10.十二人衆
薬師岳山荘への帰路は、ベラルが言っていたように特に何も起きなかった。小屋の横に置いていたリュックサックは山の冷気ですっかりと冷えていた。それを左肩で担いで小屋の中に入る。受付にはあご髭を蓄えた若者がいた。それはラミドだった。
「結構、時間がかかりましたね。あなたが北薬師岳まで行ったとアダロンが伝えてきましたよ」ラミドは周囲に誰もいないのを確かめてからそう言った。
「本当にここで働いているんだね。受付をやっている以上、皆さんには君の姿が見えているのだろうね」
「私の名前は新居野遥哉と言います。宿泊は二食付ですか?九千二百円になりますが」と私の疑問には直接答えず、これから以降は新居野として付き合ってくれと言わんばかりだった。
私は宿泊の手続きをした後、二階にある大部屋に案内された。今日は宿泊者も少ないので一列おきの布団敷きになるという。リュックを廊下において取りあえず私は部屋に入り、自分の居住場所にある畳んだ布団を背にして寝ころんだ。部屋には二人連れが明日の計画を話しあっていた。さらに四人ほどいたが、別々のグループらしく本を読んだり、寝たりしていた。夕食は予想どおり午後五時からでもう二十分ほど経てばその時間だった。
「今日はなんていう日だったのだろう」と改めて思う。私に一体何が起ころうとしているのかは、結局のところ解決がついていない。色々と面白い体験ができた点は楽しめたが、最初の頃にKの小男が話した「私達が見える人達は決まって山で遭難して・・・」という意味の言葉が嫌な記憶として思い出される。これから先も私はまだ遭難する危険があるのだろうか?
それとも薬師如来率いる不思議な連中が私を守ってくれるのだろうか?彼らの一員である一人は既にこの薬師岳山荘に従業員の一人として潜り込んでいる。少なくともKの小男が最初に言っていた状況にはならないだろうと私は楽観的に考えるようにした。その時、廊下で「夕飯のご用意ができましたので、食堂へお集まりください」と言う呼び声が聞こえてきた。
薬師岳山荘のこの日の夕食は、豚カツを主菜にして“やくし”とケチャップで書いたミニオムレツ、煮物、マカロニサラダ等々が出て、それに味噌汁とご飯が付く。味噌汁とご飯はどこの山小屋でも同じだが御代りが自由である。缶ビールを飲みながら十分に腹を満たす。今日は登山客も少ないので夕食も1クールのみだった。混んでいる時は三十分1クールで三交代になる場合もある。いずれにせよ、今日は地震騒ぎさえなければ快適な山歩きなるはずだったのだ。
ダウンジャケットを着こんで外に出るといつの間にか天上の雲は流れ去り、満天の星空に代わっていた。真上を天の川が横切っている。日本海の方向に目を向けると富山市街の灯りが見えている。山小屋のおかみさんの話だと娘さんが市内に嫁いでいて、天気が良くて空気が澄んでいるとその自宅からもこの山小屋の灯りが見えるそうだ。星の写真を撮りにいくのだろうか三脚を担いで小屋を出て行く人達もいた。夜の外気はかなり下がっており冬の寒さである。明日は晴天が予想されているので、きっと霜柱が立つだろう。
私は一旦、二階の部屋に戻り、寝酒用にと持ってきたサントリーウイスキーの角ボトルの小さな瓶をリュックサックから取りだした。部屋で飲むわけに行かないので、食事も終わり片づけられた食堂で飲むつもりであった。部屋では既に何人かが就寝していた。早朝に縦走を考えている人達だろう。部屋は切妻式の屋根の小屋の二階を利用しているので部屋の端に行くに従って天井は低くなる。そして、大部屋の中には垂木も数列走っている。それがこの部屋の曲者でもある。よく頭をぶつける人がいるらしく注意書きも書かれている。と言う知識は十分持っていたはずであったが、私は頭に激しい衝撃を受け、痛いと思う間もなく気を失ってしまっていた。
生暖かい風が頬を撫でていくのを感じながら、私は少しずつ覚醒していった。何やら周囲で話し声も聞こえる。
「どうやら目を覚ましたらしいぞ」一人の男性の声が聞こえてきた。
「命に別状はなさそうね」今度は女性の声だ。
私はぼんやりとしながら目を開けた。いつの間にか夜が明けたのだろうか、私の目の前には青空が広がっていた。ゆっくりと起き上がろうとしたが、体の節々が痛んで中々起き上がれなかった。
「まだ起き上がらない方が良いですよ」先ほどの声とは違う別の女性の声がした。
