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緋天がポケットからハンカチを取り出して濡れた目元を拭くのを見ながら、どのみち、余計な寄り道をして時間がかかってしまったから、司月は何かあったと気付くだろうな、と背筋が冷えた。
「愛ちゃんのこと、嫌いじゃないんだよ・・・ほんとだよ」
「分かってるって。緋天ちゃんは、司月と二人で遊ぶ方が好きなんだろ?」
「うん・・・」
司月だって、本当はそうなんだろう、と。
彼に聞いた事はないが、きっと緋天と同じ答えが、悪びれることなく返ってくる。彼女よりも、緋天を優先する。彼女よりも、緋天と遊ぶ時間の方が好きだ、と。
「・・・緋天ちゃんに彼氏ができたら大変だな」
「お兄ちゃんより、もっといっぱい好きなんてないもん・・・」
これは、司月が大いに喜ぶ答え。
鼻声で不満そうに返事をする緋天だが、あと十年もすれば、こんな事を言わないはずだ。その時、司月は密かに影で泣くのだろうか。それとも、徹底的にシスコンを貫き、緋天の彼氏と戦うのだろうか。
「あーあ」
「・・・アツシお兄ちゃん」
「んー?」
「緋天が泣いたの、秘密にしてね・・・?」
「いや、そりゃどうかな。バレると思うけど・・・あ、バレた」
明らかに落ち込んだ顔の緋天は、とにかく分かりやすい。
彼女のお願いに疑問を覚えていると、廊下の角から、す、と現れた人影。タイミング良く出てきた彼は、緋天に対するセンサーなのだろうか、とにかくそんなものに導かれてやってきたに違いない。と、非現実的なことを思った。
「帰ってくるの遅いし。篤史、お前がロリコンだなんて知らなかったよ」
「うわっ、怖ぇって。つーか緋天ちゃん、何でこっちにしがみつくの!」
緋天を探しに来た司月は、にこりと笑っているのだが、言葉に棘がありすぎる。加えて、何か禍々しいオーラのようなものを発しているようにさえ見えた。緋天もそれを察したのか、ぎゅ、と腰のあたりのシャツを掴んでくる。ここで司月に抱きついていたら、まだマシだったのに。
「・・・だって、お兄ちゃん、怖い・・・」
「何で緋天が泣いてるんだ? 緋天、こっちにおいで」
涙は止まっていたが、濡れた睫と赤くなった目元で分かったのだろう。一層不機嫌になってこちらを敵視する彼は、怖いと言った緋天に腕を広げるが。彼女の頭はふるふると横に動く。
「・・・緋天、だめだよ、そんなロリコン」
「わぁっ、・・・うー」
固く握られた拳をそのままに、緋天の体が強制的に抱き上げられて、あっという間に司月の腕の中。
ばり、とカッターシャツが引っ張られ、慌てた彼女に放された。
「くそっ、シスコンにロリコン呼ばわりされるなんて・・・」
「行こうか」
「うん、・・・」
嫌がっていたはずなのに、司月の手元に行った緋天は、きゅ、と彼に抱きついた。
やはり本物の兄貴には勝てない、と思ったところで、いかにも自慢げに緋天を受け止める司月の笑みが憎らしくなる。
「・・・ろりこんって何?」
手をつないだ司月を見上げ、緋天の首が傾く。
「・・・変態のことだよ・・・それより、どうして泣いてたの?」
司月がさらりと流した言葉には反応せず、後半の問いに彼女の体がこちらを向いた。無垢な視線が自分を見上げて、何と答えよう、と問いかけてくる。ああ、どうしてこんなに彼の神経を逆撫でする行動をとるのだ。
「篤史、何してたんだ?」
「違うって! オレじゃねーよ。緋天ちゃん、家で話すんだろ?」
「うん、そう、お家でお話しする」
司月の声にはっきりと混ざった毒に、何もしてないのに負けそうだった。
目を見開いた緋天が、一生懸命、自分の言った言葉を繰り返した。本人に悪気はないのだろうが、正直、悪循環だ。
「緋天、篤史の言うこと聞かなくていいんだよ。言いたいこと言ってごらん?」
「・・・ちがうのー! 緋天が悪いのっ」
自分で気付いたのだろうか、ダメだ、と思ったところで、フォローのつもりか緋天の訂正が入る。
「アツシお兄ちゃんは味方だもんっ」
「・・・分かったよ」
歩き始めていた足を止めて、緋天の体が司月の手を引っ張った。
妙な必死さにようやく疑うことをやめたのか、それともこの場での訴追を諦めただけなのか。溜息混じりの司月の声。二人の後を黙って追う。
「そうだ、今から看板に色塗りするんだ。緋天も手伝ってくれる?」
「うん!」
