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3.診察

 十五時。


 てっきり、遥香は僕を病院になど行かせる気がないと思い込んでいた。

 しかし、彼女が僕を看病しようという心意気は本当で、いろいろと手を尽くしてくれた。昼食に作ってくれた粥は驚くほど美味しくて、吐き気も忘れてかき込んだ。病院にも遥香は付き添ってくれていて、事情を話してタクシーを呼び、ふらつく僕を支えていてくれている。


「それじゃ、ボクは外で待ってるよ」

「え? 中の方が涼しいぞ」


 僕は目を細めて空を見上げる。

 殺意豊富な日差しが照りつけ、とどめとばかりに蝉の合唱が熱気を盛り上げていた。


「こんなとこにいたら熱中症になる」

「ボクは平気。病院は好きじゃなくてね。薬品臭くてかなわない」

「日陰にいるんだぞ」

「はーい。ボクのことより自分を心配しなよ」


 わかった。そう言って、僕はERの自動ドアをくぐる。振り返ると、アスファルトの上で蜃気楼が発生していて、向こうの遥香が輪郭を朧にしていた。キャップの陰になって目元は見えないが、口角の上がった口元が見える。おぼろげな笑顔だった。


 いつの間にか、僕は遥香を受け入れてしまっている。

 それはまずい。危険だ。そういう思いはある。だけど、まるで危機を感じるセンサーに透明な膜を張られたようだった。感覚が鈍い。何か致命的な間違いを犯してはいないだろうか。そういう考えすらも、うまく働かない。

 家の鍵を閉め忘れた気がする。だけど、まあ大丈夫だろうと楽観し、やがて忘れる。そういう感覚に近い。


「こちらへどうぞ」


 うまく動かない頭も体も、きっと熱のせいだろう。診察をしてもらい、薬でも飲めば頭もクリアになるに違いない。

 女性の医師に促されるまま、僕はカーテンで仕切られた診察スペースに入った。


「昨日の今日で大変ですね。怪我の方はきちんと消毒してますか?」

「はい。やってます」


 マスクをしているので気付かなかったが、僕の頭を縫ってくれた医師のようだった。


「ごめんなさい。変な質問なんですけど、さっきの女の子は知合いですか?」

「え? ええ、まあ、そうですけど……」


 遥香のことだろうが、どうして医師がそんな質問をするのだろうか。


「彼女が、何か?」

「いえ、すみません。なんでもないんです。診察しましょう」


 どこか様子がおかしかったが、診療に不手際などはなさそうで、てきぱきと検査などは進んでいった。

 しかし、事態が不穏当な空気を含み始めたのは、インフルエンザの検査キットを持った看護師が、医師に何事かを報告したときだった。

 暗黒期、などというヤバめの言葉も聞こえてきて、何だそれはと詰め寄りたくなる。遥香のおかげでマシになったとはいえ、体調は相変わらず悪いので、僕はおとなしく待っていた。


「結論から言いますと、インフルエンザの検査は陰性でした」


 医師は僕にそう告げた。

 それはつまり、インフルエンザではないということだ。しかし、高熱が出始めたばかりであるとか、症状の初期段階ではウイルスが検出できないこともあるそうで、まだハッキリとインフルエンザを否定できるわけではないらしかった。


「血液検査の結果もまだですし、ここでしばらく待機してもらって、時間を置いてまた検査してみましょう」

「わ、わかりました」


 ものすごく不安になってきた。何かどえらいウイルスに感染していたらどうしよう。

 ここしばらくの出来事を思い出し、心当たりを探ってみるも、とくに感染リスクの高い行動は取っていないように思う。


「この発疹は、前から出ているわけではないんですよね? 海外旅行はしましたか? アレルギーとかはありますか?」

「発疹は今朝からですね。海外旅行はしたことないです。アレルギーも、とくにないと思います」

「食欲はあるという話でしたが、普段と比べてどうですか? 異様にお腹が減るとかありませんか?」

「言われてみれば、普段では考えられないほど食べている気がします」

「なるほど……」


 質問を重ねながら、医師は僕の左手を触っている。薄いゴム手袋で、小指のつけ根あたりをこりこりしている。少しピリッとした痛みを感じた。


「さっきの女の子、名前を教えてもらってもいいですか?」


 また遥香のことを尋ねられた。どうして、この医師は彼女のことを気にするのだろうか。そして、どうして左手をものすごいこりこりしてくるのだろうか。


「どういうことですか?」

「ウイルスには腫瘍を形成するものがあって、そのなかでも特異な例を最近目にしました。その患者さんのご家族の話では、いまの蒔田さんと似た症状を発症していた時期があったそうです」

