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「どうだった?」
家に帰るなり、勢いこんだ母が出迎え、そう口を開く。
主語は抜けていたが、今その言葉が指すのは緋天の事しかない。
「・・・結構普通、かな。ずっとにこにこしてたし。門で別れる時も、たまたま友達見つけてさ、そっちに嬉しそうに走って行ったし」
実際あっけない程に。心配しているこちらの気も知らず、緋天は自分に笑顔で手を振っていた。
「そう・・・。でもそれは単にしーちゃんが一緒だったから嬉しかったんじゃないのかしら?」
昨夜の様子が気になっていただけに、かなり拍子抜けしていたのだが。母のその言葉には頬が緩んでしまう。それと同時にやはり気のせいではないのかもしれないと身が引き締まる。
「で? 当の本人は?」
「帰ってきてからずっと大人しく本を読んでるわ」
今更ながらに声をひそめて答える母に、半ば呆れが走る。その様子からすれば、この玄関から遠くないリビングに彼女はいるのだろう。
「・・・緋天、何読んでるの?」
「あっ、お兄ちゃんお帰りなさい」
「ただいま」
集中した顔の緋天に声をかけると、案の定びっくりした様子で本から顔を上げた。
「ふーん、『くまの子ウーフ』? 随分可愛い本読んでるね」
緋天の手から本を取ってみれば、今の彼女の読書レベルよりかなり下のもの。最近は高学年向けの本を主に読んでいる緋天の選択としては珍しい。
「前に読んでたけどどんなお話か忘れちゃってたから、また借りたの」
その返事に頷いてやって、表情を伺うけれど。見る限りはいつもと同じ。ほっとしていると、視界の端で母がエプロンを外しているのが見えた。
「お母さん、出かけるの?」
「しーちゃ、じゃなくて司月も帰ってきたし、ちょっとお買い物行って来るわね。荷物多いからお父さんと落ち合う予定なの」
年甲斐もなくウキウキとした様子を見せる母の笑顔に、何かを感じたのだろうか。ソファで静かに自分達の会話を聞いていた緋天が急に立ち上がった。
「緋天も行く!」
「え、だって緋天ちゃん本読んでる途中でしょ?」
何故か張り切る様子を見せる彼女に母は驚き半分、そして父と二人になる時間を邪魔されそうな事への困惑半分で、歯切れ悪く緋天に切り返した。
「お父さんお迎えに行くんだもん」
「・・・もう。そのままじゃ寒いから上着取ってらっしゃい」
「はーい」
遠まわしな邪魔扱いに全く気付かず。一緒に買い物に行くと主張する緋天に残念そうに母はそう言って。二階に走った緋天の背中を見送ってため息を吐いた。
「何気に緋天ちゃんってお母さんよりお父さん子よね。妬けるわ・・・」
「あ、裕一さん」
本日の特売品であるトマトの前で。あれこれと品定めをしている所でそんな声が耳に入った。聞き覚えのあるその名前と声に顔を上げると、山積みされた玉ねぎの前で微笑み合う男女が一組。
「河野さんとこの奥さんだわっ」
隣から義母が少し興奮した声を上げる。同じ声に義母も気付いたのだろう。彼女と二人で目が合った。
「お帰りなさいっ」
「ただいま、緋天も来てたんだね。あ、僕が押すよ」
「早かったのね」
「うん、五時ダッシュしたからね」
河野夫妻の少し下には嬉しそうにする彼らの娘がひとり。お帰りなさいと口にした彼女の頭を優しく撫でて、カートを妻の手から受け取るご主人の仕草にまず心拍数が上がった。
「お義母さん、見て見て、仕事帰りに待ち合わせして家族でお買い物ですよっ、素敵」
「五時ダッシュですって。ウチのお父さんなんか仕事が早く終わってもパチンコなんか行ってたのよ。信じられないでしょ?」
「わ、お義父さんそんな事してたんですか」
「そうなのよ、小遣いくらい好きに使わせろとか言ってねぇ」
憤怒の形相を見せる義母の向こうで、親子はゆっくりと野菜が並ぶ通路を歩いて行く。
「お母さん、今日のご飯なあに?」
「今日ちょっと寒いからシチューにしたわよ。あ、緋天ちゃん、好きなお菓子ひとつ買ってあげるから。選んでらっしゃい」
「はーいっ」
首を傾げて可愛らしく夕食のメニューを聞く彼女に胸が高鳴った。河野夫妻の長男と同じ歳の自分の息子の憎たらしさとは、あまりに正反対だったので。ぱたぱたと笑顔で走り去る彼女の背中を見送ってから、視線を元に戻す。隣で野菜を選びながらも同じように視線を戻した義母も、彼らの行動を見守っているのは暗黙の了解だった。
「・・・うーん、見た限りは普通だね。司月は何か言ってた?」
「ううん。やっぱり普通だったって。何が何だか・・・」
眉をひそめて話す彼女に微笑んで、彼は優しい声を出した。
「何もないならその方がいいよ。とにかく来週先生に聞いてみよう。悩むのはそれから」
ゆっくりと歩きながら繰り広げられる会話。それはたった今元気良く走って行った緋天の事で。何やら心配事のようだ。他人事ながら、同じ母親として祥子の不安が痛かった。特にその元気のない表情を目にしてしまえば。
「日曜日、どこか出掛けようか」
「・・・え?」
魚のコーナーに差し掛かり、真剣な顔でパックを選ぶ彼女が顔を上げる。笑顔に切り替わった妻が可愛くて仕方ないと言うように、彼も笑みを浮かべて彼女の耳に顔を近づけて何か囁いた。
くすぐったそうに肩をすくめた彼女を見て、ため息がこぼれ落ちた。ぼんやりと見入ってしまっていたが、隣から同じようなため息が聞こえて我に返る。またも義母と目が合って、自分達は手に入れる事のない空気を醸し出す二人を目にするささやかな楽しみを分け合った。
「緋天は喜んで司月が相手してくれるさ。ね?」
「そうね」
にこりと笑う彼女の手から渡されたパックをかごに入れる彼。
ご近所でも噂の的の河野家夫妻は、今週末どこかへデートをするらしい。
隣で顔を輝かす義母と本日三度目、また目が合った。