6
緋天が学校を休みだして、六日目。
日曜日を挟んだので、正確には今日で五日目なのだが。緋天は何も変わらない。それどころか毎日ご機嫌だったりする。連絡係と称したクラスメイトが、宿題やらプリントやらを持って家を訪れてくる時間以外は。
「お帰り~」
玄関を開けるなり、緋天がぱたぱたと走ってきた。その笑顔があまりに嬉しそうだったので、走ってきた勢いまかせにその体を持ち上げてみた。高い声を上げて笑う緋天を抱えたままリビングに入ると甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「あらら、緋天ちゃんパンツ丸見えよ?」
「いいの~」
台所から顔を覗かせた母が苦笑して緋天に言えば、彼女はこの状態が面白いのかそんな事を言い出す。腕の中の緋天に目を向ければ、確かに自分が持ち上げているせいでスカートから下着が見えていた。
良くはないだろう、とさすがに冷静になって床に降ろせば、彼女は不満そうな顔をする。もう少し恥じらいを持ってもらわねば、学校で男に狙われるんだ、と言っても到底分かってくれそうにない。
「あのねー、今日クッキー作ったの。食べて?」
「緋天ちゃん、一人で作ったのよ。びっくりしたわ~」
先程から漂う香りはそれか、と納得してテーブルの上に置いてある皿を手にとる。ご機嫌な緋天をまとわりつかせたまま、ソファに座るとすかさず膝の上に彼女が乗ってきた。最近学校から戻れば、こうして緋天がべったりとくっついてくる。以前はそれほどでもなかったのに、というよりも逆にこちらから構うのがいつものパターンだったのに、それが今はひっくり返っている。
「・・・本当に緋天が作ったの?」
「うん!!」
手に取ったそれは全くもって正常。口に入れれば絶妙な味。
「おいしい?」
「うん。普通にうまい」
至近距離で嬉しそうな笑顔を浮かべる彼女はかわいいのだが、少々不安が残る。結局のところ、家に居続けている為につまらなくなって、それで自分にくっついてくるのだ。
足の間に収まって今日やった事を報告する緋天を、しばらくそのままにしておくと。ピンポン、と遠慮がちなチャイムが聞こえてきた。
「緋天、昨日の宿題やった? どこ?」
「・・・玄関」
毎日やってくる連絡係。彼女らが来たのだと悟って、入れ替わりに渡すものがどこにあるか緋天に問いかけると、案の定曇った表情。本当は学校に行きたいのに、少しばかりトラウマになってしまった男子生徒がいる教室には行きたくないというジレンマ。
「渡してくるよ」
立ち上がって、緋天を膝からおろす。日に日にこの時間の彼女の顔は曇っていく。頭を撫でて、玄関に向かった。
「・・・あの」
扉を開けると、そこに立っていたのは見慣れない少年。居心地が悪そうに視線を彷徨わせていた。いつもは緋天の友達の女の子達がやってくるのに、今日は違うらしい。
「えっと、これ」
まっすぐに彼が差し出していたのは数枚のプリント。
「ありがとう」
挨拶も口にできないのか、と少々呆れつつ、それを受け取る。彼の手の中で、少ししわが付いていた。
「ああ、代わりにこれ持っていってくれるかな? 明日も休むから」
頷いて、こちらが渡したファイルを黙って受け取る彼の膝は、切り傷やあざだらけだった。服も泥で一部汚れているし、活発な子供なのだと推測する。緋天とは毛色の違う彼が、どうしてここまで届けに来たのだろう。
「・・・あの」
閉めかけた扉越しに彼が声を上げた。緊張しているのが一目で分かった。
「ん?」
「あの・・・、河野、さん、は何で休んでいるんですか?」
「・・・聞いてない? 調子が悪いんだ」
「病気?」
「・・・じゃないけど」
必死な目で自分を見上げてきて、そして言葉をぶつける彼を見て、ある考えが浮上する。
