1.森の精、山の精
足元の傾斜に合わせて一歩ずつゆっくりと足を上げて進んでいく。朝日は目の前にある山の向こうにあるため辺りに日差しはない。午前七時過ぎの静かなブナの樹林帯はまだ薄暗ささえ漂わせている。後ろを振り返ると、木々の間に見える遠くの低い山には朝の日差しが射して明るくなっている。九十九折に続く登山道を登り始めて二十分ほど経過すると、汗が噴き出してくる。
九月下旬の肌寒い朝だが、登り坂は体を熱くする。バンダナを額に巻いて汗止めにしているが、それでも不定期に汗が眼にかかる。その度に滴る汗を払いながら、休む事なく一歩ずつ歩く。私の山登りは大抵の場合、ペースは極めてゆっくりだが、ほとんど休まずに歩く。途中、変に休むと体が妙に重くなった気がするからだ。せいぜいでペットボトルのお茶やミネラル飲料を飲むために立ち止まる程度だ。
しかし、途中に絶景があれば、写真撮影のためにしばらく立ち止まるのは言うまでもない。今日登る薬師岳は北アルプスの北部地域にある人気の高い山で夏場には登山者も絶えない山だが、さすがに九月下旬の、おまけに平日ともなると登る人は少ない。登り始めてから、下りてくる人も、追いつき追い抜いて行く人もおらず、ずっと私一人きりである。やがて上の方から賑やかな若い男の声が聞こえてきた。
「結構疲れるわ」とか「少し休憩するか」とか言っているようだ。私より先行していた登山者に、何故かゆっくりペースの私が追いついたようだ。九十九折の山道を左に折れると、その声の主達がいた。二人の若者で、大学生のようにも見えた。二人とも私より小柄だが、筋肉は付いていそうだった。何より驚いたのは二人が小さなカヌーを背負っていた事だ。しかし、目的地がどこかは分からないが、登山口の折立から三角点まで続く最初の急登でかなりばてている様子であった。
「こんにちは」といつもの山のあいさつを交わしてから「どこで舟浮かべるの?薬師沢のあたり?」と質問する。この先でカヌーを浮かべられる川と言えば薬師沢辺りの流れしか思い浮かばない。
「そうです。薬師沢まで行って、黒部川の源流を下って、黒部湖へ行きます」と比較的余裕の表情を浮かべていたひげ面の若者が答えた。
「ここから川のある所までだと、結構な距離があるよ」と私が言うと「まあ、なんとかなるでしょう」と答える声は明るい。
カヌーを背負っている分、手荷物は少ない。小屋泊りなら何とかなるのかもしれないが、川で濡れたりしたらどうするのだろう、ウエットスーツも持っているのだろうか等と考えていたが、立ち止まって話が長くなるのも私のペースが乱れるだけなので「頑張って」と一声かけて、歩みを再開する。カヌーを背負っているため私よりペースが遅くなったのには納得したが、彼らの若さがうらやましいとつくづく思う。
しばらく一定の息使いで歩いていると、やがて左側が谷へ落ち込んでいる狭い道幅の場所が出てくる。右側は背の低いブッシュになっている。この場所が三角点まで登る道の中で唯一危ない場所かもしれない。少しでも足を踏み外そうものなら、さほど深いとも思えないが谷に向かって転がり落ちていくような所だ。冬の積雪や四季を通じた風雨、さらに多くの登山者達の歩行により、やがて細い登山道も削られて道が消失してしまうかもしれない。何年も前からそう思いながら通過しているが、登山道が削られたという印象はあまりない。ほんの十メートル程度の道のりだが、緊張が走る。
前後に登山者は無く、私はゆっくりとその場所を歩み始めた。その時、左の谷の下から人の声が聞こえたような気がした。この谷の下を歩く人間はいないだろうと思いながら、立ち止まって谷を覗き込こんでみた。この登山道の谷側にはあまり樹木はなく、主に岩肌が見えている。眼の届く十メートル程下に何か小さな黒く動く物体が見えた。タヌキかウサギかと思う位の大きさである。
「おーい、誰かいるのかー?」私は出来る限りの声を出して呼びかけた。「おーい、誰かいるのかー?」と声が返ってきた。明らかに山彦ではない。不審に思いながらも遭難者の可能性もあるので「怪我はしてないかー?」と呼びかけた。すると再び「怪我はしてないかー?」と私の声ではない声が返ってきた。わざと私の声真似をしているようで少し不愉快な気持ちになる。
再び登山道の前後を見渡したが人影はない。私は薄気味悪くなったので、その場を立ち去ろうとした時、行く手の登山道の真ん中にぽっかりと黒い穴が開いた。子供がやっと入れる位の大きさの穴である。
