生暖かいものが混じるのだった。
なお、この浴室の設計者であるマキオに深い考えはない。単に自分が慣れ親しんだ風呂場を再現しようとしただけである。
「ちょうどいい機会じゃし、使い方を教えておくとするかの。嬢ちゃん、ちょっとそのまま待っておれよ」
「え? あ、はい」
湯の中から器用に浴槽の縁によじ登り、床に降り立った黒猫は全身をブルブルと震わせて水を飛ばしたかと思えば浴室に来たとき同様に<浮遊>を使って浮かび上がった。
「風呂に湯を溜めたときの様子は見ておったじゃろ? あれと同じ魔法陣をこの箱にも刻んである」
そう言って前足で触れるのは、壁を這っている金属の管の根本にある箱――むしろ箱から管が生えている、と表現すべきか。その箱に魔力を流せば、遠目には見えなかった魔法陣が仄かな光と共に浮かび上がり、確かに存在を主張し始めた。同時に、管の先に取り付けられている散水器からは細かに分かれたお湯が降り注ぐ。本来ならばその下でお湯浴びをするのだが、いかんせん猫の前足は短い。人間のサイズを基準に調整されているシャワーは背後の空間を通り過ぎていくだけに終わった。
クロもそれは承知していたのか、すぐに前足を離して魔力の供給を止める。徐々に勢いを弱めた水流も完全に止まって僅かに雫が落ちるのみとなった。
「とまあ、こうやって魔力を送ってやれば湯が出るわけじゃ。体を洗った後に石鹸を洗い流したり、軽く汗を流すのに使うとよいぞ」
「あの、今更なんですけど、どうやってお湯を出しているんですか?」
「ほう? 気になるかの?」
湯船の縁に寄り掛かるようにして黒猫の動きを追っていたククルゥから、そんな質問が飛んだのは、黒猫にとっても想定外だった。
「はい。魔道具でお湯を出せるって聞いたことがなくて」
わたしが知らないだけかもしれないですけど、と付け加えたククルゥに、クロは得意満面で答える。
「ふむ。確かにこれは出回ってわおらんじゃろうな。作ったのは儂らじゃし」
「お二人が?」
「うむ。そもそも普通の魔道具にもお湯が出る程度のものがあってもおかしくない。じゃが実際には殆ど見かけん。何故か分かるかの?」
「水を出す、と水を温める、の二つの効果を付与する必要があるから、ですよね」
「その通り! よく分かったの」
「昔、他の冒険者の方に言ったことがあるんです。どうせならお湯が出てくればいいのに、って。そうしたら教えてくれて」
「ほほう、その冒険者とやらも大したもんじゃが、何よりも嬢ちゃんは着眼点が良いの!」
黒猫は機嫌良さげに目を細めた。魔法に限らず、技術を学ぶ上で大切なことはいくつかあるが、既存の理論や技術に疑問を持ち、それを知ろうとする好奇心は誰かに言われて持てるものではない。幼少期からそうだったが、この少女はこういった面でも魔法使い向きの性格をしているようだ。
湯冷めするのを防ぐため、クロは再び湯船に入って説明を続けることにした。
「既に知っている内容と重複する部分もあるやもしれんが、魔道具について簡単に解説しておこう」
そう言ってクロが語る。
魔道具とは既存の道具に魔法陣を刻んだもの。これは誰でも知っていることであるが、その効果が単純なものにならざるを得ないという欠点を持っていることは意外と知られていない。というよりも、単純な効果でも問題ないものしか魔道具化されていないというのが正しい。
理由は簡単で、魔法陣を刻む為のスペースが足りないからである。
魔法陣は複雑な効果になるほど複雑になる。そして、複雑な魔法陣を刻むにはそれなりに広いスペースが必要になるのは自明。だが、道具として使いやすい形が決まっているものほど、その形状を変えるのは難しい。よって、限られたスペースに収まる程度の魔法陣にするか、或いは密度を上げて無理やり収めるかのどちらかになるのだが、後者の難易度は非常に高く、それをこなせる腕の持ち主は少ない。むしろ殆どいない。
結果として、簡易な魔法陣を刻むのが主流となり『魔道具イコール単純な効果を付与された道具』という認識が広まったのだ。
しかし、本来の魔道具とはもっと自由な発想と大胆な構成で作られるべきものであり、形状や効果、作成難度に囚われるのは愚かしい。
この店舗兼住宅を建てるにあたっては魔道具の基本設計段階ではマキオの拘りが、制作段階ではクロ自身の拘りがふんだんに盛り込まれている。言い換えれば、自重というものを投げ捨ててやりたい放題作っている。その内の一つがこの浴室、という訳だ。
「な、なるほど~……」
簡単に、と言った割には長い上に途中から盛大に脱線した説明だった為、ククルゥの頭は沸騰寸前であったが、そこは仮にも師匠の話。なんとか聞き漏らすまいと最後まで気を張っていた。
「はっはっ、一気に話し過ぎたの。のぼせてしまってもいかんし、そろそろ上がるとするかの」
「は、はい~……」