「じゃあ何で?」
「緋天がね、学校行きたくないって言うから」
「・・・っ」
唇を噛んだ彼に確信を得る。
「何か知ってるかな?・・・どうやら今のクラスにいじめる奴がいるみたいだけど」
少し意地が悪いかとも思いつつ、そう口に出したのは、目の前の彼が間違いなく緋天が嫌う相手だから。こうやって様子を伺いにきたという事は、身に覚えがあるのだろう。けれども、それだけで許す訳にはいかない。
ぴくりと反応する彼に、とどめの一言。
「緋天の事をからかったりするらしいんだよ。緋天が嫌がるから休ませてるんだ」
「・・・違う。オレ、いじめてるつもりじゃなかった」
ぽつりと呟いた彼の後頭部に言葉を返してやる。せいぜい後悔するがいい。
「ふーん。でも緋天はすごい嫌がってるし。学校行きたくないって言うほど」
沈黙が流れる。
そろそろいいだろうか。
「緋天。ちょっとおいで」
閉じた扉を開けて、家の中に向かって声をかけた。目の前の彼には逃げるなという視線を投げてから。
「・・・なぁに?」
開けたドアから緋天が顔を覗かせて。そして瞬時に強張った表情を見せた。
「・・・丹波君・・・」
本当に小さな声で、こんにちは、と一応挨拶するあたり、さすがは緋天だと思った。自分の背中に隠れるようにして立つ彼女の手をつないでやる。不安そうに自分を見上げる彼女を、食い入るように見るのは諸悪の根源。
「矢島たちがオレのせいって騒ぐから・・・」
先に口を開いたのは、丹波と呼ばれた少年の方。緋天の友達はどうやら原因は彼だと気付いていたようだ。言い訳じみたその言葉にむっとしたが黙っておく。緋天も眉をひそめて黙っていたから。
「お前・・・嫌なら嫌って言えよ! 急に学校来なくなったから、オレが悪いって言われるだろ!!」
逆ギレして怒鳴る彼の声に、緋天は予想通り身を硬くする。ぎゅ、とつないだ手に力が入っていた。
「・・・そんな事言いにきたんだ? 他に用がないなら帰れ。もう緋天にちょっかい出すなよ。担任の先生に連絡するから、次は見逃したりしない。親にも連絡してもらうから」
「なっ!! 何でだよ!?」
焦った顔を見せる彼。最後通牒を突きつける。
「だいたいね、嫌な事をされても嫌って言えない人間も世の中にはいるって事を知っとけよ? ほら、お前がでっかい声出すから緋天はもう泣きそうになってる」
目に涙を浮かべた緋天をちらりと見て、彼は血の上った顔を気まずそうにゆがめた。半ばしがみついてくるようにする緋天の頭を撫でてやると、すん、と鼻を鳴らす音が聞こえた。それにはっとした顔を見せる彼の目には後悔の色。
「・・・ごめん」
こちらの腕に顔を押し付けて、同級生には決して泣き顔を見せまいとする緋天。彼の小さな謝罪の声を聞いて、体のほとんどは既に自分の影にある彼女の、その両肩から力が抜けるのが分かった。
「名前。変って言ってごめん。そんな気にするなんて思ってなかったんだ。・・・プリントとかも、無理やり見てごめん」
何も言わない緋天に恐れをなしたのか、堰を切ったように謝る少年を、彼女はただ静かに窺っていた。
「もう、しないから・・・だから」
消え入りそうな彼の声が途絶えて。
永遠にも感じられそうな沈黙が通り過ぎる。それを破ったのは緋天だった。
「・・・ほんとに?」
「あ・・・うん」
硬さの抜けた緋天の体。その頭のてっぺんに手を置いてみる。
「・・・無事解決?」
まっすぐに自分を見上げた目が笑って。
「ん・・・そうみたい・・・?」
それから不思議そうに首を傾げた緋天の顔が、とても可愛くて。今この場にカメラがあれば、と切実に思った。
「うーん・・・何かさ、やりきれないと思わない?」
子供達が寝静まったであろう、午前0時。
手にしたコーヒーのカップを弄りながら呟いてみる。
