1.感染
「かわいそうに……」
思わず、小さな声でつぶやいた。
ストレッチャーで運ばれていく小柄な体は、全身が焼けただれていた。床に落ちる焼けた破片が何なのかは考えたくない。
「焼身自殺をはかったんだよ」
「え!?」
すぐ横から声がした。驚いて顔を向けると、三つ編みおさげの女が立っていた。右腕を三角巾で吊っている。
すこし焦げた匂いが鼻をかすめた気がした。
「もう少しだったのに――」
「すみません、蒔田さん!」
女の声を遮るように、看護師が血相を変えて待合室に入ってきた。
「申し訳ありませんが、緊急の患者さんを優先しますので、お待ち下さい!」
「あ、はい! もちろん!」
「ありがとうございます!」
そして、僕は待合室の端っこの椅子に座り直した。どうにも居心地が良くなかったのだ。気まずいと言ったほうがいいか。
待合室では、急患の家族らしき人たちに別の看護師が状況を説明していた。すすり泣く声と、先ほど運ばれていった人を思い返すに、状況はとても悪いのだろう。
キャビネットの観音扉に頭をぶつけた間抜けな男など、後回しで結構である。
「……あれ?」
ところで、と話しかけようとして気付いた。
おさげの女がいない。
いつの間にか横に立っていたと思ったら、いつの間にかいなくなってしまった。あたりを見回すが、見える範囲に彼女はいない。消沈した家族と、走り回る病院スタッフが見えるのみだった。
◆
怪我というのは、いつどんな状況で負うかわからないものだ。
デスクワークやサーバルームに籠るような仕事をしている僕が、まさか仕事中に頭から流血するだなんて予想できなかった。
無駄に高い身長と、開いたキャビネットの扉に気付けない愚かさが呪わしい。そして、これから運ばなければならない段ボールが置かれた直上、そこの観音扉を開け放しておいた誰かさんが、なによりもっとも呪わしい。おのれ。
内心でぶつくさと文句を垂れながら、僕はタクシーから降りて病院に入った。
初めて来たこの大きな病院は、様々な科が各階に配置されており、初見殺しといった趣だった。そもそも、頭の怪我は何科に行けばいいのか案外と見当がつかない。
まあ、外科だろう。いや、脳神経外科なるものも存在するぞ。もしかして、たんなる外科ってものはないのかな。
などと、案内板を睨みつつ、頭から血を流した男がオロオロとしていたら、看護師にERへ行くよう指示された。時刻は十六時をまわっていて、とうに通常の受付けは終了していたのだった。どうりで人が少ないわけである。
僕は病院独特の香りを楽しみつつ、歩くと存外に遠いERへ向かった。ハンカチ一枚で流血を塞き止めながら向かった先で、怒号とともに雪崩れ込んできた急患に怯んだ。
「通ります! 道を開けてください!」
救命士が声を張り上げる。医師や看護師が駆け寄り、僕は廊下の壁に張り付くようにして道を開けた。
専門的な用語を交えながら状況を説明する救命士。指示を飛ばす医師。駆け出す看護師。統率された喧騒だった。さっきまで静かだったERが、一瞬にして映画やドラマで見るような騒がしさに変わった。
思わず喉が鳴る。目の前を通り過ぎるストレッチャー。一目で重症だと理解できた。あまりの痛ましさに直視がかなわず、僕は視線を落とす。そのとき目に入った患者の腕。赤黒く焼けただれたそれに、どこか違和感をおぼえた。
「待合室でお待ちください!」
なかば看護師に押し込まれるようにして、僕は待合室へと入った。
ストレッチャーに載せられた小柄な人物が遠ざかっていく。全身を焼かれるというのは、想像を絶する苦しみに違いない。そこにどんな背景があるのかは僕には知りようがないけれど――、
「かわいそうに……」
――ただただ、素直にそう思った。
◇
結局、三時間ほど待たされた。
血はすでに止まっていたし、椅子に座る尻も痛くなったが、とくに文句はない。
頭皮に麻酔を注射し、三針ほど縫って僕の治療は終わった。小さいハゲが出来ると女性の医師に申し訳なさそうに言われたけれど、間抜けな僕が悪いので、とくに文句も問題もない。
ただ、やけに病院内が焦げ臭いのだけが気になった。
だから、処置が終った僕は逃げるようにERから出た。粘り強い夏の太陽が、空に紫色を投げている。僕の心も一緒に紫色に染まっているような気がした。暗澹たる気分である。
全身に火傷を負ったあの子は、どうなったのだろう。