すると今まで私が覗き込んでいた谷の方からざわざわとした声が聞こえだし、いくつもの黒い物体がこちらの方に登ってくるのが見えた。近づいてきた彼らの姿を良く見ると小さな人間の恰好をしていた。
身長は五十センチメートル程度で顔が胴体の割にかなり大きく三等身と言ってよかった。皆がみんな登山のできる格好をしていた。頭にはお揃いの緑色のハンチング帽子。上衣は同じく緑色の長袖シャツ。ズボンは今では見かけなくなった薄茶色のニッカボッカーに緑色の長い靴下と登山靴。帽子の正面とシャツの前面にはアルファベットでNaの文字が縫い付けられていた。不思議な事にリュックは背負っておらず、荷物と言えば腰のベルトに着脱できるホルダーに水筒が一本と今の季節には必要のないピッケルを手に持っているだけだった。年齢は若い者から高齢の者までまちまちであった。同じような恰好のため顔も同じように見えるのだが、よく見ると一人として同じ顔はなかった。ただ、全員が男性であるのだけは確かなようだった。彼らは谷の方から登山道にぞろぞろと登ってくると穴の手前にいる私を一瞬見上げては「こんにちは」と笑顔で定番の山でのあいさつをしてから、次々と黒い穴の中に飛び込んで行った。最後の一人が穴の中に飛び込むまであっと言う間の出来事だった。そして最後の一人が穴に飛び込んだ直後に、私の前に出来ていた穴はその内側にある蓋で閉じられた。
何故そうなっているのかは分からないが、この穴は二重の蓋で開閉されている。登山道表面にある外側の蓋と穴の深さ五十センチメートル位の所に内側の蓋だ。今閉じたのは内側の蓋なので外側の蓋は開いたままになっており、登山道には深さ五十センチメートルほどの穴ぼこが出来てしまった。何とも迷惑な話である。キツネに摘ままれたような気分で私はその穴ぼこを飛び越して先を急ぐ事にした。しかし、またしても私は歩みを止めなければならなくなった。行く手に再び黒い穴がぽっかりと開いたのである。
それと同時に谷側が再び何やらざわつき始めたので覗いて見てみると、先ほどよりは大柄な、それでも身長は七十センチメートル位の小男達が先ほどの連中と同じような恰好でぞろぞろと登ってきていた。手に手にピッケルを持っているのも同じだ。違いは帽子とシャツの色は白を基調としている点と頭に被っている帽子とシャツのマークがNaというイニシャルではなくCaとなっていた点である。Naというイニシャルの連中と同じように彼らは私の前を通る時には「こんにちは」とあいさつをしながら、直ぐ前にある穴に飛び込んで行った。最後の一人が飛び込み終わる前に地面がわずかに震えだしてきた。
「地震だ」思わず私は叫んでいた。すぐ左側に谷のある場所での地震は死活問題につながる。揺れは次第に大きくなり、立っているのも辛い状態になってきだした。私は右側にあるブッシュの根元に必死にしがみついた。根元と言ってもそんなに太い木ではないので数本のブッシュの根元を抱え込むようにしてしがみついた。出来ればCaのイニシャルを付けた連中が飛び込んで行った穴に入りたかったが、その頃にはその穴の蓋は閉まっていた。揺れは長く続いた。へたをすればこの細い尾根自体が崩れるのではないかと思う程だった。揺れの途中でCaの連中が飛び込んだ穴の更に向こう側に三番目の穴が突然開くのが見えた。そして、間もなくオレンジ色の帽子を被り、オレンジ色のシャツを着た小ぶりの男達が中から飛び出してきた。動作が鈍いのか穴から這い出るのもたどたどしい感じである。しかし、彼らが外に出てくるに従い、地震の揺れは収まってきた。その中の一人が私を見つけて、にこやかにほほ笑んだ。彼の帽子とシャツにはKというアルファベット一文字が縫い付けられていた。
身長はCaの小男達よりやや低めで、先に入ったNaの小男達よりは高めの身長六十センチメートルと言った所だろうか。
「いやいや、これは残念。てっきり、あなたは谷に落っこちていると思っていました。よく耐えられましたね。でも、びっくりしたでしょう。この急な地震には?」物騒な話の内容とは裏腹に親しげに近づいてきた小男は私をニコニコと見上げながら言った。
彼の顔は青白く、歳は四十歳半ばに見えた。
「いやいや、私がびっくりしたのは地震ではなくて、突然穴が開いて、小さな人達がその穴に飛び込んだり、逆に出てきたりしている事ですよ」私はまじまじと彼を見つめながら言った。
