終章 迷宮に眠る
終章
地上への活路、扉から直線に走る回廊を悠然と歩む人影があった。彼女は回廊の角から新たに現れた人物を立ち止まった。血塗れの青年――ラルフである。疲労した体を引きずるようにして歩いていたラルフも、彼女の存在を見咎めて足を止める。
厚手の外套を纏っていても長身痩躯、凹凸のはっきりした輪郭は身間違えようもない。
ラルフの険しい表情は相手にも伝わったのか、苦笑するようなかすかな笑い声があった。
「そんなに怒らなくてもいいじゃない。お互い生還できたんだから、喜びあいましょうよ」
「……エマ、やっぱりアメリィにくだらない話を吹き込んだのはお前か」
エマの手には科学の生み出した猛獣たる銃が握られていた。
一般には決して出回らないはずの銃を迷宮都市では購入しようと思うなら、非合法な業者に接触して、少なくとも正当価格の二倍は支払われなければならない。そんな面倒事をこなしてまで手に入れた銃が穏当な理由で行使されるはずがない。
硬質的な銃を細い指がいじり、安全装置を外す音が聞こえた。
「そうだよ。ここまで来たからには、もう私がやったことはばれてるんでしょう?」
「氷蝋花の毒を飲み水に入れて、アメリィやヴェルマに飲ませた。それからヴェルマに電撃を加えた……」
「ああ、うん。その予想で合ってるね。でも本当は殺すつもりなんかなかったのよ。アメリィが蠍百脚を殺すときに使った魔術を見て思いついた、急場しのぎの魔術だったから、手元が狂っちゃっただけ」
束の間、言葉を忘れたラルフに、エマは頸を傾げた。それから説明が不足していたのかと、附言する。
「あ、私ね、いちおう魔術師の才能があるんだけど、アメリィより遥かに弱いの。嫌になっちゃうよね、魔術の適正があるって判って、お母さんは浮足立って大学に進学させてくれた。でもなんの役にも立たないほど弱々しいって評価されて……申し訳ないよ」
エマはよく異国で暮らす家族に仕送りをしていた。あまりに呆気なく浅薄な動機に思い当たり、ラルフは吐息とともに言葉を吐きだした。
「……もしかして霊剣を売り払って金を作って帰ろうって算段だったのか?」
迷宮での殺害は最も検挙されにくいと言われる。先の踊り子や鉄槌の騎士がそうであったように、職業犯罪者の類も入り乱れているのが迷宮の法規範が緩い証拠である。
「それも理由の一つではある」
エマは頷き、ラルフを見据えて銃を構えた。演技などする気もなくなったのだろう、学生の雰囲気は失せて危うげな殺気が漂っていた。
ラルフも毅然として投射機を握った。戦闘の判断にさほど時間をかけたのが意外だったのか、それとも銃弾に投げ矢で抗おうとするのが可笑しかったのか、エマは銃の標準を定めながら片目を眇めた。指はまだ引き金にかけられていない。
「仮にも一年連れ添ったのに葛藤とかしないんだ? 満身創痍でここまで来るのがやっとって感じだし、ちょっと期待はずれかも」
「裏切り者の存在は予想していたから心構えはできていた。最初はアメリィかと思っていたが、彼女が先に俺を疑って襲いかかってきたから、さすがに気付いたよ。これは嵌められたのだと」
「あっはは、当たり前だよ。あの嫋々とした女の子が、仲間を殺すなんてとてもじゃないけど無理でしょ」
手加減なしにラルフを襲ってきた無鉄砲をそう評価できるのが羨しい一方で、エマの目は節穴だと言わざるを得ない。アメリィはこんな節穴に騙され続けて半ば半狂乱に陥り早急な手段に出てしまった。なぜ小隊に道化が紛れ込んでいることに気が付けなかったのかと自問自答し、渦巻きかけた仄暗い感情を即座に胸の内に圧搾した。
ラルフの理性は、まだ対話すべきだと判断している。頸をへし折ってやりたいのを我慢して、理性で言語を吟じなければならないのことに理不尽を感じながら唇を動かした。
「物語の終わりには推理をするのが形式美だろう。どうせ最期なんだ、エマが話したくないことを当ててやろうか。たとえば好きだったフロンが死んで、捨て鉢になって犯行を進めたとか」
言い終えて、息が切れそうになる。魔結晶の効果が切れてきているのだ。すべての魔結晶はアリサの葬送に使い果たした。指一本、唇を少し動かすのだけでも億劫だったが、それを見破られないように注意しつつ、ラルフは注視を続ける。
