2. カウボーアのステーキ
コートナは公爵令嬢である。公爵とは、王家に連なる血筋の貴族である。また、コートナは現ボーショック家の唯一の女児であり、蝶よ花よ、と育てられてきた。それ故に、4歳のころから既に、王家の第三皇子と婚約をも結んでいた。
当然、花嫁修業もそれに伴ったものとなる。貴族の嗜みを学びだしたのは5歳の時。6歳で社交界デビューを果たし、7歳で最低限の学問を一通り終えた。
その様は、正しく傑物のそれであり、周囲の期待は嫌が応にも盛り上がる。
ところで、ボーショック家は『王家の食物庫』と呼ばれるほど、食べ物に関係している一族である。それ故に、ボーショック家は王国一の美食家の家系としても名が知れていた。
ボーショック家に生まれたからには、酸いも甘いも、美味いも不味いもあらゆる食べ物を食べさせられる。王国でも珍しい『食育』――食べるものを育てる所から初めて情操教育を行う行為――を行っているのも、現在ボーショック公爵領のみであった。
コートナは、そんな家庭に生まれながらにして、家族で唯一『食事』が嫌いであった。食事は、体の健康を維持するための行為であり、味は二の次である。これが、当時の彼女の考えである。
もちろん、料理を作った者を労うのも、味の感想を述べるのも貴族の嗜みだ。逆に、コートナにはそうとしか考えられなくなっていたのである。
なまじ、コートナが繊細な舌を持っていたことも災いした。両親、家族、料理人、同席の人間……彼らの望む感想を見極め、コメントすることができたのである。
彼女にとって、食とは、コミュニケーション手段であり、ただの「行為」であったのだ。
事の起こりは、学園に入る更に5年前。コートナ=ボーショック、10歳のことである。
ボーショック家に、「流れの料理人」を自称する探索者が訪れた。探索者ギルド――探索者をサポートする国際機関である――でも名うての彼がボーショック公爵領を訪れたことにより、ドコマ公爵は彼を自宅に呼び寄せたのである。
シェフ。
そう名乗る彼は、貴族でもなければどこの出身かもわからない風貌をしていた。ただわかるのは、探索者に似つかわしくない、純白の衣を着ていたということ。普通、探索者は冒険をする。風呂に入らないのも日常茶飯事で、どうせ汚れるならと色の濃いものを身にまとい、汚れを目立たなくする。白などと、汚れの目立つ服装は好まないのに、である。
そんな風代わりな、苗字のない彼を、初見ではコートナは侮っていた。コネを作るまでもない相手だと。だからこそ、家族が彼を歓待している意味が理解できなかった。
そして、その夕食。その日のメインディッシュは、カウボーアのステーキだった。
カウボーアは双頭の魔物であり、イノシシの体をしている。イノシシの首の根元からは、イノシシとは違う、牛の頭が生えている。ボーショック領のみならず、幅広く育てられている食料用の魔物であり、その身は毒抜きこそ必要ではあるものの、美味とされている。
コートナもよく食べる、メインディッシュの肉料理の素材であった。
ボーショック家お抱えの料理人は、かつて王宮でその腕を振るった有名な人間であり、王宮料理人の長の座を譲ったところをドコマ公爵にスカウトされたのであった。もちろん、その腕は天下一品と評されている。
シェフとドコマ公爵の目の前に在る肉は、ボーショック家の専属料理人にして料理長、かつての元宮廷料理人の手で焼きあげられた一品だった。スッ、と手ごたえもなくナイフが通るが、ブツ、とフォークで刺せばそれが確かな厚みとなって伸し掛かる。
シェフが一切れ口に入れ、咀嚼する。飲み込んだタイミングで、ドコマ公爵は自信ありげに尋ねた。
「いかがですかな、シェフ殿。うちの料理人の腕前は」
シェフも、にっこりと笑って答える。
「いやぁ、流石の腕です。火の通りは満遍なく、しかし肉汁が出切った様子はない。肉の旨味を最大限に生かす焼き加減だ」
シェフのコメントに、ドコマ公爵も満足そうにうなずいた。それは、コートナも納得するコメントだった。
シェフとドコマ公爵以外の目の前の肉は、シェフらのステーキとは違い、料理長の男とは別の人間が焼いたものだ。しかし、適当ではない。料理長の監修の元、味見で合格できたものが並んでいる。――とはいえ実は、コートナの目の前にあるのはシェフたちと同じ、料理長の手による一品だ。
無論、子煩悩なドコマ公爵の贔屓である。
