表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/5

2.初期症状

 奇妙な夢を見た。


 遥香さんが、焼けた肉を頬張っている夢だ。丁寧にナイフを入れ、骨を外し、一口サイズに切り分け、口に運ぶ。咀嚼音が頭の中で反響した。

 むせ返るほどの匂い。焼けた肉の匂いだ。思わず顔をしかめると、小指の骨をくわえたまま、遥香さんが僕を見た。


 猫みたいで大きい目が、なくなっちゃうくらい細められる。骨をくわえたまま口角が上がっていく。眩しいくらいの笑顔だった。

 ころん、と口から落ちてしまった骨に驚いてから、また遥香さんは笑った。今度は照れくさそうに、粗相を見られて恥ずかしいといった感じだった。


「本当にもうちょっとだったんだ、彼女。もったいないなあ」

「遥香さん、なんの話をしてるんですか?」


 そう僕は言った。

 いや、本当に言ったろうか。ぼんやりとしていて、わからない。たぶん、そう言ったと思う。


「もー、敬語やめなよ。あと、“さん”も要らない。遥香でいいって」

「そうなんだ。わかった」


 どこかもわからない暗い部屋。

 曖昧な意識。反響する咀嚼音。耳にあまくとろける声。


「どうして、それを食べるんだ?」


 僕の口をついて出た素朴な疑問。

 えっ、と遥香さんは虚を衝かれた顔をした。


「食事に特別な理由がいる?」

「い、いや」


 言われてみれば、そのとおりだと思えた。


「ボクは食事が大好きなんだ。食べるために生まれてきたような部分もあるからね。なに、もしかして、いっぱい食べる女の子は嫌い?」

「いいや、良い食べっぷりだし、好きだよ」

「よかった」


 嬉しそうな声が耳に染み込んで、僕はギョッとした。さっきまで肉塊をさばいていた遥香さんが、僕の耳に噛み付いていた。

 ギプスが僕の腹の上に載っていて、左腕は首に回されている。


「ボクはね、食事以外にも、もうひとつ大好きなことがあるんだ」


 甘噛みされた耳から、全身を汚すように甘い声が染み込んでくる。

 オーバーオールとブーツに包まれた彼女の脚が、僕を逃すまいとしているように、僕の脚に絡んできた。


「な、なに?」


 かろうじて、そう口にしたと思う。もう、なにがなんだか理解が追い付かない。

 でも、このあたりで、僕はこれが夢だと気付き始めていた。


「ボクはね――」


 そっと、耳の中に滑り込ませるように、遥香さんはささやく。

 そして、そこで目が覚めた。


 本当に奇妙な夢を見た。

 心臓が早鐘を打ち、全身が燃えるように熱い。喉がカラカラに乾いて、ひりひりと痛みを発している。


 しばらく天井を見上げながら、僕は呼吸を整えた。オレンジ色の小さな明かりだけが部屋を照らしている。右耳にかすかな気配だけを残して、夢の光景は消えてなくなっていた。


 僕は目をつむって、寝返りをうった。汗で張り付いたシャツが気持ち悪かった。なんだか手足の関節が痛い。


「なんだよ、もう」


 ため息をつくように呟いて、僕は薄く目を開いた。


 すると、大きな瞳が僕をのぞき込んでいた。

 暗闇にうっすらと輪郭を浮かばせ、誰かが至近距離で僕を見つめていた。


「うわあっ!」


 タオルケットを投げつけるようにして、そいつを払いのけた。そして、慌てて枕もとのリモコンを掴み上げる。

 が、体が鉛のように重くて、ベッドから転げ落ちた。


 縫った頭はどうにか庇った。僕はフローリングやベッドにあちこちぶつけながらも、リモコンで部屋の照明を灯した。


「え……、あれ?」


 しかし、そこには誰もいなかった。


 見慣れた自室が広がっているだけだ。

 たんに寝ぼけていただけだったのだろう。暗闇に、僕の脳が勝手に想像の形を描いただけ。病院で非日常的な体験をして、普段は関わり合いにならないような人と話して、どこか昂っていたのだろう。

