5
やけに緊張した。
家庭訪問は、今年でもう六年目。
結構な数をこなしたつもりだが、その中で、両親そろって臨む家庭は片手で収まる。
「・・・緋天ちゃんは学業面では何の問題もありませんね。授業もきちんと集中して聞いてくれるし、宿題も忘れずやってきますし。体育が苦手なようですが、本人は真面目に取り組んでいます」
表面上何の問題もない、いわゆる、いい子、の部類に属する彼女のような子供の親が、二人揃っている事に余計に身構えてしまっていた。伝えたことに対し満足そうに頷く父親に反して、母親は眉をしかめてこちらを見た。そこでようやく、彼らが娘に対して何か心配事があるのだと気付いたのだ。
後ろを振り返って、空色の家を見る。
決して手を抜いている訳ではない。けれど、彼女のようないい子は手がかからないから、注意して見る事がない。どうしても、活発な子供や、何か問題のある子供に目がいってしまう。新しいクラスで何かあるのかと問う両親に、言い訳とも取れるような曖昧な言葉を返して、河野家を後にしてしまった。
まさに寝耳に水。彼女の様子がおかしいと告げられて、具体的にはどんな状態なのかと聞けば、自分たちも良く分からないと返された。ただ彼女の兄がそう言うのだから、気になっているのだと言われて、こちらは更に混乱に陥った。後味の悪いまま、次の訪問先へと足を進める。
夕刻の春風は、少し冷たかった。
「どういうこと?」
憤慨した様子の司月が自分を見返した。
「だから先生は、緋天がクラスで何かあるとは思えないそうだよ。というか、正直緋天はいい子だからあまり目がいかないとまで言われた」
困ったように言う若い教師に、自分たちも苦笑してしまった。彼の言う通り、緋天は大人しいので、たまに彼女が傍にいても気付かない事があるくらいだった。
「もういい。緋天が気にしないように黙ってたけど、直接聞く」
椅子から立ち上がった司月が部屋を出て、荒々しく階下へ降りて行く音が響く。まっすぐにリビングへと向かう彼の後を、追いかけた。
「あー、お兄ちゃん。これ、何て読むの?」
「・・・どれ? ああ、これはね、どうくつ。ほらあなの事だよ」
緋天の横に座るなり、いきなり質問を浴びせられた彼は、少々面食らいながら答えを教えていた。勢いを殺がれたのか、しばらく緋天が本を読み進めるのを眺めていた。
「・・・緋天ちゃん、マイペースねぇ」
そんな二人を台所から覗いて、祥子がくすりと笑った。
「見て、あれ。しーちゃん、どう切り出そうか悩んでるわ。あんな顔めったにしないから笑っちゃう」
君の方がマイペースだよと口には出さずに、食卓の椅子を引いて二人の様子を見守る。
「緋天」
本に没頭した彼女は、ようやく話をしようとした司月の呼びかけに気付かない。
「ひーてーん。ちょっとストップ」
「???」
邪魔されたせいで少し不機嫌な顔で司月を見上げた彼女に、鍋の中身をかき回しながら祥子がまた笑みを漏らした。それに気付いたのか、こちらに鋭い視線を投げてから司月は傍らの緋天へと向き直った。
「・・・緋天、学校で何か嫌な事あるんだろ?」
緋天の顔が曇っていくのが、少し離れた自分の位置からも見えた。対面式のキッチンの中で、皿を並べていた祥子にもそれが見えたようで。手を止めて、そっと緋天の顔を伺っている。
「ほら。言わなきゃ分からないよ。言ってごらん」
ぱっと顔を上げて、上から降りた司月の声に反応を見せる緋天。迷うように目を泳がせてから、口を開いた。
「・・・隣の男の子、あんまり好きじゃない・・・」
一度上げた顔をまた下に向けて。小さな声を発する緋天に少し驚いた。好き嫌いを、特に人間に対しての好き嫌いを、こうして口にする彼女が珍しかった。嫌いとは言わずに、好きではないと言う所はまだ遠慮が見えたけれど。
「隣の男・・・? 席が隣の奴ってことか?」
こくりと頷く緋天は、まだ下を向いたまま。その頭に手をのせて、天井を見上げる司月。
「何か言われたんだ? それとも何かされた?」
「・・・・・・」
じっと黙って答えない彼女に、司月が上から視線を戻す。
「緋天。だから言ってくれないと、僕だってどうしようもできないんだ。先生に言えないのなら、僕が言ってあげるから」
「・・・緋天の名前、変って言った。宿題も取られちゃうし、いじわる言うし、・・・」
消えていくその声を聞き取って、司月がほっと一息ついたのが分かった。たった今まで彼女の言葉をはらはらしながら待っていた祥子も、苦笑して自分を見ている。大人の自分たちにはこうして笑えてしまうような事も、緋天にとっては大きな問題なのだと頭では分かってはいるが、やはりあれだけ心配してしまったせいか、反動が大きい。
「あー、それは・・・ほら、緋天がかわいいからちょっかい出したくなっちゃうんだよ」
「ちがうもん。嫌がらせだもん」
逡巡してから言葉を選ぶ司月の顔には苦笑半分、そしてその男の子に対する怒り半分。一刀両断、兄の言葉を切り捨てた緋天は、さらに小さく呟く。
「・・・あんまり学校行きたくない」
「あら・・・」
祥子がその言葉に驚いて、台所から出てくる。とにかく緋天が何かを嫌だと言って、おまけに大人がたしなめるだろうと分かっている事を、あえて口にするのが珍しいのだ。
「緋天ちゃん、本当に行きたくないの?」
「うん・・・」
半信半疑で問いかけた祥子に、元気のない様子で頷いた緋天。
「じゃあしばらくお休みしましょうか」
「え???・・・いいの???」
驚き半分、そして本当は怒られるのではないかという怯え半分な顔を見せる彼女に、にっこりしながら頷く。
「・・・おい、いいのか?」
緋天同様不安そうな声を出した自分にも笑顔を向けて、祥子が口を開いた。
「だって。行きたくないって言うんだもの。無理に行かせても悪化するだけな気がするわ。少しくらいならいいじゃない、幸い緋天ちゃんは致命的にお馬鹿でもないし。学校に行かなくても教科書読むだけで充分でしょう?」
ほんの少し首を傾けて。ダメ?とこちらを伺うそれに、ぐ、と喉がつまる。頭の中の常識なんてクソ食らえだと思ってしまう。
「緋天」
一応、父親らしく。
娘に向き合い、最もらしい事を口にする、いや、しようとした。
「・・・?」
祥子と同じ角度で首を傾げる彼女を目にして。またもや何かが崩れ落ちた。
「・・・教科書を読んでも分からない所は、ちゃんとお母さんか司月に教えてもらうんだよ」
「はぁい」
嬉しそうに可愛らしい声で返事をする緋天。そして再び口を開く。
「お父さんはだめなの???」
一体どこでこの仕草を覚えてしまったのだろう。祥子の癖が移ってしまったのだ。そんな事は瓜ふたつのその動作から明らかに分かっているのに。そう思わずにいられない。またまた首をちょこんと傾けた彼女が可愛くて仕方なかった。
「・・・いや。お父さんでもいいんだよ」
自分はこの先、一生。彼女達のこの表情に惑わされるに違いない。