私はゆっくりと声のした方に顔を向けた。そこには若い女性と中年の女性が心配そうな顔をして座っていた。その後ろには私を覗きこむように神妙な顔をして立っている高齢の男性がいた。近くからは川の流れる水音が聞こえていた。
「ここは薬師岳山荘では無いのですか?」私はやっとそれだけ聞く事ができた。口の中がやけに乾いており、しゃべり続けられないのだ。
「山小屋の中ではないですが、心配ないですよ。実は、ここは黒部川源流の畔です」と若い女性が答えた。
すると同じように「心配ないですよ」という言葉を他の二人も労わる声で繰り返した。
私はこの繰り返し言葉から森の精や山の精を思い出していた。しかし、彼らの姿は森の精達のように背丈は低くなく、一般的な人間の身長であり、容姿だった。それにアルファベットの付いた登山服姿ではなく、一般的な登山服姿だ。女性は今時のファッション性に富んだ山ガールスタイルである。
「あなた達は神霊の元で働いている人達ですか?」私はかすれた声で聞いた。
「私達はどちらかというと薬師如来派ですわ。ラミドさん達とは全く違う役割を担っているのですけどね」中年の女性は不安げな表情を崩してにこやかに答えた。
「私は一体どうしたのでしょう。今回の山登りは分からない出来事ばかりです。確か、寝酒を取りに部屋に戻って、おそらく部屋の中の垂木に頭をしたたかぶつけたのだと思っていましたが、いつの間にこのような場所にいるのでしょう」私は少しずつ話ができるようになっていた。
「それはそうと、君達、まずは自己紹介をしようではないか」三人の中で最も高齢と思われる男性が口をはさんできた。
パッと見た目には大体七十歳後半という所だろうか。細身で顔には深い皺が刻み込まれている。もみ上げから顎にかけて白い髭が延びていた。頭はしっかりと鳥打帽のようなものを被って、禿げているかどうかは不明である。寒さに弱いのかダウンジャケットで身を包んでいた。
「儂はワフリンと言う者です。この分野では最古参と言って良いでしょう」ワフリンの声は落ち着いた低い声だった。私にはこの分野というのが、一体どの分野なのか全く分からなかったが、ラミド達とは違う分野であると強調したいのだろう。
「私の名前はダトラン。最近、この分野でも新しい仲間が次々と生まれていますわ」と中年の女性が蠱惑的な笑みを見せて言った。
「私の名前はロキサリバンよ。よろしくね。この三人の中では一番若いわ。見れば分かるでしょうけどね」おそらく二十歳そこそこの若い女性は軽くウインクしながら言った。
「薬師岳山荘にはラミドが人間としてアルバイトに入っているので、儂らも安心していたのだが、山小屋の屋根に神霊の手下が憑りついていたんじゃ」ワフリンと名乗った老人が話し出した。
「登山の時にあなたを陥れようとした山の精達がアルファベットで呼ばれていたのとは対照的に、彼らはアラビア数字で呼ばれているのよ」今度はロキサリバンが高い声で話し出した。
「私は主に十番つまりⅩよね。それも活発化したタイプの十番をやっつけるのが仕事よ」ロキサリバンはそういうと手にしたピッケルを持ち上げた。そう言えば、ラミド達はストックを手にしていたが、この三人は三人共にピッケルを持っている。
「私は主に二番つまりⅡよね。それも活発化したタイプの二番をやっつけるのが仕事よ」今度はダトランがハスキーな声で自己紹介しながら同じように手にしたピッケルをエイと言う掛け声と共に持ち上げた。
「儂は二番、七番、九番、十番つまりⅡ、Ⅶ、Ⅸ、Ⅹを懲らしめる係じゃ。彼らは全員が連携して初めて使命を果たせるのじゃが、儂らが担当する番号の連中を押えておけば、彼らの連携作業は中止せざるを得なくなる訳じゃ」ワフリンは落ち着いた声でピッケルを地面に突き立てたまま答えた。さらにワフリンは続けた。
「彼らは昔は十三人衆と呼ばれていたのじゃが、実際には六番目がおらんかったので、今は十二人衆として神霊の指示で動いておる。今回は神霊の指示で彼らは密かに山小屋の垂木に潜んでいたんじゃな。そして、これは偶然だろうがあなたが垂木に頭をしたたかにぶつけてしまった。それで十二人衆は容易くあなたに憑り付いて連携しながら、あなたを山小屋から連れ出し、黒部川の源流まで引き下ろしてしまった訳じゃ」
私は何が何だか分からなくなった。いくら空いている山小屋とは言え、誰にも見つからずに大の大人を山小屋から連れ出せるのだろうか?
