2.ラミド
その後も汗を拭きながら快調にゆっくりと登っていると後ろからザッ、ザッと軽快な足音が聞こえてきた。後、数分で樹林地帯を抜けて見通しの良い三角点に出る時だった。後ろを振り返ると急な坂道を私より遥かに早いペースで登ってくる若者がいた。カヌーの若者達と会ってからは山の精やら森の精やらとしか会わなかったので久しぶりの登山者の登場に私は内心喜んだ。
「こんにちは」と声をかけながら、道を譲る。
「ありがとうございます」あご髭を蓄えた若者はにこりと悪戯っぽい笑みを浮かべながら、私の横をすり抜けて先を登って行った。登山口から一気に三角点まで、あの早いペースで登りきるのだろう。
道は両側に壁ができるような場所になってきた。登山道が沈んで両側が盛り上がった印象ととらえれば良いだろう。その盛り上がった上部から樹林帯が始まる。ふと気がつくと、いつの間にか周囲がざわつきだしていた。暫く無かった、あの地震が起きるのではないかという不安が頭をよぎる。すると間もなく目の前の登山道に、ぽっかりと例の黒い穴が開きかけていた。そして、今度は周辺の上の樹林の間からイニシャルNaの小男達が登山道に飛び降りてきて、一斉に穴の中に飛び込んで行く。いや、飛び込んだように見えただけだった。いつの間に戻ってきたのだろうか?穴のすぐ前に先ほど私を追い抜いて行った髭の若者がいた。そして、黒い穴の表面にある蓋が十分に開く前に蓋の部分に自分の持っていたストックの先を突き刺して蓋の動きを止めた。
イニシャルNaの小男達は穴の前に来て、中々開こうとしない蓋を見ては喧々囂々と騒ぎ出していた。どうも日本語ではないらしい。どこかの方言かもしれないが私には理解不能の言葉であった。
「あれは古代言葉ですよ。森の精達の起源は古くて、人類が言葉を体系化する前から伝達手段として用いていた言葉を未だに仲間内では使っているようです」私の疑問に答えるようにその若者は私に言った。
「彼らは僕の姿やストックが見えないので、何故蓋が開こうとしないのか不思議がっているのです」髭の若者は微笑みながら付け加えた。
「あなたも山や森の精かなんかですか」私の頭の中は混乱していた。これまで何度も山登りをしてきているが、こんな経験は初めてだったからだ。結局、彼も普通の人間ではないようだ。
「私の名前はラミドと言います。神霊の行き過ぎる行為を抑えるために派遣された者です。こうやって彼らが穴の中に入るのを遅らせると地震は起きにくくなるのです」髭の若者は自分の行動の理由を説明した。
イニシャルNaの一人が私に近づいてきた。先ほど、私と話をした小男である。
「何故か分かりませんが、蓋が開きません。ひょっとしたら穴の前に誰か立っていませんか?これでは神霊の言いつけを守る事が出来なくなります。弱りました。でも地下は私も苦手で長くはいたくないので丁度いいかもしれません」
私はラミドと名乗った若者の顔を見た。すると彼は自分の存在は黙っていてというように人差し指を立てて口元に持ってきた。
「いや、私には何も見えない」とだけ答えると、そのNaの小男は素直に仲間の元に戻って行った。彼らにはラミドという青年の姿は本当に見えていないらしい。ラミドはラミドでイニシャルNaの慌てぶりを楽しむかのようにニヤニヤしながら穴の蓋がずれないようにストックの先でしっかりと押さえつけていた。
「僕がここの蓋を抑えている時間は決められています。僕らの兄弟の中では中程度の時間ですかね。そろそろ僕の時間は終わりかな」ラミドは高度計の付いた腕時計を見ながらストックの先を蓋から外した。すると蓋は自動的に開き、そして、周囲にいたNaの小男達は小躍りして喜びながら地下へと飛び込んで行った。
「僕にはもう一つ仕事があるのですよ」ラミドは悪戯っ子のように私に笑いかけながら、少し先に進んでストックの先を突き立てた。
「ここはアルファベットKの小男達が出てくる穴ができる場所です。彼らが出て来られないと次の地震までの時間が稼げるって寸法です」とラミドは手前にできたイニシャルCaの小男専用の穴の蓋には全く関心を示さず私に説明した。
上にある樹林の中から出てきたイニシャルCaの小男達は、開いたままになっている穴に向かって飛び込んで行った。その時に地震が起こるのが今までのパターンだったが、今回は次の準備が整わないのか地震の揺れはほとんど無かった。
ラミドがストックの先で抑えている地面が何やら騒々しくなっていた。地下からドンドンと叩く音も聞こえてくる。
「彼ら、予定の場所が開かないものだから、外に出られないと騒いでますよ」ラミドは取り立てて力を入れる様子もなく右手を軽くストックに添えているだけだった。顔は相変わらず悪戯好きの男の子の表情だ。
「そろそろ良い頃かな。これで、しばらくはあなたは地震に遭わずに済むと思いますよ。では、僕は先に行きます」そう言うや否やラミドは先ほどの早い歩調で再び登山道を登り出していた。
バターンと目の前の登山道に穴が開いた。
「えらい事だ。遅れた。一体何があったのだろうか」その穴から次々と出てくるアルファベットKを付けた小男達が口々に騒いでいる。
一人の小男が私に近づいてきた。先ほども話をした小男である。
「又、お会いしましたね。相変わらずご無事なようで」白い顔が特徴的なその男は親しげに、それでも皮肉を込めた言い方で私に話かけてきた。
