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半ば強制的に座らされた食後のリビング。
腹立たしい程の笑みを浮かべた両親が、L字型のソファの一辺にいた。
「すごいね、お兄ちゃん」
彼らの口から語られた、緋天が生まれた日の話に素直に感動している当の本人は、それをそのまま自分へと伝えてくる。
「しーちゃん反応薄いわね」
「・・・覚えてないし」
「もう。かわいくないわよ」
「反抗期じゃないか?」
「ああ、だからしーちゃんって呼ばれるの嫌がってるのね?」
勝手な憶測を交えての会話を始めた両親を、緋天はにこにこと聞いていた。
「あはは、それは違うよ。男は母親から、ちゃん付けなんかで呼ばれたくないだけ。誰かに聞かれたら格好悪いから」
「何よそれ。別にいいじゃない」
「そういう訳にもいかないんだよ」
不満げな顔の母に、父は苦笑して男心を教えようとする。言いたい事を父が代弁してくれそうで、このまま上手く伝えてくれればいいと成り行きを見守った。
「しかもあの日の事覚えてないってどういう事? あんなに緋天ちゃんの名前考えるのに必死だったのに」
「仕方ないよ、子供なんだから。すぐ忘れるさ」
「そうね」
話が脱線したが、良くも悪くも、とりあえず頷き納得した母に安堵を覚える。
「ちゃんと僕が覚えているから」
母の耳元で低く囁く父親。それに笑みを見せる母親。いつの間にか父の腕は隣に座る母の肩に回ろうとしていた。
「お父さん」
注意の声を発してから、相変わらずにこにこする緋天を覗く。
「緋天、宿題はもう終わり?」
「うんっ。見て、いっぱい書いたー」
「そっか。じゃあ、もう寝る時間だよ。上に行こう」
「うん」
こくりと頷く彼女に立つように促した。
「おやすみなさい」
「はい、おやすみ」
振り向いて両親に挨拶をした緋天の手をつないでやって、リビングを出た。扉を閉めてほっとする。きっとこの後ろ手に閉めたドアの向こうでは、両親がいちゃつき始めているのだ。小さい頃には何度もそれを見せられ、物心がつき、緋天が生まれた時に。既に幼稚園の友達と自分の家は違うと悟っていたので、これでは緋天に良くないと思い、彼女の前ではそれを見せないように、と両親に約束させた。
一応は彼らもそれが最もだと思ったのか、緋天の前では気をつけているようではあるが。緋天自身の口数が少なく、大抵大人しくしているので、たまにこうして彼女の存在を忘れそうになる時がある。
「緋天、新しいクラスは慣れた?」
三年生に進級した時点で初めてのクラス替えを迎えた彼女が、上手くやれているかどうか気になって聞いてみる。
「ん、日下先生優しくて好き」
「そっか。良かったな」
「うん」
顔には笑みが浮かんでいるが、一番先に教師の名前を出してきたところが何となくおかしい。何か同級生に問題があるのではないだろうか。それ以上は聞かずに階段を上り、緋天の部屋のドアを開ける。つないでいた手を離してランドセルにノートをしまう彼女を見守った。
「明日一緒に学校行こうか」
上掛けをめくってやったベッドに黙ってもぐる、緋天のわき腹をくすぐって声をかける。
「・・・門のところまで?」
くすくすと笑いながら一度頭までかぶった布団から顔を出して、緋天が伺うように自分を見上げた。
「うん。門のところまで」
嬉しそうにする彼女を見て、これは思っていたよりも深刻かもしれないと思いながら頷いてやる。
「電気消すよ」
「う、ん。ちっちゃいの付けてね?」
「了解。おやすみ」
小さな声を出す緋天の顔の横に、床にあったうさぎのぬいぐるみを置いてから電気を消して部屋を出る。
扉を閉める直前、うさぎに腕を伸ばしてそれを抱きしめる緋天が見えた。
「それにしても司月は相変わらずだね。少し緋天に構いすぎじゃないか? 立派なシスコンだよなぁ」
「でも学校では普通みたいよ? ちゃっかり彼女もいるみたいだし」
「えっ!!・・・それは知らなかった、やる事はやってるんだな」
仲良く手をつないで二階へと緋天を寝かしに行った司月に、一抹の不安を覚えていると。返ってきた祥子の言葉に彼女の髪を撫でていた手が止まる。考えれば彼はもう中学二年生なのだから、そんな相手がいても不思議はない。
「そうねぇ。モテるみたいよ、結構。まあ、緋天ちゃんの事もしっかり面倒見てくれてるから助かるわー。妹を邪険にするよりいいじゃない」
微笑む彼女に頷いて、もう一度その柔らかい髪に指を絡ませた。目を閉じて自分に体重を預けてきた祥子にキスを落とそうとしたところで、耳に届いた足音に動きを止める。
「お母さん」
扉を開けて不機嫌そうな顔をした司月がまっすぐソファへと向かってきて。邪魔をした彼に少々腹が立ちながらも隣の祥子を見れば、瞬時に母親の顔になった彼女がいた。
「・・・緋天、新しいクラスで何かあるんじゃないの?」
「何かって?」
意外な彼の言葉に驚いて目を丸くする祥子の代わりに聞き返すと、司月は立ったまま口を開く。
「さっき新しいクラスに慣れたか聞いたら、担任が優しくて好きとか言うから。真っ先に話すのがそれだったのが気になってさ」
祥子と目を合わせると、彼女は眉をしかめた。
「だからおかしいと思って。明日一緒に学校行こうか、って言ったらさ。門のところまで?って聞いてくるんだ。で、嬉しそうにしてた」
「でも・・・去年までの同じクラスで仲良かったお友達もいるのよ? 緋天ちゃん、すごく喜んでたもの」
おろおろとしながら、自分を見上げる彼女に一体どう答えようかと考えていると、苛立った司月の声がまた聞こえた。
「とにかく、来週の家庭訪問の時にそこら辺しっかり聞いといてよ」
そう言い置いて、用は終わったとばかりに二階へと上がる司月の背中を目に入れる。
「・・・司月は家庭訪問の日付まで把握してるのか」
「もうっ!そんな事じゃないでしょ!!」
緋天の学校行事の事まで知っている司月に半ば呆れていると、怒り声を発せられて身がすくむ。
「今は緋天ちゃんの事なの!どっちが父親なのか分からないわ!!」
唇を引き結んで、横を向く彼女。怒らせてしまった事に後悔しながら、回した左腕を引き寄せて、その顔を覗き込んだ。
「ごめん。二人とも手がかからないから気を抜きすぎてたよ」
謝ると少し頬を膨らませて更に横へと顔を向けてしまう。内心焦りながら、できるだけ穏やかな声を出した。
「緋天の家庭訪問は来週のいつ? 午後に有給取るから」
ちらりと自分を見る彼女が口を開く。
「・・・・・・取れるの?」
「取るさ。一緒に先生に緋天の様子を聞こう」
疑いを含んだ声に答えてやると、ようやく頷いた。
今度は自分見上げてくれたそこへ、彼女を安心させる為に口付ける。
その半分は、自分を落ち着かせる為でもあったのだけれど。