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近頃、なんだかお兄ちゃんが忙しい。
そんなある日、 お兄ちゃんがお弁当を忘れたので、
大きな高校の校舎に、勇気を出して潜入開始!!
・・・どうか、怒られませんように。。。
生徒の声が途切れる事なく校舎内を埋め尽くしていた。
あちこちから聞こえる、笑い声や怒鳴り声や叫び声。様々な音を四方八方から浴びる。けれど、そんな事を今更気に留めるほど、繊細な神経を持ち合わせてもいなかった。お祭り騒ぎ、という言葉が一番しっくりとくるこの音。事実、来週末に控える文化祭の準備で、これだけ生徒が右往左往しているのだから、正しい表現だろうと思う。
生徒用昇降口の端に設置された自動販売機に向かい、人気の少ない下駄箱前を横切る。目の端に、ピンクが映りこむ。制服が男女共に味気ない黒、それ一色なので自分の目を疑った。何故この場所にそんな色があるのだろうと顔を右に向けると、見知らぬ顔の男子三人の固まり、それが見えた。
「迷子・・・じゃないよな?」
「あの、あの、・・・お兄ちゃんが」
上履きの縁の色、それがオレンジだったので、男子が先輩である二年だと知る。一段低くなったタイル張りの床の上にいるピンクを、下駄箱の前の彼らが見下ろしている。聞こえてきたやり取り、その片方が消え入りそうなくらい小さい。
「お兄ちゃん?ここの生徒ってことか?」
「呼んできてやろうか?クラス分かるか?」
ほとんどの生徒が午後の時間を文化祭準備にあてている、この土曜日の真昼に。帰り支度ばっちりで下駄箱にいる彼らは、どうひいき目に見ても、不良、の一言に尽きる。それなのに、彼らから発せられる言葉は優しい空気を含んでいた。興味本位で奥を覗き込んで、ようやくその理由が判明する。
低い場所に立つピンクが、小学生にしか見えない女の子で。真っ赤になって俯いているその姿に、物珍しさより先に驚きが走った。
「緋天ちゃん!?」
見覚えのある、さらさらの黒髪。淡いピンクのシャツを着た彼女は、同じクラスの友人の妹。
「あ!アツシお兄ちゃん!!」
声を上げた途端に振り返った先輩三人、その眼力には怖ろしさを感じずにはいられなかったが、彼らの前で小さくなっていた彼女を救助する方が先だった。
「あー、先輩すんません、その子・・・」
「お前、兄貴か?」
「あ、いや、違います。ダチの妹っす」
「んじゃ、連れてってやれよ」
「うっす」
戦々恐々としながら低い声の彼らに頭を下げる。
「ほら、これ履けよ。そのままだと靴下汚れるからな」
「・・・あ、ありがとう」
三人のうちの一人がいつの間にか近くにあった来客用のスリッパを持ち出して、それを緋天に差し出した。相変わらず小さな声でびくつく彼女が礼を口にして。それに笑顔を返した彼は自分の靴を履き、外へ出る。残りの二人もそれに従い、どことなく名残惜しそうに緋天を見ながら去っていった。
「・・・アツシお兄ちゃん」
スリッパを履いた緋天がちょこちょこと寄ってきて、遠慮がちな声を発する。それに我に返って、改めて彼女を見下ろした。うさぎの絵がついたトートバッグを手にした緋天が所在なげに立っている。
「緋天ちゃん、司月に会いに来たの?」
「うん。お兄ちゃんお弁当忘れたから届けにきたんだよ」
頷いた彼女は嬉しそうな、かつ得意そうな笑顔を浮かべていて。ジャンケンで負けて飲み物を買いに行く役に抜擢された自分には、弁当がないなどと司月は口にしていなかったのだけれど。そう疑問を覚えながらも、彼女を可愛がる司月が学校で緋天を目にしたらどんな反応をするのかと楽しくなる。
「・・・入ってもいいの?」
「平気平気。今、無法地帯だしな。その前に自販機でジュース買うから付き合って」
「うんっ」
がこん、と音を立てて缶を吐き出す入り口。たて続けに残りの二本を取り出して緋天に持たせて、にこにこと笑顔を絶やさない彼女を窺う。
「緋天ちゃん、どれがいい?」
「え、でもお金持ってない」
「司月に請求するからいいよ。冷たいの? あったかいの?」
「えっと、あったかいの。紅茶」
申し訳なさそうにしながらも、司月と同じものを選んだ緋天に笑みがこぼれた。基本的に同じ嗜好の兄妹なのだ。
「人がいっぱいいるね」
「うん。あ、ほら、あそこに司月いるよ」
きょろきょろする緋天を連れて、自分の教室へ向かう。何故こんなところに小学生が、と驚くクラスメイトやその他の同学年の生徒を無視して、彼女の背を押した。教室の奥の窓際で、プリント片手に笑顔を浮かべた司月。それを入り口からそっと覗く緋天。緊張した表情をみせていたのに、彼を見つけた途端に同じような笑顔を浮かべる彼女が可愛かった。