「ひょっとして、この穴の上に誰かいませんでしたか?あなたのような普通の人間ではこの穴の蓋を閉じておく事なんて出来ないはずです」
もうすぐ三角点に着くので、このような所で時間を取られたくなかったが、彼の疑問に答える事にした。「ラミドという青年がストックで地面を突いていたのを見たけどね。それがやはり関係しているのかな?」
「ラミドが来たのですか」彼は私の顔を下から見上げるようにして驚いた表情で聞いた。
「確かにラミドと言っていたが、彼は一体何者なのかな」と私は質問をした。
「これは大変だ!」そう言うと私の問いかけには一切答えずにその小男は仲間の所に戻って行った。
仲間内で何やら騒々しく話をしている。その内、イニシャルNaやCaの小男達も地下から飛び出してきた。三種類の小男達は私には理解できないラミドの言う古代言葉で煩い程に議論し合っているようだ。
突然、何人かが水筒から水を飲みだした。「やたらと喉が渇くわい」「儂も口の中がぱさぱさする」「儂も、儂も」とそこら中から声が聞こえてくる。夏場なら日差しが遮られていても喉の渇くのも分かるが、秋の涼しい時期に不思議な光景を見るものだと立ち止まっていると、近くで立ち小便をしようとしていた老齢の小男が「シッコが全然出んわ。弱ったのう」と呟きだした。
周りを見ると何人もの年老いた小男が立ち小便で立往生をしているようで、「儂もじゃ」「儂もじゃ」と言っている。「儂はチョロチョロで、いつまで経ってもキレが悪い」等と言っている小男もいる。
さっき私と話をしていたKの小男が近づいてきた。
「あんたには何も起きとらんけ?」と私を見上げて、先ほどまでと違って随分とぞんざいな口調で尋ねてきた。
「私は何も起きていないが、皆さん一体どうしたのですか?突然体調が悪くなった様子ですが」
「ラミドというのはそういう男だわい。穴の蓋を開けるのを邪魔したりするだけでなく、我々に色々な悪さをしていく奴じゃ」その小男はペッと勢いよく唾を吐こうとしたらしいのだが、吐く唾液も口に残っていなかったらしくゲエと空嗚咽の声を上げた。
「棲家に戻ると大便も出なくなる者達も出るわ、血糖値が下がってふらふらになる者達も出るわで大変だ」その小男はさらに文句を続けた。
「しかし、地震は起きなくて済んで、私は助かっていますがね」と小男を見つめて言うと、その小男はチッと舌打ちをして「その分、儂らは神霊に怒られるんじゃい。あのラミドも神霊に直接文句を言えばええのに、か弱い儂らばかりを苛めよる。意外と肝っ玉の小さい男なんじゃろうて。おや、そろそろ交代の時期がきたわいな」そういうと再び仲間の元に戻り、アルファベットKの小男達は三々五々と地下へと戻って行った。
CaとNaの小男達もさっさと樹林地帯へと姿を消して行った。私は山の精達の姿が見えるとこの後どうなるのか、遭難するのか死ぬのかが益々気になったが先を急ぐ事にした。
標高1869.9mの三角点に着くと、これまでの景色とは一変して空が広がる。間近に薬師岳の大きくゆったりとした姿、まるで寝転がってこちらを見ているかのような姿が目に飛び込んでくる。そして、さらに左に目をやれば、遠く立山や剱岳を望む事もできる。三角点は一大休憩場となっており木製のベンチが設置してある。そこには私より先行していた深緑色の帽子を被った中年の男性と先ほどのハイペースの若者、つまりラミドが休憩をしていた。深緑色の帽子を被った男性が手前のベンチに座っていたのであいさつをする。
「良い天気ですね。静かですし」と私。
とりあえず静かという言葉を強調してみたつもりだった。
「そうですね。山々がすっきりと見えて気持ちが良いです。どちらまで行かれるのですか?」と中年男性が答える。
「今日は薬師岳山荘まで登って明日にかけてゆっくりと薬師岳周辺を散策するつもりです。あなたはどちらまで?」
「私は太郎平から下って薬師沢へ行きます。できれば雲の平まで行きたいのですがね。その辺は体力と相談しながらです。どちらから来られたのですか?私は神戸からで昨夜車を飛ばして有峰林道の料金所前に真夜中に着いて車の中で仮眠を取ってからの登山ですわ」
彼の顔に若干眠そうな雰囲気があるのはそのせいかと納得した私は「私は地元の富山県です。神戸と言えば私の友人も神戸にいて大震災の際には結構被害に遭ったようでした。富山県はこれから先の30年の間には直下型地震があるとは言われていますが、あまり揺れない県なんですよね」と核心に触れてみた。
「それは私も思います。転勤で三年ほど富山市に住んでいましたが、その時も感じませんでしたね」
私は先のベンチに座っているラミドを見た。彼は相変わらず悪戯っ子のような表情を浮かべて私を見ていた。
「その男性は今までの地震の事は何も知らないよ」と言っているようだった。
私は周囲の景色を楽しみつつも長い休憩をせずにラミドには一礼だけして先に歩を進めた。平日の晴天の薬師岳は初めてであったが、本当に人がいない。これから行く先にも人影が見えない。それでも太郎平小屋を朝早く出た人達だろうか、ある時間を過ぎると時折り下山する人達とすれ違うようになった。それでもいつもと比べると人数は遥かに少ない。
やがて「じゃあお先に」と言うラミドに再び抜かれてしまう。彼はどんどんと先に行き、姿も見えなくなった。