それはともかく、その肉厚なステーキは、しかして子供の力でも何の苦も無く切り分けられる火加減であった。切り開いたその肉は、礫岩のような表面に反して、ルビーのような赤みの断面図をさらけ出している。
一口大に切り分けて口の中に入れてみれば、下が焼けるような熱はない。しかし、焼いた獣肉特有の重厚な獣臭さが広がる。
しかし、嫌な風味ではない。
いくつものハーブで不快な臭みが消されたそれは、香辛料のおかげも相まってピリリと口の中を刺激する。残った痛みの残滓は、肉汁の油で洗い流され、旨味を伴う甘味だけが残る。
シェフは、更に付け合わせの根菜に手を伸ばす。
「これも、いい。一旦下茹でされているので、食べるまでに溢れた肉汁を吸い込み、余すことなく味わうことができる。野菜の苦みが、脂の甘みを引き立たせる。最高です」
シェフのコメントに誘われるように、他の面々も肉汁を吸わせた野菜を口に入れ、その旨味に満足そうな笑みを浮かべる。旨い食べ方を初めて知った、という物まねだ。確かに美味かったのだろう。野菜嫌いの次男も、驚いたように野菜と肉に視線を彷徨わせていた。
しかしコートナは、浮かべた笑みの裏側で落胆していた。「それくらいの感想なら、自分でもできる」と。
何より、コートナにはこの目の前のステーキが、そんなにこやかに称賛できる出来だとは思えなかったのだ。
もっと、画期的な言葉でこの感想を覆してくれないものか、と期待したが、とんだ期待外れだった。
彼女は内心、ため息をついた。ドコマ公爵はおろか、コートナですら気付かない内心のため息。
瞬間、シェフの目が剣呑な輝きを帯びる。続けて一口、一切れを食べて、ナイフを置いた。
「……しかし、勿体ない」
先ほどと異なる、ネガティブな空気。何か、気分を害するものがあったのかと、ドコマ公爵が眉を寄せた。
「勿体ない、とは?」
「確かに、美味い。美味いが、これは公爵家に出す料理ではないようですな」
「なっ……!?」
料理の説明のために、傍に控えていた料理長――シェフとドコマ公爵の肉を焼いた、料理長が息を飲む。
もちろん、絶賛していたところのこのセリフ。コートナも目を瞠った。彼女自身、何も問題ない出来だったからだ。いくら料理長とそれ以外が焼いたからと言っても、そこまで大きな味の変化はないはずだ。
そもそも、シェフに出された料理の方が、美味いはず。
そんな周囲の困惑が部屋の中に充満しきったところで、シェフは口を開いた。
「公爵家では、どのように料理を出しますか。もちろん、料理が終わってからですが」
調理が終わった後の話を出され、料理長は困惑する。答えたのは『エラ=ボーショック』。ドコマ公爵の奥方であり、コートナの母である。
「どのように、とおっしゃっても、出来上がった後はなるだけ早くこの部屋に運んでもらっているだけですわ。特に、特別なことなど」
しかし、シェフは首を振る。
「いや、一工程ありますね。執事の方が毒見をされている。あれは?」
「ああ、それはコートナのためですわ。日ごろの食事から、王宮でのテーブルマナーを心がけるようにしておりますの。
コートナは、カマワン王子の婚約者ですので、ゆくゆくは王宮に登城する予定ですの」
「ああ、なるほど。ということは、調理場でも何かしているのでは?」
言われて、エラ夫人は気づく。
「そういえば、解毒の魔法をかけておりますわね。でも、魔法で味が変わる、と料理長が言っていたので、問題ないように"それ"用の調理をしているはずですわ。
ですわね?」
ねぇ、と確認のためにエラ夫人が料理長を向くと、彼は頷いて肯定した。
「……それでは、この調理法は合わない」
シェフは、目の前の料理が料理法に合っていないと断言した。
泡を食って反論するのは、料理に自信があった料理長だ。雇い主が饗している相手ではあるが、プライドを傷つけられたせいか語調は荒かった。
「どういうことだ、若造!私の料理が不完全だというのか!?」
「いや、料理法は完璧だ。出来立てであれば」
「何?」
批判したかと思えば、その技術を肯定する。何が言いたいのかわからず、眉を顰める料理長。
シェフは、再び肉にナイフを入れ、その一切れを持ち上げた。
「カウボーアの脂は、冷えやすい。熱が通れば、それは湯水のように滑らかであるが、ある一定以上冷めてしまえば途端に固まり、肉の旨味を損なう」
「知っている。だからこそ、解毒の時間を含めた焼き加減にしている!中に熱を閉じ込め、食べるタイミングで十分な熱を残せるようにしているんだ!
