五章 点と線
五章 点と線
「へえそうなんだ、先行しちゃったのか……」
説明したラルフのほうが動揺してしまうほど、エマはあっさりとその事実を受け入れた。早々に天幕を畳み終わり、メモ帳に何事かを書き連ねている。その隣ではアメリィが昨夜と同じく鍋を掻き混ぜているが、彼女も口を挟む様子はなかった。ヴェルマも少し驚いた様子をみせたのみで何事か訊いてこない。
どうやらヴァイスが別行動をとりたがっていたのは周知されていたらしい。彼女の恐怖に目が行き、そのあたりを観察していなかった。あるいは彼女自身がラルフから隠そうとしていたのかもしれないが――いまとなっては訊けない。
「もしかしてラルフ、夜這いでもしたの?」
「誰がするか」
「昨日、眠りこむような魔術をかけられたのは気のせい? 逢瀬とかじゃないの?」
「気のせいだ。気のせい。たぶんな」
エマの勘に恐々としたものを抱きつつ、ラルフは用意を整えた。
「ヴァイスちゃんは触ると半殺しにされそうだものねえ」
「同意するが、そういう問題じゃない。迷宮に色恋を持ちこむと死ぬと――」
「アリサさんが言ってた?」
「………………」
「うわ、ラルフ真顔になってる! 珍しいなあ、楽しいなあ!」
喜ぶエマを相手にすることに徒労を感じて、ラルフは視線を外した。
昨夜は闇の中に口を開けているのみだった渓谷も、日光に全体像を晒している。深い渓谷には一部、なだらかな斜面があり、そこには探索者が命がけで建設した石階段が這っている。降った先の渓谷の底に、目指す大階段は存在していた。
真紅の空には雲の陰はない。天候は良好。飛行する魔物の姿も、いまのところ見つけられない。ここまで静かなのは珍しいどころか、異常と表現してもよい。通常の場合、深部に近づくにつれて魔物は凶暴さを増す。アリサに第五階層に放り込まれたとき、小竜の巣をそれと知らず通り抜けようとして、怒り狂った彼らから集中砲火を浴びる羽目に陥ったのは、決して繰り返してはならない失敗の記憶として脳裏に刻まれている。
嫌な予感は掻きたてられるものの、ラルフが考えても詮無いことである。幸か不幸か、一行はなんの妨害も受けず大階段を降り第五階層へと到着した。予定通りたった二日で最終階層に移動できたことに感激しながら、地図に記された地下施設の入り口に向けて進みだした。
第五階層は一面の廃墟である。一階層ぶんの領域のほとんどが遺跡に埋め尽くされており、竜などの大型の魔物はいない。いるのは人形遣いと呼称される、人間に似た形状の幻を操る魔物だ。石塊と煉瓦などの建造物群の隙間を縫って、ラルフたちは扉へと近づく。
誘拐犯がいるという施設の入口は、一階層のときと同じく石壁の隙に隠されていた。しばらくの間観察してあちらの警戒態勢を窺ってみたものの、細部が遮蔽物に隠されている上に、人形遣いは自らが攻撃をしかけるまで肉眼で視認されないという特異体質がある。
限界まで近づいてみなければ、どんな状態になっているか判断ができない。
エマは巨大な遺跡に感動し懸命にメモをとっている。ラルフはそれを一瞥し、アメリィの様子を窺った。栗色の髪の毛に砂埃を付着するのも気にせず、緊張に満ちた顔で扉を睨んでいる。
「俺が近づこう。そして異常がなければ、潜入を開始する。ヴェルマに殿を頼みたい」
「このまま見ていても埒が明かないのは確かだが危険は?」
「心配ない、ヴァイスがいるから」
ラルフが想像するヴァイスという少女は、ラルフに対して疑念を持っていたとしても、危険性が少しでも減るのなら駒として使う道を選ぶ。彼女は復讐を軸に世界を回している。目的のためなら、他人が犠牲になるのを厭わない。
そんな彼女だから、きっとどこかでラルフたちの動向を監視しているはずだ。潜入が成功したのを見計らって侵入するだろう。
「施設内部の地図は頭に入ってるよな?」
「はい」
「作戦は?」
「挟撃です。見つけた魔物や、敵と思わしき人物は容赦なく撃滅します」
ヴァイスが示していたのは実に簡単な挟撃作戦で、南北それぞれ四つある扉のうち、北と東の二手に別れて攻めるというものだ。ラルフたちがいま臨んでいるのは北である。
「ほかに質問はあるか?」
皆の反応を確かめる。緊張しているアメリィ、ヴェルマ、それから目を爛々と輝かせたエマ。エマは深く頷くと、ラルフに飛びつかんばかりの勢いで詰め寄ってきた。