 時計を確認すると、まだ夜中の一時だった。もう一度寝て、朝起きてコーヒーでも飲めば、きっと妙な気分も日常が塗り替えてくれる。


 それから、僕は部屋の照明をつけたまま眠った。

 そのまま朝まで何も起こらなかったが、右耳に残る息遣いと歯の感触は、ずっとへばり付いて取れなかった。




 ◇




 朝、僕は吐き気とともに目を覚ました。

 転がり落ちるようにベッドから這い出し、体温計を探し出す。体温は三十八度を軽く上回っていた。体温を計測している間も、吐き気や頭痛、のどの痛み、倦怠感に関節の痛みと、あらゆる症状に襲われていた。

 この急激な症状の現れは、インフルエンザだろうか。頭に怪我を負った次の日にこれとは、まさに泣きっ面に蜂である。


 高熱に吐き気、関節痛とひどい有様だが、なぜか食欲だけはあった。ちょっとあり過ぎるくらいだ。いまにも吐きそうなのに、僕は買い置きしていた食パンや缶詰などを貪るように食べた。それでも、空腹は治まらない。とりあえず、蛇口にかぶりつくようにして水を飲みまくった。


 空腹のせいなのか、発熱のせいなのか、頭がぐらぐらと揺れていて足元が覚束ない。せり上がってくる吐き気とも戦いながら、僕はどうにか枕もとの携帯電話を手に取った。


「おはようございます。蒔田です――」


 ひとまず職場への欠勤の連絡と、病院への連絡を済ませた。

 インフルエンザの疑いがある僕は、指定された時間にERへ行かなくてはならないようだった。昨日の今日で、また同じ病院にお世話になるとは思わなかった。


 時刻は八時過ぎ。

 病院からは十五時に来いと言われた。まだまだ時間がある。しばらく横になろう。

 

 ベッドに行くと、そのまま起き上がれなくなりそうだったので、僕はソファに寝転がった。

 氷嚢の類が欲しい。スポーツドリンクも欲しい。こういうとき、一人暮らしは辛い。地元は遠く離れていて、家族は近くにいない。普段から備えておくべきだったと後悔しながら、僕は携帯電話を開く。

 とりあえず、母親にアドバイスを求めるメッセージを送った。秒で返信が来た。


『手洗い! うがい! マスク! 冷やせ! 水分補給! 病院! どうしても駄目なら母を呼べ! いつでもどこでも駆けつける!』


 あんたはスーパーヒーローかよ。

 そう思ったが、あながち間違いではないのかも知れない。母ちゃんは、子供のためならメンタリティだけはスーパーヒーローなのかも知れない。


 続けざまに、また母親からメッセージが届く。


『翔子ちゃんは? 仕事?』


 前言撤回。悪者(ヴィラン)である。

 翔子とはもう別れたって言っただろ、と乱暴に返信を送り、僕は目を閉じる。


 スーパーヒーローへの感謝はどこへやら、すっかりヘソを曲げてしまった僕である。

 熱でぼうっとする頭に、元恋人の顔が思い浮かぶ。翔子がいれば助けてくれたろうか。くれたろうな。我ながら軟弱であるが、翔子の電話番号を表示させ、しばらく悩んでしまった。


 結局、翔子に連絡などせず、僕はただ黙って苦しさに耐えていた。別れた男から、インフルエンザっぽいから助けて、などと連絡が来るなんて地獄だろう。よしんば、お門違いをおして来てくれたとしても、元恋人の看病などやはり地獄に他ならない。鬼すら逃げ出す気まずさである。


 ああ、願わずにはいられない。

 翔子以外であれば、誰でも良い。誰か助けてくれ。


「うわっ!」


 突然のインターホン。

 タイミングも相まって、ソファから転げ落ちるほど驚いた。


「誰だよ、こんなときに。感染するぞ」


 立ち上がろうとすると、シャツが体に張り付いている。そうとう汗をかいていたようだ。


 もう一度、インターホンが鳴る。


「はいはい……」


 重い体を引きずって、壁のモニターを見た。そこには、カメラの画角いっぱいの笑顔があった。

 昨日の夜中、至近距離で感じた視線を思い出し、少しぞっとする。


「遥香、さん……?」

『そうだよ。おはよう、マイタ。あと、“さん”は要らないって、言ったよねえ?』

「え……。それは夢の……」

『夢? なんの話? 将来の話?』

「いや、なんでもない。そ、それより、どうしたの? どうして家がわかったんだ?」

『氷嚢に氷、スポーツドリンクに食材。いっぱい買ってきたよ。重いから早く開けてくれ』

「ちょ、ちょっと、なんで――」

『要るでしょ? まあ、他に当てがあるならボクは帰るよ。どうする? 辛いでしょ? 助けてあげる』


 友人など、会社関係でしかいない僕は、遥香の言う通り当てなどない。ここで彼女を招き入れれば、大いに助かるかも知れない。だけど、おかしいじゃないか。

 なんだって僕の家を知っている?