脱衣所に出たところで、ククルゥは気付いた。自分の服は今お茶で濡れてしまっている。乾かせば着れないことはないだろうが、流石に入浴していた間に乾くほどではないはずだ。それに可能なら洗濯をしてから乾かしたいというのもある。
「クローネさん、あの、そういえばわたしの服はどうしましょう……」
「ん? ああ、着替えか。問題ない。ほれ、そこに用意してあるじゃろう」
「え?」
視線をめぐらせれば、クロが言う通り脱衣所に設置された小さな棚にワンピース型の部屋着が用意されていた。手にとって見るとその下には腰紐でサイズを調整できる汎用性の高い下着も置かれている。
いつの間に用意されていたのか、と考えてそれができた人物が一人しかいないことに思い当たった。
「あの、これ……」
「うん? ああ、気にするな。儂が昔使っておった物じゃが、きちんと洗ってあるから安心せい」
ククルゥが聞きたかったのはそういうことではなかったのだが、勘違いしたクロがカラカラと笑うのを見てなお聞くほどの押しの強さはなかった。
それに、もう一つ気になることができてしまった――というよりもずっと気になっていたことを聞く機会を得た、というのもあった。即ち。
「クローネさん、聞いていいことかどうか分からないんですが……」
「うん? なんじゃ、遠慮なく聞くが良いぞ」
ベタベタするクリームから解放されて毛艶も戻ったクロは上機嫌に答える。鼻歌でも歌いそうなほどだ。その上機嫌さに背中を押されて、ククルゥは意を決して尋ねることにする。
「そ、その……クローネさん、どうして猫になってるんですか?」
核心を突く質問だった。
実のところ<記憶遡行>を受けたときからずっと気になってはいたのだ。記憶にあるクローネは間違いなく人間の女性だったはずで、起きたときに半信半疑でした確認を本人があっさりと肯定した為にここまで深く追求してこなかったが、普通人は猫にはならない。
もしや深い事情があるのでは、と緊張した面持ちでクロを見つめるククルゥに対し、黒猫が返したのは。
「…………趣味で?」
なんとも微妙な答えだった。
「しゅ、趣味……?」
「う、うむ……そうじゃよ?」
嘘である。この黒猫、老獪な喋り方をする割に表情や態度にモロに嘘が現れる。最初から嘘をつくつもりで身構えていればその限りではないが、咄嗟のことや想定外の事態には弱いのだった。
もっとも、仮に嘘が上手かったとしてもククルゥには通じなかっただろう。翼耳族の耳は嘘に敏感なのだ。
「………………」
だからこそ、無言でじーっと見つめるという、人猫問わずプレッシャーを掛けられる技をククルゥは使用した。悪意は感じなかったことからそれほど深刻な話ではないのだろうが、嘘をつかれるというのはやはりいい気分はしない。
「………………」
クロの方もあれで誤魔化せるとは最初から思っていなかったのだろう。しかし、だからといって話すつもりもないと、こちらも無言のまま視線を逸し続ける。
「……わかりました。クローネさんの趣味なんですね」
無言の決闘を制したのは黒猫だった。どうやら言いたくないらしいことを悟った少女はそれ以上の追求を諦めることを選択する。
「ですが、これだけは聞かせてください。その、もしかして……もう人には戻れないんですか?」
「いや? そんなことはないぞ」
ククルゥとしては割と真剣な質問だったのだが、本猫は全くそんな空気を読まずに軽い調子で答えた。
予想外に軽いその返答にククルゥの方が付いていけなかった。肩透かしもいい所である。
「趣味じゃからの。別に戻ろうと思えばいつでも戻れるとも。ほれ」
クロは、自分を心配してくれていたらしい可愛い弟子を安心させる為に猫への<変身>を一時的に解除してみせた。
そこに現れたのは全裸の婦人。艷やかな黒髪に健康的な小麦色の肌をした美女だ。形の良い金色の目は妖艶な大人の雰囲気を纏いつつも、どこか悪戯な猫を思わせ、スラリと細いながらもしなやかな筋肉に覆われた肢体がさらにその印象を強める。ククルゥの記憶の中の「クローネおねえちゃん」が順当に大人になればこうなるだろうと納得させる容姿だ。
だがそれよりもククルゥの目を奪ったものがあった。足元にいた猫に話しかける為、少し屈んでいたククルゥの目の前で揺れた双丘である。
ククルゥとて年齢からすればスタイルが悪いわけではない。むしろ密かに自信を持っていた。だが、目の前の大いなる実りの前では所詮青い果実にすぎないのだと、思い知らされてしまった。
どうやら師匠との間にはまだまだ大きな格差があるようだ。
「……師匠と呼ばせてください」
「うん? 元からそのつもりじゃが」
ポンッという気の抜ける音と共に再び猫へと姿を変えたクロは、妙に熱の入った様子の少女に首を傾げつつも頷くのだった。
次回予告:本格的に魔法修行を始めるククルゥ。最初の修行は……家中の掃除!? 一見魔法となんの関係もなさそうなこの修業に果たしてどんな意味があるのか! 次回、『修行といえば掃除と走り込みって誰が決めたの?』お楽しみに。