医師が来て家族をどこかへ連れて行ったが、泣き崩れたところをみると駄目だったのだろう。
「よっ、マイタ」
下を向いてトボトボと歩いていたら、声をかけられた。気安い感じでひょいっと左手を上げて見せる。
「あ。君か……」
神出鬼没のおさげ女である。白い半袖シャツに黒いオーバーオール。夏なのに厳ついブーツを履いている。
「そこにずっと居たんですか? 急に消えるから驚きましたよ」
病院の敷地内のベンチに座っていた彼女は、微笑むだけで何も答えてくれない。猫バスみたいな目で僕を見上げているだけだ。
「ねえ、元気出そうよ。べつにマイタが彼女を焼いたわけじゃないでしょ。落ち込む筋合いが見当たらない」
「そ、そりゃあそうですけど……」
「同情するのはいいけど、それでマイタ自身が不安定になっちゃうんじゃ、同情のされ甲斐がない」
そう言って、あっけらかんと彼女は笑った。
彼女は焼身自殺だと言った。それはつまり、あの患者のことを知っているということだ。だというのに、彼女はさして気にもしていないように思えた。そのことが気になったけれど、彼女のあまりの除湿機ぶりに、僕の湿ってうつむいていた顔が少しだけ上がった。
「あの……。下の名前みたいに呼んでますけど、マイタは苗字ですから。蒔田康介」
そうなんだ、と呟いて、彼女は立ち上がる。右腕は三角巾で吊られていて、ギプスで固められていた。
「ボクは三厩遥香。よろしく」
「みん……、え? すみません。なんて?」
「みんまやー。遥香でいいよ」
僕が言うのもなんだけれど、聞きなれない苗字に戸惑ってしまった。そんな僕などお構いなしに、彼女は左手でぶんぶんと握手をしてくる。強力脱水で僕の湿った気持ちを吹き飛ばそうという腹積もりか。
「ところで、マイタは何歳?」
「なんですか、急に。二十四歳ですけど……」
「そうなんだ。年上だったか。ボクは二十一歳」
「ちょっと待ってください。二十歳を過ぎたボクっ娘は犯罪ですよ」
「そうなの!?」
「ええ、気を付けた方がいいです」
「えー、ボクはボクがいいなあ」
そう言って、無邪気に笑う遥香さんは子供のようだった。化粧をしていないからか、なおさら幼く見える。
「まあ、それはいいとして、僕はそろそろ帰ります」
「えー、もう帰っちゃう?」
「はい。仕事中に抜けてきたので、戻って報告しないと」
「わかった。そういうことなら戻らないとね。引きとめてごめんよ」
「いえ……」
遥香さんは思ったよりもあっさりと引き下がった。子供みたいに駄々をこねてもおかしくない雰囲気だったから、ちょっと驚いた。
それから、僕はタクシーを呼び、遥香さんと別れて会社へ戻った。
◇
報告などを終えて自宅マンションにたどり着き、僕は鞄を放ってソファに倒れ込んだ。
怪我をして、ERへ行き、重症の患者を目の当たりにした。そのことに、自分が思っていた以上に気疲れしたらしく、体がひどく怠かった。
立ち入るべきではないと理解していたし、遥香さんの明るい雰囲気に流されてしまったが、どうしても焼身自殺をはかったという人が気になった。
焼けただれていた肉。燃え尽きた頭髪。焦げて張り付いた衣服。思い出しただけで全身がすくんでしまう。そんな惨状を目の当たりにして、僕はひどく落ち込んだ。いまだに焦げ臭さを感じてしまうほどだ。
だというのに、知り合いであろう遥香さんの無邪気さは、とても異様に思えた。落ち込んでいたことを忘れ、思わずその邪気の無さに飲み込まれてしまうほどだった。
『またね、マイタ』
別れ際、彼女はそう言った。
また会うことなんてないだろうと思っていた僕は、少し面食らってしまった。だけど、ただの挨拶だし気にすることもないだろう。そのはずだ。そのはずなんだけれど、妙に引っかかっている。
三つ編みのおさげを揺らし、左手を振っていた姿を思い出す。長めの前髪の下で、猫みたいな大きな目が僕を見ていた。
もしかしたら、僕が気になっているのはあの患者ではなく、遥香さんなのかも知れない。そう思ったとたん、とんでもなく恥ずかしくなってきた。なんだか体も熱くなって、汗ばんできた。
自分ではよくわからなかったが、僕はああいうタイプが好みだったのだろうか。
「もういい、……寝よ」
ため息一つ、僕は怠い体を起こし、部屋着になる。
気の迷いで妙なことを考え出す前に、僕は晩ご飯もろくすっぽ食べずに眠りについた。