 僕の状況を知っている?


「な、なんなんら、いったい!?」


 もはや呂律が怪しい。それが熱のせいなのか、恐怖のせいなのか判別がつかない。


『マイタにはボクが必要なんだ。ボクだけが、マイタを治してあげられる。助けてあげられる。言うなれば、ボクはマイタにとって薬か病院さ』

「意味がわからない。帰ってくれ!」

『ボクは君を決して見放さない。離れて行ったりしない。ずっとそばにいるよ。ボクは、あの浮気女なんかとは違うんだ』


 思わず、悲鳴がもれた。

 遥香は翔子のことも知っている。いったい何者なんだ。見当もつかない。

 いや、見当などつけなくたっていい。とにかく、こいつは異常だ。それだけは理解できる。入れてはいけない。招いてはいけない。最大級の拒絶を示そう。


『ありがと! ご存知の通り、右腕が使えないから玄関も開けておいてね』

「え!?」


 電子音が鳴り、マンション自体の扉が開錠する。

 僕の指は、モニター下部の開錠ボタンを押下していた。


「なんで……? なんだこれ!?」


 ボタンを押した僕の左手――左腕には、いくつも発疹ができていた。

 寒気と、吐き気が襲ってくる。たまらず、僕はその場にさっき食べたものを吐き出した。

 怖い。具合が悪い。遥香が来る。逃げなくちゃ。遥香が来る。助けてくれる。


 気が付くと、僕は部屋の玄関も開錠してしまっていた。


「い、いやだ。なんだこれ……!」


 せまい廊下を転がるようにして、僕は居間へ飛び込む。キッチンで包丁を掴み取り、ソファの背に隠れた。

 呼吸の間隔が短くなっている。目もかすむ。床に汗がこぼれる。いまにも倒れそうだったが、歯を食いしばって耐えた。ここで気でも失ってしまったら、何が起こるかわからない。


 ぎゅっと右手で包丁を握りしめる。こんなものを振り回さなくて済むのなら、それにこしたことはない。しかし、相手は正体不明。常識だって通用するか知れたものではない。


 意に反して開錠してしまった部屋のドアが、ゆっくりと開く音がした。片腕が使えないからか、ガタゴトと玄関先で手間取っているようだった。


「よっ、マーイタ! って、おわ! 吐いたのか、もったいない。あとで掃除するね」


 玄関から陽気な声が聞こえてきた。遥香だ。黒いオーバーオールに、三つ編みおさげの女。ギプスの女。いかれた女。

 とんとんと、廊下を歩く軽い足音が近づいてくる。廊下と居間を隔てるガラス戸に、遥香の姿がかすんで見えた。左手に大きな袋を携えている。


「重い。開けて、マイタ。それとも寝てる? よいしょ……っと」


 ガラス戸の隙間から、靴下をはいた足がのぞき込む。そのままスルスルとドアが開き、笑顔の遥香が居間に入ってきた。なくなっちゃうくらい目を細めた満面の笑顔。今日は白と黒のキャップをかぶっていた。


「おはよ、マイタ。料理はボクがするから、マイタは包丁なんて持たなくていいんだよ?」


 どきりと心臓が跳ねる。

 包丁を握った右手が、痙攣するように動いてしまった。


 荷物をキッチンに置いた遥香は、猫バスみたいな目を輝かせ、僕の方にやってくる。

 どうにかしなくてはならない。この状況、この女、この症状。どうにかして、逃げなくてはならない。


「はーい。じゃあ、マイタは寝てていいよ。その前に汗拭いて着替えなきゃだね。氷嚢もすぐ用意するからね。もう安心だよ。ボクがいるからね」

「あ……あ、あぁ、あ」


 どうしてか、僕はすんなりと彼女に包丁を渡していた。そして――、


「あ、あ……ありがとう、遥香」


 ――感謝の言葉を口にした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