「やめてよ。あんたって口調から良いところ出身だって判るんだけど、そういうところが嫌いだった。そう、私はあんたが嫌いで嫌いで……」
額を伝って落ちた汗をぬぐい、中腰の姿勢からエマを見上げる。彼女の発言が挑発と決別を意図しているのは判るのだが、乗ってやるのは酷く面倒だった。
「『迷宮探索者冒険譚』が俺の愛読書だった」
「そんなこと聞いてない!」
「おおいに同意するな。俺も裏切り者の言葉は聞く気がしない」
共通の言語で話しているはずなのに根本的な部分で通じ合っていない。望む返答を引きだせず、エマは焦れて語調を荒げた。
「私はルッツが憎かったから、あの人が遺したすべてを、壊したかったの!」
「……その理屈はおかしい。ルッツはあんたを助けて死んだ。それから……俺はあんたが小隊に居座るようになったのも、ルッツになにか想うところがあるんだろうと考えて赦したんだ」
迷宮に戦闘できない人間が侵入してはいけないという法はないから赦した。好きにすればいいと思った。けれどエマはずっと嘘をついていたのだ。自らを学生と偽り、共に過ごした時間を偽り、感情を偽り、小隊の面々を欺いた。その罪は重い。
「なにその言い方、命を懸けて助けてもらったら絶対に感謝すべきだと思っているの? それは残された人間の気持ちを考えていない、第三者の傲慢じゃないの?」
「エマの弁も生者の傲慢だろう。俺だってルッツが死んだとき、思ったさ。自分の命を捧げてまで、他人を助けなくちゃいけないんですかって」
ルッツだけではなく、アリサにも伝えたかった。アリサが手を抜いてまでラルフを助けようとした行為を撥ねかえし、ラルフも彼女のことを大事に想っているのだと正直に告白して負けたかった。だがその望みは叶わなかった。
「私はッ、命を懸けて助けてくれなんて頼んでないッ! だってルッツは私の一番大事な人を助けてくれなかった! 彼を、恋人を、助けてくれなくて……。わたしはどうなってもよかったのに。なのに、なのに、私は……、教授を…………」
エマの肩が震えた。彼女は他人を虐げてまで生きていたくなかったのかもしれない。他人が命すら犠牲にして自分を救ったという事実に心が折れたのかもしれない。そうだとすれば共感を覚えるが、その弱さを許容してやることはできない。
「……確かに、エマは事故に巻き込まれて不憫だし哀れだと思うよ」
「なら、おとなしく……!」
「だけどな……、無力を他人のせいにするなよ」
エマは酷く傷ついたような顔をしたが、ラルフは務めて無表情を貫いた。
彼女は罪を犯した。仲間と呼んでいた人間を裏切って殺した。ならばラルフが彼女にしてやれることは一つだ。
投射機を構える。アメリィの見よう見まねだが、この暗闇では細かな不作法は目につくまい。
「そっか。そうなんだ……残念だな。私、ラルフのことちょっと好きだったのに」
引き金に指が掛けられる。ラルフは、そのかすかな動きを見逃さなかった。即座に投射機を投げ捨て、最後に残った魔結晶の力を振り絞り、地を蹴った。最初からこの原始的な投射機に頼るつもりはなかった。
乾いた発砲音がして、熱弾が太腿を掠めた。転びそうになりながら、エマの元へ駆けて行く。
エマとラルフの距離は一息に詰められるような長さではない。立て続けに発砲された銃弾の一つがラルフの頬を掠めた。この鉛玉に当たれば、紙片より軽く命が飛ぶ。肌を焦がすような戦慄が四肢を舐めたが、いまさら止まることなどできない。
決死の覚悟が伝わったのか、エマが焦燥に顔を引き攣らせた。後退しつつ、発砲を続ける。エマの腕が悪いせいだろう、どれも致命的な部分には当たらない上に、一発撃ってからの追撃が遅すぎる。
様々な武器の扱い方をアリサは教えてくれたが、その知識のなかには銃の情報はなかった。以前は不思議に思ったことはなかったが、真実を知った現在ならアリサ自身が現代武器に疎かったのが理由かもしれないと想像できる。そもそも魔結晶が破壊されなければ何度でも蘇りを果たせる魔物が、一発の銃弾や斬撃で命が吹き飛ぶという状況を正確に認識できるかどうかも微妙なところであった。アリサが戦闘術を磨いたのは自らの身を守るためではなく、彼女の王を守護するためだ。こうして考えてみるとアリサがラルフに戦闘術を教え込んだのは、自らが培ったすべてを明け渡すような意味があったのだと理解できる。
