7.アダロン
祠の裏手からは五色ヶ原を経て立山・剱岳に向かう登山道が続いている。今日はまだ時間がたっぷりとあるので、この先に見える北薬師岳まで行くつもりだ。急な下りの岩場を慎重に足を運ぶ。南側の登山道とは一転して北側の登山道は荒々しい印象がある。下る所まで下ると後は、さほど高低差のない上下を繰り返す細い岩場の尾根歩きとなる。
山頂で撮影したカメラの画像からはラミド達は薬師如来の仲間、というよりも薬師如来の指示を受けてラミド達が動いているのだろうと考えてしまう。恐らくそうなのだろう。小男達を動かし、山に地震を誘発させるのが神霊、つまり薬師岳の山の神とするならば、薬師如来は山の神の行き過ぎた行動を抑制する仏という位置づけになるのだろうか。しかし、カメラには見知らぬ二人の男性が写っていた。彼らもラミド達の仲間だとすると、私は少なくとも後二回は同じような目に遭うはずだ。そう思うと陰鬱な気分になるが同時に、楽しみな気持ちにもなる。
北薬師岳への途中の小高いピークで一休憩を入れながら行く先を見ると一旦ぐっと下がってから急登が待っている。手元の地図のコースタイムでは薬師岳山頂から北薬師岳山頂までは四十五分とあるが、この調子だと一時間はかかりそうだ。ここまで来るとますます人もいなくなる。燕岳を真正面に見る下のほうは薬師岳のカールになっていて半月状に山が大きくえぐられている。その更に下は黒部川の源流につながり、その下流には黒四ダムの名で知られる黒部第四ダムがある。カールには九月下旬だと言うのに雪も少し残っている。太古に氷河があった証拠とされる場所だ。さらに細い登山道が続く。所々、手をついて歩かないと危ない場所もある。途中、夫婦連れとすれ違う。立山からずっと縦走してきたそうだ。残念ながら私はその縦走をした経験がない。いつかはしたいと思っているうちに歳を喰ってしまった感じがある。
最後の北薬師岳への登りは短いながらも岩登りになる。その時、例のざわつく声が聞こえてきた。ここの登山道はどちらに転んでも急な崖になっている。神霊はどうしても私を岩場から落としたいようだ。黒部川の源流側からその声が次第に大きく聞こえてきた。そして、岩登りをしようとした直ぐ上の岩肌にぽっかりと黒い穴が開いた。続いてNaのイニシャルの付いた帽子を被った小男の一人が私の前に現れた。いつも私に話をしてくれる小男だ。
「こんにちは。また会いましたね。今日は随分と私達の仕事が邪魔されてしまい、まともな地震を起こせていません。神霊もかなりお怒りのようです。こんな場所で地震に遭うとかなり危険です。でも気を付けないで下さい。私達もこれを最後の仕事にしたいのです」そう小男が言うと暗い穴の中に飛び込んで行った。
そして、次々とNaの小男達は穴に飛び込んで行った。今回は誰もNaが飛び込んで行く穴にある蓋を閉じてくれないようだ。神霊も本腰を入れて、ここに地震を引き起こそうとしているらしい。それは取りも直さず私をこの岩場から転がり落そうとしているのに等しい。私は出来るだけ下がって安全な場所に移動しようとした。次にCaのイニシャルを付けた小男達が来て彼ら専用の穴に次々と飛び込んで行った。このCaの小男達が飛び込むと地震が起こるはずだった。
私は近くの岩にしがみ付きながら揺れに振り落とされまいとした。振り落とされなくても地震の震動で上から岩が落ちて体を直撃する危険もあった。しかし、この時の揺れは極めて静かで地震は無いに等しい位だった。私はCaが飛び込んだ穴を見た。既にその穴は蓋がされ閉まっていたが、その近くに一人の若者が座っており、手に持ったストックで足元の岩の隙間付近を押え込んでいた。その場所は丁度Kの小男達が外に出てくる穴の場所に違いないと私は思った。