それに、冷えた時のために、焼き石だって用意している!」
「二度焼きをしてしまえば、完璧な焼き加減からは遠ざかってしまうでしょう?」
そう。出された鉄板の端には、肉が冷えた時のために焼き石が用意されていた。魔力により、冷えることなく常に熱を発し続ける焼き石。肉が冷えた時は、これに押し付けることで再度熱を与えて温かい肉を食べられることができるように用意されたものである。
ちなみに、それなりの値段のするステーキ皿には必ず備え付けてある魔道具だ。
「時間が経てば、脂が冷えてしまう。ステーキは、熱いものを食べる料理だろう!?
冷えたステーキを食べさせるくらいなら、二度焼きがなんだというんだ。それより、最初に一口の満足感を続ける方が大事だ」
焼き石を一瞥し、シェフは言葉を紡いだ。料理長から期待の一言が出たことで、肝心の部分に手が出せるようになったのだ。
「その一口。実際に食べるタイミングは解毒と毒見の時間を考えていない」
毒見。
その単語に、料理長は「アッ」と声を出して俯いた。自分のミスに気付いたのだ。
焼き石を使った再度の温めで味が落ちるのは、もはやしょうがないことだ。冷えた肉では、固まった脂で消化不良を起こす可能性すらある。その危険性に比べれば、二度焼きで風味が落ちてしまうこと何するものか、というのが今の肉料理――とりわけ、高級ステーキに属される料理を出す側の常識となっていた。
しかし。
どうあがいても、万物は劣化する。だからこそ、最初に一口目はどんな料理人も気を付ける。最高の一口のために、料理を研鑽するのだ。
一方、解毒の魔法は、実は少々の熱が発生する。この熱で料理の出来具合が変わることに気付いた料理人達は、王宮での経験から解毒魔法が使われる料理用の調理法を確立していた。
その経験があったにもかかわらず、料理長は毒見の時間については失念していた。なぜならそれは、花嫁修業が始まった時こそ早5年前となるが、テーブルマナーに調理側が合わせだしたのはまだ半年に満たなかった。
料理長は、つい、コートナの花嫁修行が始まる以前と、同じ調理時間で考えて料理してしまっていたのだった。
さながら料理の品評会のような様相を呈して、上手に立ったのはシェフ。その光景に、コートナはそれまでの予想を覆されたことでぽかん、と口を開けて驚いていた。
ドコマ公爵は、うむうむ、と頷いてシェフを称えた。
「いや!いやいや、流石シェフ殿。納得の理由ですな。
やはり、最高の料理人は最高の料理を知る、といったところですかな!いや、熟練の料理人も形無しか」
手放しで褒めるドコマ公爵に、悔しそうだが、納得したのかすっきりした表情で調理長は頭を掻いた。完敗の意思表示だった。
しかし、その言葉にシェフは苦笑の表情を浮かべた。
「いえ、正直細やかなところです。気を付ければもっとおいしい。でも、そこまで気にしなくてもおいしい。
気にするのは料理人だけでしょう。後は……」
ふと、コートナは見られていることに気付いた。
「ドコマ公爵。貴方の娘さんは、非常に繊細な舌をお持ちの様だ」
コートナは、戸惑いながらも頭を下げた。何故、名指しされたのか、分からなかったからだ。
一方のドコマ公爵は、自慢の娘が褒められたと思ったのか、満面の笑みで応える。
「そうなんです!うちの娘、コートナはボーショック家一の美食家と言っても過言ではなくてですな。
うちの料理長も、隠し味すら看破されて日々頭を悩ませるぐらいでして」
シェフは、にこにこと笑っているが、ふと眉を下げてコートナに尋ねた。
「コートナ嬢。ごはんは美味しくないかい?」
「えっ」
その言葉に、驚いた表情で声を漏らすコートナ。視界の端で、目を見開いているの両親、家族、料理長。食を愛するボーショック家の一員、しかも最高の一品を与えていた相手が、実は満足していなかった可能性。
特に、その情操教育に力を入れていた自負のあるドコマ公爵は冷汗すら垂らしている。
一方で、コートナもごくり、と唾を飲んで緊張を露わにしていた。隠していたことを、予期せぬタイミングでズバリと当てられ、否定の言葉が出てこなかったのだ。
今まで、ディスカッションの経験がなかったわけではない。しかし、「ふとした会話の中で反論をする」という経験不足がここで露呈してしまったのだ。
「……公爵。料理長。明日、調理場を貸していただきたい」
そんなコートナを見ながら、シェフはそう口を開いた。
毎度、ご拝読ありがとうございます。