廊下に出たところで、司月が気を取り直したように、緋天を見下ろして。
それに、ぴん、と耳を立てた子犬みたいに反応した緋天が、嬉しそうに返事をしたのを見守った。
「え~! もう帰っちゃうの~!?」
「最後までいればいいじゃんっ」
「そうだよ、緋天ちゃん、お兄ちゃんと一緒にいたいよねー?」
真剣な顔でペンキのついた刷毛を握っていた緋天の髪は、いつの間にやら数人の女子がいじり、細い二本のみつあみに変わっている。一息ついたところで、司月が緋天に帰る時間だよ、と声をかけたところで、そこかしこからブーイングが飛んできたのだ。
「悪いけど、緋天が疲れちゃうから」
彼らのやり取りに目を白黒させていた緋天が、ぺこりと頭を下げる。
「・・・あの、お菓子くれた人、ありがとうございます。髪も可愛くしてくれてありがとう」
「うぅっ、可愛い・・・」
健気な様子に誰かの呟きが漏れ、それを聞いた司月は笑みを浮かべてから緋天の手を取った。
「緋天ちゃん、ばいばい。また来てね」
「また髪で遊ばせてね!」
「はいはい。文化祭の時に親と来るから。緋天、挨拶して」
「えっと、お邪魔しました。さよーなら」
もう一度頭を下げた彼女を、複数の視線が追いかける。
その中心にいる緋天は、注目されるのが怖いのか、司月とつないだ手に力を入れたまま教室を出た。彼らを追う形で、何となく自分も廊下に出て。
「・・・仲いいなぁ」
純粋に羨ましくなって漏れ出た言葉に、二人が揃って振り向いた。
その表情は、そっくりで。
「ははっ、やっぱ兄妹だよな。・・・や、オレ、弟しかいないし? オレも緋天ちゃんみたいな生き物欲しかった」
「生き物って・・・失礼だな。まぁ、そう言いたくなるのも分かるけど」
「お、認めた! ほら、ほっぺた、ぷにぷに」
「う~、いやぁ」
緋天の横に並んで、たまらず人差し指をその柔らかな頬に突き刺す。
思ったとおりの弾力に嬉しくなって、彼女が嫌がるのも構わず続けてみて。
「篤史、人の楽しみを・・・緋天も嫌なら逃げなきゃ」
呆れ顔の司月が、緋天の背を引き寄せる。
さりげなく自分が突いていた頬を撫でてやるのを見て、この男の優しさは別ベクトルだと思ってしまった。そもそも司月が、愛と別れたことを事前に緋天に伝えておけば、こんな事態になっていなかったのに。ぺたりと司月にくっついて、こちらを伺う緋天を見たら、それを口にするのは躊躇われたが。
「緋天、ここから一人で行ける?」
「うん、お母さんと帰る」
下駄箱に辿り着き、ぺたぺたと音を立てていたスリッパを脱いで、靴に履き替えた彼女は、司月の言葉にこっくりと頷いた。
「・・・篤史」
帰る準備は万端で、それなのに、緋天の足が動かない。
彼女がじっと自分を見るものだから、司月がものすごく不満げに緋天の話を聞いてやれ、と半ば脅しめいた目線で呼ぶ。
「なに?」
俯いて。
もじもじとする様子に頬が緩む。なんだ、この可愛さ、と言いたくなって口を噤んだ。
「・・・あのね、アツシお兄ちゃんと三人でゲームするのは好きだから、また遊びに来てね」
「あ~、オレはいいのか・・・そっか、男だからか? 司月は気遣う必要ないもんな」
「え???」
我慢できずに、緩みまくる口元を押さえながら。
緋天が三人でもいい、と言った理由を推測していると、不思議そうな顔で疑問の声を上げる兄妹。
一応彼女だった愛がいた時は、司月もそれなりに気を遣っていたのだろう。そもそも司月は、女性に対しては大抵丁寧に接する。緋天を優先するにしても、愛も女の子扱いしたはずだ。ましてや彼女なのだから、クラスメイトの女子生徒よりも丁寧に。それに緋天は疎外感を抱いていたのだろう。
けれど、自分と三人ならば、司月はこちらを気にせずに、緋天を構うから。緋天は何も臆することなく、いつもの彼女でいられる。
「・・・こっちの話。じゃあな、緋天ちゃん」
ぽん、と置きやすい位置にあった頭頂部に手を置いて、若干撫でてやると、緋天が嬉しそうに笑ったから。ばいばい、と手を振って、ちょこちょこと歩いていく小さな背中を見送った。気分は悪くない。
「何か、納得いかないんだけど」
「おい、怒るなって。帰ったら嬉しい話が本人の口から聞けるからさ」
夕方の、ちょうど小腹が空く頃に。
あの、ネズミの形をしたクッキーを食べよう、と微妙にうきうきしながら。
憮然とした表情の司月を置いて、教室へと足を戻した。




