はじめましてのごあいさつ11
叔母は、あまり体が丈夫な人ではなかった。風邪がきっかけで、肺炎のような症状を起こし、幾度か入院したこともあった。しかし、日常生活を送ることにおいては健康な人と概ね変わりなく、職を持ち、こじんまりとした清潔なアパートで一人で暮らしていた。
そこに、いつの間にか彼が住み着き、煙草を燻らせ続け、三年目を前にして、朝晩の空気がだいぶ冷たくなってきたな、と思った頃に、叔母が入院した。
前回入院した時と同様に、風邪をこじらせてしまったのでは、と家族は皆そう推測したのではないかと思う。
「・・・理子お姉ちゃんね、入院した時、肺がダメになってたんだって」
京子が隣で手をつなぎ、心配そうにこちらを見ているのを目にして、ぽろりとそれが口をついて出た。そうした瞬間、ああ、ずっと誰かに聞いて欲しかったんだ、と理解してしまった。叔母を喪った悲しさと、彼女の死の要因のひとつであった彼への怒りと、それから。
「あの人、すごく煙草を吸うの。理子お姉ちゃん、昔から気管支が弱くて、煙草だけが原因ではないのかもしれないけど、それでも、煙の傍で暮らしたせいで、肺がダメになっちゃったの」
久しぶりに、言葉がたくさん出てくる。
アスファルトにできた水玉模様と、自分の靴の爪先。そこを見ながら、涙と一緒に、ぐちゃぐちゃだったものが体の中からあふれ出すのを止めることができなかった。
「・・・あの人と暮らしてなかったら、とか。あの人が煙草を外で吸ってくれてれば、とか。みんな、心のどこかでは、そう思ったと思う」
自分の知る限りでは、それを言葉にして、彼を責める家族の姿は見たことがない。入院した叔母をこまめに見舞い、献身的に世話をする彼に、祖父母は感謝していた。
「そりゃ、しょうがないよ。そう思っちゃうのは当然でしょ」
唐突に響いた、からりとした声は、横に立つ京子から発せられていた。
「気管支弱い人の前でタバコ吸うのは、私もどうかと思うよ。それに関しては、あの男の人が悪いと思う。あの人のこと、よく知らないけどさ」
ほんの少し、眉をひそめて。
京子の美しい唇から、そうした言葉が出ると、自分が抱いていた怒りは正当なもののように思えた。
「・・・ねえ、緋天」
覗き込むようにこちらを窺う、京子のアーモンド形の双眸。
「あのね、理子お姉さん、あの人といて、嬉しそうだった?」
そっと出された声は、優しい笑みと共に耳に入ってくる。京子は更に口元を緩めて、目線をあわせて問いかけてくる。
「もし嬉しそうだったんなら、それは理子お姉さんが、あの人に恋してた証拠だと思うし、きっと幸せだったんだと思うよ。自分の好きな人と一緒にいて、嬉しくないわけないじゃん?」
キッチンで料理をしていた叔母の後姿を覚えている。もうすぐ彼が帰ってくるからと言って、彼の好きな料理を用意していた、その姿。明るい曲調の鼻歌も部屋に響いていた。
中学に入って最初の夏休みだった気がする。遊びに来た自分にはアイスを振る舞い、暑いね、と言いながら、コンロに向かって大きな肉の塊を焼いていた。その後、夕方になる前に帰ってきた彼を玄関で出迎えて、満面の笑みを浮かべていた叔母の横顔も。
「・・・すごく、嬉しそうだった」
あれは、恋をした女性の笑顔だったのだ。確かに、あれほど楽しそうな、それこそ弾けそうな笑顔の叔母を、それ以前はあまり見た覚えがない。
「そっか、じゃあ幸せだったんだよ。私が言うのもなんだけどさ、緋天があの人のこと、あんまり好きじゃなくても、理子お姉さんは大好きだったんだよ」
すとん、と。
京子の言葉が、頭の中に落ちてくる。彼女のその、ふわりとした微笑みが、体をぽかぽかとした何かで包みこみながら、叔母の死を、側面から表現しているようだった。
そうか、と。
叔母は、幸せな恋をしていた、ただの女性だったのか、と。
「・・・ごめんね、って言いたかった」
一時的に記憶を失った叔母に恐れを抱き、その後、会いたいと口にしてくれた彼女に、とうとう会いに行けなかった。それをやり直したい。
煙草を燻らすあの彼に、なんだか嫉妬のような感情を持ってしまい、あまり仲良くできなかったことや、叔母の葬式で涙を流さずにいた彼を、薄情だと思って睨むように見てしまったこと。彼のせいで亡くなってしまったのに、とすら思っていたこと。
見舞いに行けていたら。叔母の前で彼と仲良くできていたら。
最後に、大好きだった笑顔を見ることができたかもしれないのに。
「よし、行こう」
「・・・え?」
「もう一回、理子お姉さんのところ行こう! 言いたいこと、今のうちに言っちゃえばいいよ」
ぐん、とつないだ手を引っ張られて、一歩前に、足が動く。
そのまま進む京子の背中を追いかけると、ちらりと肩越しに彼女が振り返って。そして、あの美しい微笑を浮かべていた。
拒否はできない。けれど、嫌な気分ではない。少しの不安がまとわりついているだけ。それを振り払うのを、京子が助けてくれている気がした。