「それと彼女に何か関係があるんですか?」

「あるかも知れない、というだけです。なので、さしつかえなければでいいので、教えていただきたいです」


 少しだけ迷ったが、さしつかえなどないだろう。さすがに名前を医師に伝えただけで、何か面倒な事件が起こることもないはずだ。


「遥香です。ええと、みん……みんま」

「三厩?」

「あ、そうです。三厩遥香。なんだか憶えづらいんですよね、みんまや」


 医師は絶句していた。

 力なく苦笑して見せる僕とは反対に、医師は引きつった顔をしている。


「最近、中学生くらいの男の子と接触したりしませんでしたか?」

「どんな質問なんですか、それ。ないですよ。まったくないです」


 やけに偏った方面に具体的な問診である。


「それで、何かわかりました?」

「ええと……。これから、わたしは奇妙なことを言います。ただし、わたしは正常です。肉体的にも精神的にも健康です」


 歯切れが悪いというか、言い訳で外堀を埋めている。つまり、頭がおかしいと疑われそうなほど奇妙な話をしますよ、と言いたいのだろう。


「わかりました。それで、どうしたんですか?」


 待ちきれず、僕は先を促した。


「ニュースでも実名と顔写真が報道されていましたし、言ってしまいますが――」


 医師は壁を見る。しかし、おそらく壁ではなく、その向こうに意識がいっている。遥香が待っているであろうERの外。


「あの女の子、三厩遥香さんはすでに死亡しています。自宅で灯油をかぶり、自身に火をつけました」




 ◇




「これから話す内容は、あくまでも症例のひとつとして受け止めてください。特定の患者さんの話ではありません」


 と、医師は言ったものの、焼身自殺をはかったという昨日の女性のことだろう。亡くなったとはいえ、医師が患者の情報をみだりに話すわけにもいかないため、“そういうことにしてくれ”ということだろう。

 三厩遥香。僕の家に現れた遥香と同じ名前。医師の驚きようから、おそらく顔も似ているのだろう。 僕としては、話を聞いておきたい。


 僕は医師に向かって肯定の頷きを返した。いよいよ座っているのも辛くなってきたため、僕はベッドに横たわっている。


「ご家族などの話から、その患者さんは錯乱して火を放った可能性がありました。そして、あまり素行の良くない人たちとの関わりもあったようで、違法な薬物への関与が疑われ、司法解剖が行われました」


 明確な事件性もないのに、司法解剖が行われることはあるのだろうか。それとも、その素行の悪い友人たちというのが、よっぽどの人たちだったのだろうか。どちらにせよ、昨日の今日で迅速に司法解剖が行われたのは事実なのだろう。


「解剖の結果、薬物は検出されませんでした。が、代わりにウイルス感染症であった疑いが出てきました」


 繋がってきた。

 僕もそのウイルスに感染しているというのだろうか。でも、どうして。


「しかし、感染していたことはほぼ確実なのに、ウイルス自体は検出されませんでした。ご遺体の状態のせいもあったと思いますが、痕跡だけが残されていたという話です」

「そのウイルスは、感染するとどうなるんですか?」

「断定はできませんが、その患者さんの左手には腫瘍ができていました。小指のつけ根あたりです。それがもし悪性であれば、癌ということになります」

「小指のつけ根、触ると少しピリッとします」

「しこりがありますね。血液検査を待つ間、左手のしこりも検査してみましょう」


 ウイルス。腫瘍。癌。

 ただのインフルエンザだと思っていたが、どうもそういうわけではないようだ。


「癌ですか……」

「腫瘍のほとんどは良性ですから、過度に不安になる必要はないですよ」


 とはいえ、がぜん恐ろしくなってきた。万に一つで、一の方を引きがちな人生だってあるのだ。僕はどうだったろう。そもそも、特異な例というウイルス感染症を疑われている時点で、一の方を引いた気がしている。キャビネットに頭をぶつけて労災が下りた奴など初めてだと言われたし、万に一つはあり得るのだ。可能性というやつは恐ろしい。いくら低くても、ゼロでないのならいずれ誰かに当たってしまうのである。