「あなたは夢遊病者のように彼らに三脚とカメラを持たされ、星空の写真を撮りに出かけるように外に出されたのよ」ロキサリバンが私の思いを悟ったかのように解説した。
「そんなあなたの姿を見て、私が十二人衆の内の十番を懲らしめて、十二人衆がそれ以上働けないようにしたってわけ。なんとか黒部川に転げ落ちる前に助けられたわ」とロキサリバンは得意げに言葉を続けた。
「ロキサリバンからの連絡を受けて、儂たちも駆け付けたのだが、既に戦いは終わっておったわ。最近の若い娘は言葉だけでなく、しっかりと実力も兼ね備えているわい」とワフリンはワッハハと笑いながら言った。
「そのまま彼らに連れられていくと私はどうなっていたのですか?」私は聞いた。
「神霊は山小屋での十二人衆の活躍を最後の手段として期待していたのでしょうね。十二人衆に連れ去られたままだと、あなたはこの黒部川の源流を流されて黒部第四ダムでせき止められ、緑色に染まった黒部湖の底深くに沈んでしまったでしょうね」ダトランが答えてくれた。
「そして、あなたは遭難死として扱われ、山の精か森の精、または巨大熊として、この薬師岳で蘇るのよ」ロキサリバンは再び軽くウインクをしながら付け足した。
「おいおい、そんなに驚かせてはいかんよ」ワフリンは笑いながらロキサリバンを軽く諌めた。
私はようやく起き上がれそうになったので、半身を起こした。確かに周辺は岩だらけで傍を川が勢いよく流れていた。私は初めて見るのだが、これが黒部川の源流になるのだろう。水は清く澄み切っていた。本当に私は十二人衆にここまで連れて来られ、ここにいるロキサリバンという若い娘に危うい所を助けられたのだろうか?ひどく不思議な感情に陥った。私が無意識の時に起こった出来事だ。私は俄かには信じられなかった。
「ここから私はどのようにして山小屋に戻ったら良いのでしょう」私はもやもやとした感覚に襲われながらも我に帰って、今最も不安になった点を尋ねた。見上げると薬師岳の東南尾根から下った絶壁なのだろうか、とてもではないが私の技術では登れない岩壁が目の前にあった。
「心配はいらんよ。もうすぐ来ると思うのじゃが」とワフリンは高度計付きの腕時計を覗きながら答えた。五分も経たない内に、黒部川源流の川上から小型のカヌーが流れてくるのが見えた。白い専用のヘルメットを被り、黒いウエットスーツを来た髭面の若者がオールを巧みに操りカヌーに乗って下ってきた。「来たわよ。ラスーミン!」ロキサリバンはこれまでに無かったような笑顔を作り、カヌーの若者に手を振って呼びかけた。ラスーミンと呼ばれた若者は川岸にカヌーを着け、そこから降りて私達のいる場所に近づいてきた。
ロキサリバンはラスーミンに駆け寄ると人目も憚らずに頬にキスをした。ラスーミンもロキサリバンを抱擁して何度も唇にキスを繰り返した。
「見せつけるんじゃないわよ。ロキサリバン!」ダトランがいい加減にしてと言わんばかりに怒りの表情を見せて諌めた。
「申し訳ない。久しぶりに会ったもので」ラスーミンは悪ぶれた様子もなくダトランとワフリンに言った。
「君は確か、三角点への登りの途中であったカヌーを背負っていた若者の一人だね」私は彼をどこかで見た気がしていたが、ようやく思い出した。
「いや~。そうでしたか。申し訳ないけど、僕は覚えてないな」ラスーミンはいわゆるため口で答えた。ラスーミンは私の不思議な一連の出来事が始まる最初の段階では、私に何の興味や関心は無かったようだ。
「じゃあ。悪いがいつもの様にこの人を薬師岳山荘まで頼むよ」ワフリンはラスーミンに言った。
「君は私を連れ戻す能力があるのですか?」能力があるからこそワフリンが頼んだはずだから敢えて聞く質問ではなかった。
「そうです。僕は十二人衆の能力とは真逆の能力を持っています。例えば彼らに物を固める能力があるとすると僕には固めたものを溶かす能力があるって訳です」と冗談っぽく言って続けた。
「さて、申し訳ないですが、さっき倒れていた場所にもう一度寝転んでもらえますか」
私が寝心地の良くない川原に再び寝転ぶと、急に意識が遠のいていくのを感じた。