「・・・え? 何が?」
全く自分への関心を払わず、テレビショッピングの画面に釘付けになっていた祥子が問い返してきた。それが寂しくて自分を見ないその体ごと、引き寄せて目線を合わせた。
「緋天のこと。結局さ、司月が何もかも世話を焼いて終わったというか・・・」
多少の悔しさが残る。嫉妬なのだろうか。
緋天の異常に気付いたのが司月なら、担任教師を含め役立たない大人に愛想をつかし、彼女本人にその原因を聞いたのも司月。挙句の果てに、偶然とは言えその原因である男子生徒を特定し、緋天に謝らせたのも司月。全てが司月のお手柄とでも言おうか、とにかく彼が緋天の問題を解決してやったようなものだった。
「あら、そんな事ないわよ? 私は学校休ませてあげたもの」
得意げにそう言って、彼女は笑う。ついでに、この1週間は楽しかったわぁ、とまで言ってのけた。
「う・・・つまり何か? 一番役に立ってないのは、この僕か・・・?」
緋天が学校を休んでいる間。祥子は一日中、ずっと緋天といたのだ。二人でお菓子を焼いたり、散歩に出掛けたりと、かなり充実した日々を過ごしていたらしい。しかも、その成果かどうか、今日は緋天が一人でクッキーを焼くという偉業を成し遂げたと言う。
「そうねぇ・・・裕一さん、何もしてないわねぇ・・・」
苦笑してそう言う彼女の言葉に、とうとう肩の力が抜けた。
「もうお役御免かな・・・」
その内。緋天も親離れしてしまうのだ。そもそも司月が可愛がるから、ブラコン傾向にある。お父さんクサイなどと嫌がられてしまう時期に来ているのかもしれない。
「ん~・・・しーちゃんが何でもしてくれるしね・・・いいんじゃないの、それで?」
「・・・親としての務めはもういらないって事?」
あっけなく言い放った妻のその様子も寂しい。それが顔に出てしまったのか、彼女は笑って。その右手をこちらの頬にのせる。
「そうじゃなくて、ね・・・緋天ちゃんって、しーちゃんもそうだけど。手がかからないでしょ?」
「ああ・・・うん?」
頬の上の柔らかい手に気を取られつつ、先を促す。
「二人ともね、もう分かってるのよ。これはやっちゃダメだとか、そういう致命的な事、もう教えられなくても」
「うん、そう言われればそうだね」
彼らの年齢的に。それはもうクリアしているだろう。いわゆる、倫理観だとか、道徳的な事は。
「それで。緋天ちゃんなんか特にそうだけど。だいたい、私達や先生が言ってる事をきちんとやってれば、上手くいく、って思ってるのね? だから宿題とかも忘れずにやる子になってるの。自分からわざわざ危ない事はしないし」
「・・・だから、手がかからない、って?」
「うん、そう。できた子だと思わない?」
くす、と笑って。肩をすくめる彼女。頬にあった手を上から掴む。
何やら彼女の言う事は、まさにその通りで。自分の娘ながら、少し驚いた。
「だね。なんで、そんないい子になっちゃってるんだろう・・・?」
「やぁね、私達の教育の賜物じゃない? あ、半分はしーちゃんのおかげかしら?」
「いや、でもさ。司月だって僕らの教育の賜物なら、その司月が施す教育も僕らの手柄だと思うよ」
悪戯っぽく笑う祥子につられて、そう言えば。彼女は本当におかしそうに声を上げて笑った。
「だからね。別に務めを放棄している訳ではないのよ? 緋天ちゃんなんて、美味しいおやつと面白い本があれば、それで満足してるんだから。本人が満足してるから、それでいいの」
妙に説得力のある、その言葉。それでいいのかと思い、先程まで燻っていたものが、きれいに取れた。
右手のコーヒーカップをテーブルに置いて。左手の中の祥子の手はそのままに、彼女の体を引き寄せる。
「それじゃあ、今まで通りという事で」
自然にこぼれた微笑ごと、彼女の唇に口付けた。