 まったく、いったい、どこでそんなウイルスに感染したのだろうか。


 そのあとは、レントゲンをとったり、血液検査の結果がやはりウイルス感染を示していることが判明したりと、体調の悪い僕には酷な時間が過ぎた。

 そして、僕はいまERで簡易的に隔離され、医師による細かい問診に応じていた。


「そういえば、中学生の男の子、というのは?」


 遥香の名前を出した直後、医師が僕にしてきた質問を思い出し、僕は逆に問いかけた。


「あぁ、それは……。ご家族の話によると、中学生くらいの男の子とよく出歩くようになってから、いつからか自分のことを“僕”というようになったと聞いたんです。だから、直感的にその男の子が関係してないかな、と」


 全身が粟立った。


「い、いま、その子は?」

「どこに行ったのか、もう姿が見えないそうです」


 僕の知っている遥香との共通点が、不意に浮かび上がる。

 共通点は、そのまま不可解な点になる。彼女の不可解な点は他にもあった。どうして僕の家を知っていたのか。どうして翔子のことまで知っていたのか。どうして僕に献身的なのか。どうして、僕なのか。


「あっ!」


 一つの、とても馬鹿らしい考えが頭に浮かんだ。

 何かを媒介にして感染するウイルス。寄生しなければ存在できないもの。ヒトに寄生し、ヒトからヒトへ伝染していく。タンパク質などのボディに遺伝子を格納したシンプルな構造。そして、シンプルな動機。


「遥香! 遥香!?」

「蒔田さん!?」


 僕のバイタルをモニタしていた機器が、警報を発している。何かしらの異常を示しているのだろう。そりゃあ、そうだ。あまりにも馬鹿らしい、あまりにも荒唐無稽。そんなことを考えたなら、こいつは馬鹿だとバイタルサインも引っ繰り返るというものである。


「あ、あの……、遥香は!? 遥香が待ってる。さすがに待たせすぎで。せ、説明も何もなしじゃ……!」


 視界が黒い渦に飲み込まれそうになる。まるで、貧血で倒れる直前のようだった。

 医師が指示を飛ばし、看護師が何かの薬品を僕に注射した。まわりが慌ただしくなり、別の医師もやってくる。


「彼女――三厩さん、外で待ってるって言いましたよね? でも、彼女どこにもいないらしいんですよ」

「はははははは! そりゃそうだ! そうだよなあ、遥香!」

「蒔田さん、しっかり! 幻聴、幻覚かも知れない!」


 そりゃあ、そうさ。見つかるわけがない。彼女は神出鬼没。検査などで見つけられるものか。彼女は僕だけに微笑む女神。僕には遥香しかいない。遥香にも、僕しかいないのである。

 いや、待てふざけるな。


 なんだそれは。()()()()()()()()


 あんな、いかれた女を女神だと思ったのか。どうしてしまったのだろう。

 そうだ。まずい。致命傷になりかねない思考だ。やめなければ。不気味なおさげ女のことなど考えるな。


『マイタにはボクが必要なんだ』


 やめてくれ。


『ボクは君を決して見放さない。離れて行ったりしない』


 ふざけるな。献身的に看病なんてしてくれて、なんというやつだ。

 やめなくてはいけないというのに、遥香のことばかり考えてしまう。


『ずっとそばにいるよ』


 本当に?

 もう、心を預けた人に裏切られるのは嫌なんだ。


『ボクは、あの浮気女なんかとは違うんだ』


 遥香は違う。翔子とは違う。

 まったくべつの――。


「くっそおお! 遥香ああぁあぁ! ボクを支配しようとするなあぁ!」

「押さえて! 拘束具!」


 騙されるな!

 支配されるな!

 この体は、ボクのものだ!

 お前が何であろうと、それだけは決して譲れない!


 たとえ、この身が滅ぶとしても、そのときは自らの手で、自らの因果において、滅ぼう。決してお前なんかに好きにはさせない。お前に渡すくらいなら、いまここで自ら死を選ぼう!

 お前のような得体の知れないものに、この身を預けてなるものか。この命は、僕のものだ!


『焼身自殺をはかったんだよ』


 あぁ、そういうことか。

 そういうことだったのか!


『もう少しだったのに――』


 三厩遥香、君は――!

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