銃弾をぎりぎりで避けながらラルフは、エマの横に回り込むことに成功する。だが、そこまでだった。地に手を突いた状態で、ラルフはエマを見上げた。三歩ほどの距離もない至近距離で、銃口はラルフにまっすぐに向けられていた。
「ふ、震えちゃって、そんなに怖いの?」
エマは奇妙に口を歪ませた。
「ああ、死ぬのは怖いよ」
歯の根が合わないほど震えながらラルフは、この状況の意味を噛みしめた。
アリサはラルフに力を与え、ルッツはそれを有効に使う方法を教えてくれた。
彼らはその最期から、教示を与えてくれた。
どんなに強かろうと、人間とは違う化物だろうと、生きている限り終わりが訪れる。
彼らは自ら死を受け入れ、他人のために犠牲になる道を選んだからこそ、そんな結末を迎えた。そこには彼らなりの葛藤があって、彼らなりの覚悟があったのだろう。
だからこそ、ラルフは思うのだ。
死ぬのが嫌なら、死を受け入れてはいけないのだと。
全力で一か八かの賭けに出なければならないのだと。
ラルフは死にたくない。たとえ迷宮を焼け野に返すことになろうとも、仲間と呼んだ裏切り者を殺さなければならなくても生きていたい。妙に達観したふうを装わず、臆病なままで、死んでもいいと思えるときまで戦い続けたい。
優位に立つことを自覚できて満足したのか、エマは鼻を鳴らし悠然とラルフを見下ろしている。猫のような目には嘲りの色が含まれていた。
「兵士が籠城した要塞を、一つの退路も遺さずに囲んだとき、なにが起こるか知っているか?」
ラルフは浅い呼吸の隙間で問いかける。兵法の知識がなくても生死の瀬戸際に起きる事態は想像がつく。エマはすぐに返答した。
「籠城していた兵たちが決死の覚悟で攻めはじめるんじゃないかな。それこそ採算度外視で、生きてたらそれだけで勝ち、みたいな感じで」
「そうだ。死を前にした二択なら、相手を殲滅し尽くすほうを選ぶ。エマは前に俺のことをこう言ったよな、ラルフはいつも二択しか選ばないと」
言わんとすることを察し、エマの笑顔は強張る。
「実はエマが来る前に、ある仕掛けをしておいたんだ」
生き残った裏切り者が唯一の活路であるこの入口を目指すのは自明の理だった。だからラルフは先に来て仕掛けをした。
エマも、ラルフも最後の瞬間に躊躇など挟まなかった。
「動け、――霊剣」
ほぼ同時にエマの指が引き金を引く。空気が爆ぜるがごとき爆音。音速の壁を突き破り、鉛玉が飛んでくる。時を同じくして濃密な闇が覆う天井から鎖の連なりが荒々しい音をたてながながら零れ落ちる。まるでそれ自体が意志を持つように、うねる鎖はエマの背に突き刺さった。
絶叫、空薬莢が地に落ちる音、それからラルフの頬から血飛沫が飛んだ。
間を置いて銃弾が掠めた裂傷から、血が溢れる。ラルフは自身の流血を無視し、硝煙の臭いが立ちこめるなかを仰臥したエマの元へと歩み寄った。
エマは吐血しつつも苦悶の声を噛み殺して、、血の海から這いずって起き上がろうとしていた。彼女はまだ戦意があり銃を手放していない。手を振るわせながら銃口を向けてきたので、それをラルフは軽く踏んでやめさせた。いかに精神が不屈であろうと無駄な足掻きだ。
ラルフは吐息を整えながら彼女を見つめた。
「これ、なに?」
「霊剣だ。鎖が伸びるのは霊剣付属の効果、だな」
「霊剣……、本物の? 霊剣? ……はじめて見た」
「これであの世へいってもルッツに自慢できることが一つ増えただろ」
いつも霊剣と偽り腰に提げていた短剣ではないが、エマにとってはどうでも良かったらしい。笑った末に
「…………ひとつ、良いことを教えてあげようか」
目を開くのもやっとという感じで、エマはラルフを仰ぎ見ていた。
「……専門の人間を使って、ルッツの身元を調べさせたんだけど、彼の経歴は六年に迷宮都市にやってきたところからはじまっている。それ以上前のことは、どうやっても遡れなかった」
死の間際だからか、エマはいやに饒舌に喋る。ラルフは口を挟まずに耳を傾けていた。
