4.ウイルスの戦略
実際、三厩遥香は死亡していた。
ネットでニュースを検索したら、すぐに顔写真がヒットした。こうも容易く、ただの一般市民の情報がニュースに載せられていいものだろうかと思う。しかし、申し訳ないことだけれど、いまの僕にとっては有益な情報である。
まったく似ても似つかない別人であってくれと、心のどこかで願っていた。僕の知っている三厩遥香は、生きた人間であると、少なからず願っていた。
果たして、姉妹などという可能性が入る隙などない、完全なる同一人物であった。
「やっぱりか」
願いは、予想を超えることはなかった。
「どうすればいい……?」
いまは亡き、あの焼けただれた女の子を思い出す。彼女に問うように、僕はひとりつぶやいた。
三厩遥香は戦った。本物の彼女は、彼女の姿を模倣しているあいつに抗った。自分ごと焼き払おうとしたのだ。戦って死んだ。
しかし、彼女の奮戦むなしく、あいつは生存していて、いまは僕をターゲットにしている。
「どうすればいい」
また、同じことを口にしてしまう。
夏の夕暮れは、何も答えない。ただ濃く紫色に暮れてゆくだけ。
「は? なに? 元気そうじゃん」
蝉の合唱を背に、見知った女が僕の前に立った。
「翔子……、どうして?」
病院の駐車場で、元恋人と出くわしてしまった。
僕の心に、いま翔子と話をするような余裕はない。タイミングは最悪だった。
「どうしてって、なに? 馬鹿にしてんの? あんたが呼んだんじゃん」
「は……?」
仕事帰りなのだろう、翔子はスーツ姿だった。片手にはスーパーの袋を携えて、大き目のマスクで顔を覆っていた。
そして、よく見れば、ぜえぜえと肩で息をしている。ここまで走ってきたのかも知れない。
「もしかして、看病しに来てくれたのか?」
「なんなの、腹立つ……。インフルエンザで死にそうだって泣き言繰り出してさ。頼れる人が他にいないっていうから仕方なく来てみれば……」
そんな連絡を入れたおぼえは、一切なかった。たしかにちょっとだけ迷ったが、結局は連絡しなかったはずだ。するわけがない。気まず過ぎる。翔子の浮気相手――いまの彼氏だって、良い気はしないだろう。
「と、とにかく、すまなかった。迷惑かけたな。この通り、いまは大丈夫だ」
僕の容体は驚くほど急速に回復した。それでも、ウイルス感染症の疑いが消えるわけではないので、病院は僕を隔離し続けた。しかし、どれだけ検査を重ねても、僕からウイルスは検出されなかった。それどころか、調べれば調べるほど、僕の健康が証明されていった。
そんな僕を、病院も長くは引きとめておけず、定期的な検査を条件に解放してくれたのだった。
「何かの手違いだったのかも知れない」
「最悪。ほんっとに慌てて損した」
翔子は長い髪をかきわけ、これ見よがしに溜息をついた。
「もういい。金輪際、わたしに連絡なんてしないで。もうあんたとは終わったの」
「わかってる」
「そう。はい、これは好きにしていい。それじゃ」
そう言って、翔子はスーパーの袋をその場に残し、踵を返した。
「マーイタ! おつかれー。どうだった?」
返った翔子の踵は、駐車場の小石を跳ねて止まった。
僕が昔好きだった大きな目は、肩越しに僕の左側を睨みつけている。
「あー……、そう。そういうことね。仕返しってことね。ちっさい男……」
「い、いや。べつにそういうつもりじゃなくて」
「そういうつもりでしょ。それ以外に何があるっての。あんた、そういう女が好みだったっけ?」
とつぜん現れた遥香は、何も言わないで僕に寄り添った。僕の左腕にギプスの右腕を巻き付け、ただニコニコと翔子を見上げているだけだ。
「そっちこそ。年下ってだけじゃなくて、もっとヤンチャなやつが好みだったのかよ。いい年してヤバいな」
相手の男を思い出して、ついそんなことを口にしてしまった。
しかし、言葉に詰まった翔子を見て、すぐに言い過ぎたと後悔した。もう終わったことなのだ。蒸し返すのはよくない。だというのに――、
「ふっ。ねえ、マイタ。あの女、泣いてない? 何しに来たの?」
――などと、遥香が盛大に煽る。
「うっさいな! 泣くか! もういい、死ね!」
自分で飲もうと思っていたのか、一つだけ袋から出していたペットボトルのお茶を投げつけ、翔子は憤然とした歩みで去っていった。
「どういうことだよ……」
翔子の背中が見えなくなって、僕は全身から力が抜けた。
「ボクが呼んだ」
「なっ……! どうして? どうやって?」
「ボクとマイタはもう一心同体。何でもわかるし、何でもできるんだよ」
「なんだよ、それ」
無茶苦茶なことを言っている。だけど、否定できない。そんなオカルトじみたことできるわけがないと、切って捨てられない。
遥香は僕の家を知っていたし、翔子のことも知っていた。それは動かぬ事実である。
「どうだった?」
「あぁ、ウイルスは検出されなかった。体調も良くなったよ」
「それはわかってる。初期症状が一番危ない。だから病院に連れてきた。でも、もう大丈夫」
「どういうことだ?」
「ボクが聞いているのは、あの女のこと」
アスファルトの地面に置かれ、昼間の余熱で温められているスーパーの袋を指した。
そして――、
「ちょっとスカッとしたでしょ?」
そう、悪戯っ子のように笑った。大きな目がなくなっちゃうくらいの笑顔。
言葉に詰まり、顔を引きつらせた翔子を思い出す。
僕の中の加虐心みたいなものが、入道雲のように沸き上がった。
「まあ……。うん。まあ、そうだな。ちょっと、いい気味だと思ったよ」
「だよね。なかなかの吠え面だったとボクも思うよ」
まずいと、理解はしている。
本物の三厩遥香のように、僕も抗わなければいけない。絶対に大変なことになる。
「でも、これは有り難くもらっちゃおう。ね、マイタ。お腹すいたね」
目深にかぶっていたキャップを押し上げ、遥香の笑顔がはじけた。
それは、抗いがたいものだった。僕の中の加虐心を押しのけ、秋風のように涼しく吹き抜けたのは、間違いなく幸福感だった。
「マイタにはボクがいるよ。ずっと一緒。ボクは絶対に裏切らない」
これは無理だ。
もう僕にはどうしようもない。
「だって、ボクにもマイタが必要なんだ。ずっと一緒にいたいよ」
こんな幸福感に、抗う術を僕は持たない。
「だから、マイタはボクに全力で依りかかっていいよ。敵はすべて排除してあげる。安心してすべてを預けてくれていい」
遥香が僕に感染したその出会いに、心からの幸福感をおぼえていた。
「そっか。ずっと一緒か」
「うん。帰って一緒にご飯たべよ!」
僕の腕に絡みつく遥香。
もう、振り払おうという気持ちは起こらない。抗う気持ちも沸いてこない。
本物の三厩遥香は、どうしてこんな幸福を投げ捨ててしまったのだろう。ただそれだけが疑問だった。