「私達は、山の精です。この山の地下に棲んでいます。普段は人目に付かない形でいますが、時々、地下から出いきます。地上の明るいのは苦手ですね。おや、もう彼らが戻ってきたようです。私達は再び地下に戻らねばならない時間が来たようです」アルファベットのKを付けた小男は私に一礼をして仲間のいる場所に戻って行った。彼らがつい先ほど出てきた穴は既に塞がっていた。そして、地震はすっかり収まっていた。彼らが出てきた穴の更に先に四番目の大きな穴が開いており、先ほど地下に飛び込んで行ったNaとCaのイニシャルを付けた小男達がぞろぞろと外に出てくる。それと同時にKのアルファベットを付けた小男達が地下へと潜って行った。
私は茫然として彼らの行動を見守っているしかなかった。NaとCaの代表者らしき小さな男達が一人ずつ近づいてきた。二人とも顔は日に焼けて黒い。顔の青白いKの小男とは好対照だ。
「こんにちは。驚かせてしまいましたね。私達は森の精です。この山の表面に棲んでいます。普段は人目に付かない形でいますが、時々、地下へ潜っていくのです。でも地下の暗闇は苦手ですね。おや、もう仲間達は森へ帰って行くようです。私も森へ戻らないといけないようです」
私に何も言わせないままに二人は仲間と共に左側にある谷に向かって下って行った。私は久しぶりに薬師岳に登るが、このような経験は今までした事がなかった。そしてKの小男が私が谷に落ちて死んだ方が良いというニュアンスの言葉を残したのが気になった。
朝の涼しい風がそよりと私の頬を撫でた時、鳥の鳴き声がいつものように聞こえ、周囲がまだ朝早い静かな森の雰囲気に戻っているのを感じた。後続の登山者はまだ追い着いてはいなかった。
私は先ほどの細い登山道をようやく渡り切った時だった。再び谷の方向から騒々しい話し声が聞こえてきた。そして、先ほど見た光景と同じ光景が目の前で広がろうとしていた。私の目の前の登山道に再び黒い穴がぽっかりと開いたのである。
「こんな穴が何か所もあるのか?」私が思わず叫んだ時に「こんにちは」という声が聞こえた。谷から登ってきたのはイニシャルNaの小男である。
「私達は森の精です。今日は神霊のご機嫌が悪いようです。再び私達は行かなければなりません。道中、お気をつけて」一人がそのように言って、次々と目の前にある穴の中に飛び込んで行った。先ほどと同じく内側の蓋が閉まると、その先に新しい穴が開き、そして谷から登ってきたイニシャルCaの小男達が同じように私にあいさつをしながら次々と飛び込んで行く。そして、大きな地震が起こる。今度は危ない崖の場所からは離れた場所にいて、近くに大きな樹木もあったのでその大木にしがみついて身を守る事ができた。やがて、Caの飛び込む穴が閉じて、その先に穴が開きアルファベットKの小男達が出てくるにつれて地震は収まった。
「やあ、又、会いましたね。あなたは結構しぶとい人なのですね。私達は山の精です。こんな短い間隔で地上に出ると疲れてしまいます。天気は良いのですが、私達には厄日です。なぜ神霊のご機嫌が悪いのか分かりませんが、私達は神霊のお告げのままに行動するしかない立場なのですよ」つい先ほど、私と話をしていたアルファベットKの小男が近づいて来てそう言った。
「私はあなた達に初めて会いますが、薬師岳でこんな地震が起こるのは経験が無いですよ。どうなっているのですか?」私は不思議に思い聞いた。
「この地震は普通の人には感じられません。私達の姿が見える人だけに、この地震は感じられるのです。何故、ある種の人達に私達の姿が見えるのかは分からないのですが、その人達は決まって山で遭難して・・・」とアルファベットKの小男は話を途中で止めてしまった。
「今、物騒な事を言いましたね。さっきから私が地震で谷に落ちていないのが悪いような言い方をしているし、私がこれから山で遭難して死ぬとでもいうのですか?」私は少し背筋が寒くなるのを感じながら聞いた。
「私は、もう少しこの仕事をしていたいですからね。これ以上の事を言うと私の身もどうなるか。時期が来るまで言わないでおきますよ。そろそろ交代の時間のようです。彼らが地下から出てき始めました。では、御機嫌よう。でも、今日は神霊のご機嫌が悪いので、また直ぐに会うかもしれませんね」アルファベットKの小男はそう言うと仲間達の元へ戻って行った。
このような繰り返しを三角点に行くまでに五回も体験した。その度に大きな地震が起こり私は地面に這いつくばったり、近くの木にしがみ付かねばならなかった。幸い谷の方向に落ちずに済んだのだが、私に一体何が起きているのであろうか?いい加減疲れてきたが、不思議と勇気ある撤退という気持ちにはなれなかった。今日の天気の良さがその考えを吹き飛ばしているのだ。