「都市にやってきた彼は、アリサってひとを探してたみたい。生き別れの、許嫁だとかなんとかって。でも結局見つけられなかったって。聞いたときは思い出せなかったけど、アリサって…………ラルフの想い人の名前なんじゃないの?」
二人を思い出すと奇妙な心地になった。エマの話の真偽は定かではなかったが、二人はたしかに似た者同士だった。
ふと気が付けば、エマが涙をこぼして朱に染まった手をラルフのほうへと伸ばしていた。
「……なんだか、寒い、な。ねえ、どこにいるの?」
「そうだな、寒い。迷宮は寒いな」
「視界が暗くて、こわいの、どこ……」
「怖くなくなるまで傍にいるから」
返事はなかった。
「…………」
たぶん、彼女は最期に笑ったのだろう。口の端がつり上がった。ラルフを窺い見ていた目は、生気を失いはじめている。血潮の海に沈んだ異国の少女の骸はいまも銃を握っていて、不屈の精神力の名残だけがあった。ラルフは胸の内で手を合わせた。死んでしまえばその体はただの抜け殻で、哀しいほどなにも残らない。
回廊に死の匂いが充満したころ、回廊の片隅からこちらへと近づいてくる気配を察知してラルフは緩慢な動作で霊剣の柄を握った。
遠くから足音が近づいてくる。肩足を引き摺るような不自然な足音だ。その足音は狭い回廊にやけに大きく響いていた。やがて姿が見える位置にやってくると、ラルフが投射機を放った。彼女は器用に空中でそれを受け取り、唸るような声で罵倒してきた。
「ラルフさんは鬼です」
手のなかでラルフの小剣を弄びながら近づいてくるのはアメリィだ。魔結晶が飾に使われたその短剣はアリサとの思い出の品であり、いまのアメリィに似合いの品でもあった。扉の隙間から入り込んでくる微風が、短くなった茶髪の先を揺らす。魔術師のローブは血と泥に塗れて散々な有様である。ラルフに失神させられたときには足を引き摺っていなかったはずなので、どうやら彼女はあれから随分と彷徨い歩いたようだった。
「……そうだな」
あの日、あの屋敷を燃やした運命の日、母もそう言っていた。『あんたたちは悪魔よ』と母親は泣き叫んだ。ユーディトは哄笑しながらそれを肯定し、ラルフも姉につられて頷いた。きっとラルフはそのときに悪魔になったのだ。
「……なぜわたしを殺さなかったんですか」
「俺はアメリィが好きだから」
「誤魔化さないでください」
「裏切り者を始末したことについて感想はないのか?」
「……嬉しくもあり、哀しくもあります。でも話を逸らさないで、答えてください。ラルフさん」
アメリィの声には猛々しさなど微塵もなく、ただ困憊した気配だけが漂っていた。ラルフはしばし無言で足元に広がる血を眺め、ゆっくりと声に出した。
「――そうだな、言葉にすると酷く浅薄な響きになるが……赦せないからだ」
「…………」
「俺は自分を赦せない。俺は誰かを地獄に落とすような真似をする人間だという事実を忘れていたんだよ。それがたまらなく悔しいから、罪だと思ったから、罰してくれる人を残そうと思っただけだ」
鞘から小剣の白刃が現れる。アメリィはそれを値踏みするように注視してから、ラルフに歩み寄った。ラルフはなんの警戒もとらない。ただ黙ってそのときを待った。アメリィの持つ小剣が、ラルフのすっかり肉の削げた脇腹を狙う。
「嘘ですね」
しかし彼女は一言そう言って動きを止めた。彼女の澄みきった目に圧倒され、ラルフは息を呑んだ。
「…………」
微笑を残し、アメリィはそのまま小剣を遠くへ放り捨てた。地面に小剣が落ちる乾いた音を背後に、彼女は足を引き摺りながら出口へと歩いて行こうとする。
唐突な行動にラルフは焦り、その背に手を伸ばした。だが届かない。ラルフの手は、彼女の背に触れない。足元が震えて立っていられなくなる。血に塗れた地面に膝をつき、彼女の背を揺れる視界で見送ることしかできない。失血しすぎているのだ。ラルフもこれまでの戦闘で血を流し過ぎていた。治癒術をもってしても、おそらく助かるまい。魔結晶があれば命は助かるかもしれないが――アメリィはそれを見抜いたのだった。