「入っていいんだってば。司月!お前のハニーが来たぞ」
好き勝手にざわついていた教室の中、それが一瞬静まり返った。
がたん、と椅子を派手に転がして。
呆然とした顔で立ち上がった彼が、緋天を凝視する。
「・・・緋天? 何で・・・」
条件反射なのか、ふらふらと駆け寄った司月。クラス中の注目を集めて、緋天の頬が染まる。恥ずかしそうに俯いた彼女の手を、司月がつないだ瞬間、きゃぁ、と小さな嬌声が女子から上がった。
「お兄ちゃん、お弁当忘れてるよ。お母さんがね、届けてあげましょう、って」
「あー、出かける時間にお母さんが起きてなかったんだけどね・・・まあいいや」
「おばさん、確信犯じゃねぇの? 面白がってんだろ」
「うん、多分ね・・・緋天、ここ座って」
転がったままの椅子を拾い上げた司月はそれを元の位置に戻す。大人しく座る彼女を面白そうに見つめる友人達と、遠巻きに行方を見守るクラスメイト達。手近の席から椅子を引き寄せて、自分はもちろん小さい輪に加わった。
「で? 緋天、お母さんはいつ迎えに来るって?」
「えっと、二時」
「じゃあ、それまでここにいようか。入ってくる時、怖くなかった?」
「うん、だいじょぶ」
「緋天はお昼食べたの?」
「ううん。お母さんがお兄ちゃんと食べなさい、って」
「・・・そっか。じゃあ、お茶買いに行こう」
「あ、アツシお兄ちゃんが買ってくれたの!」
相手は最愛の彼女か、と誤解を招く程、完全に二人の世界に入り込んでいた司月が顔を上げる。
その目が胡乱げに細められていて。
「緋天、知らない人に何か買ってもらったらダメじゃないか」
「こらっ!!オレは変態か!? つーか知ってる人じゃん、ね、緋天ちゃん」
「ねー?」
首を傾げて不思議そうに兄を見る彼女。仕方がないとでもいう風に財布から小銭を取り出して、彼は顔を顰める。それが自分の手に放られて、そこでようやく呪縛から解かれた周りのクラスメイト達がいっせいに口を開き始めた。
「それ河野の妹?」
「なんか可愛いな」
「っていうか河野君がかわいい!」
「すごい甘いよね! 溺愛?」
「うぉ、女子食いつきすぎ!」
「お菓子食べる? チョコ好き?」
「こっちおいでー。お兄さんと遊ぼう」
「髪さらさらだねぇ。いじりたい」
ハイエナのごとく取り囲む彼らに、瞬時に顔を固くした緋天。彼女を背に庇うように立ち上がった司月が、にっこり笑う。
「うん、可愛いのは分かってるし。緋天が怖がるから、みんな戻ってくれない? 横山は半径三メートル以内に近付かないで」
一部の女子は貢物のように菓子の山を机に置いて。彼の笑顔に逆らえず、残念そうに離れる。遊ぼうと口にした横山は名指しされ、司月に辛辣な言葉を吐かれる。素早く引いた人だかりに、満足そうに頷いてからようやく司月は椅子に座った。
「さて、緋天ご飯にするよ」
「うん。あ、お兄ちゃんのお友達さん、こんにちは」
ぶは、と耐え切れず噴き出したのは、黙って座っていた関。その横でニヤニヤと笑う田辺は、彼女に返事をする。
「こんにちは。っていうか前にも会ってるんだけど、覚えてる?」
「うん。おうちに来た時。・・・お名前忘れた」
ぎゃはは、と本格的に笑い出した関から体を少し離した彼女は、困ったように司月の傍に椅子をずらす。その司月は気の毒そうに彼を見やった彼女の頭を撫でた。
「このお行儀が悪いのが関で、そっちが田辺」
「・・・関お兄ちゃんは大丈夫? 笑いすぎると死んじゃうって本当かな?」
「さぁ、どうかな。放っといていいよ。僕のお弁当どこ?」
「あ、ここ~。もう食べていい?」
「いいよ。・・・関、笑いすぎ」
「ねぇねぇ、アツシお兄ちゃん、見て~、おやつ持ってきたの」
ずっと握り続けていたバッグから包まれた弁当箱を二つ取り出した後。ひとつを司月に渡し、もうひとつを目の前の机の上に置いて。更にその中から、透明の袋を出して自分に見せる緋天。
「おー、クッキー作ったの? おれの分もある?」
「うん。でもお月様の形のはお兄ちゃんの。アツシお兄ちゃんのはネズミさんの形」
「ネズミさんて・・・なんでネズミ?」
「この前ネズミさんの絵の服着てたから。あれ可愛いから好き」
にっこり笑う彼女のその言葉の後に、くすくすと周りから忍び笑いが聞こえる。
何やら気恥ずかしくなりながら、いつになく上機嫌な緋天のおしゃべりを聞きながら弁当を口に運んだ。