空高くに薄い雲が敷きつめられ太陽の光も弱くなった午後、肌寒さにも関わらず、岩場に座る若者は半袖の黒いTシャツに身を包んでいた。半袖シャツから延びる腕は筋骨たくましく、その腕の力でストックを使って蓋を押えつけられると下にいる者は、外へ移動できないだろう。ズボンは上着と好対照に白い生地、頭も白いバンダナで被い、白と黒のコントラストが際立っていた。日に焼けた黒い顔に浮かぶのは例のラミド達と同じような悪戯っぽい笑みだった。
「こんにちは。私の名前はアダロンと言います。あなたは、今日は遠出をせずに薬師岳山荘でゆっくりしていた方が良かったのではないですか?これで五回目ですよ。私達があなたを神霊の仕打ちから助けるのは」
アダロンと名乗った若者は、先ほど薬師岳山頂で取った写真に写っていた見知らぬ男の一人だった。
「先ほど薬師岳山頂で写真を撮った時に一瞬ですが、あなた達が写っていました。ラミド達やあなたは薬師如来と関係があるのですか?」私は疑問に思っていた事を聞いた。
「薬師如来との付き合いはたまたまと言って良いでしょう。山を支配する精気には奮い立たせようという気と落ち着かせようとする気の二種類があり、それらが相拮抗しています。互いにバランスを保っている時は問題が起こらないのですが、何かの原因で荒ぶる精気が勝ってくると、抑制する精気が我々のような者を使って荒ぶる精気を鎮めるのです。薬師岳では抑制する精気が、たまたま薬師如来だったという事です」アダロンは腕に込めた力を緩めずに淡々と話をした。
ストックの先にある岩の内側からは何やらざわめく声や音がしている。きっとKの小男達が外に出られないので騒いでいるのだろう。
「私は実際にはNaやCaの小男達も封じ込める能力があるし、巨大熊も出てくれば倒す実力もありまう。あまりに力が強大過ぎてね。他の連中が手をこまねくような場合だけしか出て行かないようにしています」アダロンは聞きもしないのに自慢話をする性癖があるようだ。
「という事は今回、この岩場での出来事はかなりやばい出来事になる可能性があったという意味ですか?」私はすかさず聞いた。どうも神霊の本気度が今回は半端ではないようなのだ。
「神霊があなたをどう思っているのか?私も判断しかねています。さっき薬師岳の山頂に居た若者は我々が出る幕もない位の軽症です。彼の場合は養生さえしていれば、小男が見えなくなるでしょう。しかし、あなたの場合は養生をしていても小男の姿をどうしても見てしまう状態です。我々を必要としている状態なのです。あなた自身が養生をして、我々を有効に利用してもらえれば、小男の姿を見なくて済むようになるかもしれません。恐らく見えなくなるでしょう」と言ってアダロンは笑った。
謎解きの問答をしている感覚であったが、私はなんだか医者から病気の説明を受けているような気持になった。中年期を過ぎ、自営業で自分のやりたい事をとことん追求してきた人生だった。ただ健康面には無頓着で、健康診断も面倒くさくなり、ここ数年間は全くと言って良いほど受けていない。これまでの現象は私の健康面への配慮と考えた方が良いのだろうか。
「この岩場は危険なので、あえて私が出てきましたが、現実社会ではまだ、あなたは私を必要とするレベル迄には行っていないようですね」そう言いながらアダロンはストックの先を外した。
直ぐに穴がぽっかりと開き、何人ものKの小男達が飛び出してきた。
「また、あなたでしたか」といつも私に話しかけてくる小男が少々不機嫌そうな顔つきで近づき「ちなみに今回は誰が傍にいるのでしょう?」と聞いた。
私が「アダロンと名乗っているよ」と答えると、Kの顔がさっと青ざめた。どうやらこの世界ではアダロンの力は彼自身の言葉通り、相当強いようだ。
「なんでまた、アダロンまでが出てくるのです?彼は毒薬ですよ。神霊も本気なら、薬師如来も本気なのですね。両者を本気にさせてしまうあなたは何者なのですか?」とKの小男は私に困ったような顔で質問する。
その答えは私には無い。私はただ首をすくめるしか無かった。やがてKやCaやNa達も互いのポジションに戻り、アダロンも薬師岳方向に戻っていき、私一人が取り残されて周囲に静けさが戻った。