ラルフはアメリィの背と、回廊の奥へ放り捨てられた魔結晶を見比べて、魔結晶のほうへ這って行こうとする。もはや感覚を失くした四肢は言うことをきかず、ラルフは血の海で嗚咽を抑えた。悔しかった。まだ生きていたかった。まだ死にたくなかった。なによりラルフを生かしてくれたアリサに、申し訳なかった。
「ラルフさんのこと、好きでした。あなたがわたしにしたことは、永遠に許せないだろうし、あなたが傍で一緒に生きて一生をかけて慰めてくれるって言ったとき、本当は嬉しかった。はじめてあなたに勝ったと思った。でも……」
回廊の奥から走ってくる人間の姿。背中に天使のような翼を持つ小柄な影が、ラルフが跪く横を通り抜けて行った。反響が朦朧とした頭蓋を揺さぶった。
「わたしの幸福は悲劇に浸って思考停止することじゃないから、この子を護って外に出ることにします。生きて幸せになります。だから、さよなら」
階段を昇って行く後姿。呼びとめようにも声がでなかった。小柄な影が振り返り、ラルフのほうを見て悲しげに俯いた。逡巡して何か言いたげにしていたが言葉を発することはなく、半魔の子供は踵を返した。二人はラルフを置いて光の世界へと歩きだした。
重い目蓋を持ち上げると、傍らには懐かしい姿があった。柔らかな手に握られている。全身が重く、不快な水気に濡れているなかで手を握ってくれる彼女の体温だけを感じる。
どのような術を使ったかは知れないが、治癒術は傷を塞ぐだけだ。失った血は戻せない。ラルフは朦朧とした意識で、それが最期の瞬間であることを悟った。
「ユーディト」
「うん」
名前を呼んで返事をしてくれただけで嬉しくなる。
薄桃色の髪は三つ編みで、手のひらは柔らかくて、冷淡な印象の顔つきは笑うとそれほど怖くない。姉の面影を残す亡霊は、ラルフのために泣いていた。
触れる手に涙がこぼれる。服の上からでも判る、胸の不自然な硬さ――それは魔結晶だった。迷宮の核を破壊したことで深層は崩壊して潰れた。彼女の姿をいくら探しても見つけられなかったので、死んだのかもしれないと思っていた。ラルフは彼女が無事でいてくれたことに安堵する。
「思い出したの……?」
涙声に、緩やかにかぶりを振った。
迷宮の核に願ったことを具体的に思い出せたわけではないが仮説はあった。ラルフが施設に火をつけ、棺を開けた時化物が起き上がったことに驚愕しユーディトを刺し殺した。その後に深層、魔結晶の核へとたどり着いたのであれば、なにを祈ったのか想像がつく。
「……ユーディト、ごめん、こんな身体にしてごめん、こんな祈りを成就させてごめん……」
ユーディトと桃色の髪色をした子供を一緒に夢に見ていたのは、それが真実だったというわけである。魔結晶に祈り、ラルフはユーディトに身体を与えた。魔結晶を心臓とする、偽物の身体を。
「ううん、もういいの。もう赦してあげるって決めたから。わたしも、ラルフも、罰を受ける。地獄に堕ちる。それだけ悪いことをしたのだから」
血に染まった薄桃色の髪を撫でたかった。労いたかった。訊ねたいことがあった。だが腕を持ちあげるのは困難だった。そんなラルフの意図を察したように、彼女は顔を近づけた。正確には死に際の囁きを聴き取ろうと耳を寄せたのだった。
死と血の臭いに紛れて、花の匂いが鼻をくすぐった。
「……家に帰ろう」
その声は彼女の耳に届いたのか――彼女は顔を綻ばせた。涙も悲哀も消し飛ぶ、可憐な笑み。
ずっとその笑顔が見たいと思っていた。
「そうね、一緒に帰りましょう」
ずっと彼女が待つ家に帰りたかった。
いつの間にか、迷宮は立ち消えてラルフは懐かしい家の前に立っていた。家の周りを囲む緑は陽射しを浴びて輝き、名前のよくわからない鳥たちが今日も元気に囀っている。ラルフは教科書の入った鞄を背負っていたが、不思議なくらい身体は軽かった。意気揚々と家の前まで走ってきて、扉をそっと開ける。
広間には母と父、それに銀髪の少女がいた。少女はラルフを見て、小首を傾げて不思議そうな顔をしたあと、一人で頷き笑った。珍しく口喧嘩をしていない両親も顔を見合わせると、ラルフのほうを見て笑みを浮かべた。
おかえりなさい、と。
三人は言ってくれた。
「先に帰ってて。わたしも後から絶対に行くから」
ラルフは救われたような気分になって、最後に一呼吸し、瞼を閉じた。