「ラルフ、入ったらわたしの行動はいつも通りでいいんだよね?」
「いつもと同じでいい。手近なところに通信用の仮拠点を置くつもりだからそこで待機。仮拠点を置くまでは、アメリィと行動だ」
いつになく興奮している様子に、ラルフは若干引きつつ答えた。
「了解した」
「遺跡を攻略したときと同じだ。あまり緊張しないでほしい。俺は一緒ならなにも怖いものはないと思っている。信じている」
失敗したらの話は敢えてしなかった。皆もすでに覚悟はできている。
突撃はすみやかに開始された。
教えてもらった手法で扉を開けると、消毒液の匂いが立ちこめた。想定していたより、埃臭くもなければ、黴臭くもない。
廊下には何者の存在もなかった。八十メートルほど先を探索しても魔物の存在を探知できなかったので、一旦戻り仲間を呼び寄せる。先頭をラルフ、アメリィ、エマ、殿をヴェルマとする真正面からの攻撃に備える隊列で侵入した。一番手近な場所にある小部屋を占拠し、魔導具を組み立てて通信網を完成させる。ここまでは予定通りに進み、あとはエマとアメリィを残して小部屋の鍵を閉じようとしたときだった。
「アメリィ、危ないッ」
アメリィの背後、地中から吹きだすように現れようとしていた影に、ラルフは咄嗟に彼女を抱えこんで横に飛んだ。狭い室内である。埃っぽい床を転がり壁に背につけたのと同時に影は実体化し、片手に持っていた斧を振るった。避けるには距離が足りない、間に合わない。アメリィの背に刃が叩き込まれるかに見えた刹那――金属同士が衝突しあう耳障りな音が響く。ヴェルマの盾が遮ったのだ。すぐ知れたが、エマの悲鳴が重なりラルフの反応が遅れた。
ヴェルマが動いた。アメリィを庇った盾を、そのまま相手の頭部へと叩き込む。一撃、二激、三激。鈍重な盾の殴打に影の頭部は陥没し、ようやく身体が霧散し――しかし続々と地から湧き出てくる黒い煙は、留まる気配を知らなかった。
「人形遣いの操る幻影……実体があるとは聞いていたが中々厄介なものだな」
「ああ、ここはだめだ。早く廊下へ出るぞ」
ヴェルマがいち早く、廊下へと脱出。ラルフもアメリィを立ち上がらせ、エマの肩を抱いて廊下に出る。
廊下は幽霊のように沸き立つ影で覆い尽くされていた。
再びエマが短く悲鳴をあげたが、今度は気をとられなかった。
エマを、アメリィのほうへと押しやる。ラルフは跳躍するように、敵陣へと飛び込んだ。
向かってきた人形遣いの腹部に太刀を押し込み、柄を捻った。顔面の大口から真っ赤な血が吹きこぼれたのを認め、放り捨てる。死角から切りつけてこようとした影の槍を、半身を逸らして回避。同時に太刀を突き入れる。たしかな手ごたえを感じ、影は霧散した。さらに二体、同時に切りかかってきた影をラルフは横合いに飛ぶことで躱し、一体を体当たりで跳ね飛ばす。斧を頭上へと振り上げた影の脚を掬って転ばせ、無防備になった上体へと止めを刺した。
影の動きは洗練されているとは言い難く、流れるように攻撃できる。だが影をいくら斬ったところで、奴らは際限なく湧き出す。人形遣いを撃破しなければ戦闘は終わらない。
周囲を見回し、思わず舌打ちしてしまう。このように追い込まれるのは予想外――というより、本体がどこにいるのか察知できないことが予想外である。いままでの経験上、人形遣いは影を盾のように扱い、複雑な動きをさせることはなかった。それがいまは複数の個体が同時に攻撃を仕掛け、人間を囲み追い詰めている。本体の存在を気取らせずに複雑な攻撃を操る強力な人形遣い。そんなものにラルフは遭遇したことはなかった。
背筋を這う焦燥に、脂汗が吹きだす。緊張を悟られぬように、努めて冷静に指示をだした。
「アメリィ、浄化の灯りを!」
「はい!」
人形遣いの操る影には実体がある。本質は墓地に出没する鬼火や幻影――死霊系の魔物と同様なのだ。人形遣い(召喚者)がいるために完全に浄化できないが弱点にはなり得る。
「覚醒と消滅を(luna plena defectus)、鎮魂と唱和を(lux umbra)、祈る女神の腕に回帰しろ(unda)。想いだせ(liberatio)。――『浄化の光(albus)』」
詠唱に呼応して、影が最も密集している場所へ点滅する光が舞い降りる。柔和な光を放っていたその球は、人間の腰の位置にまで降りてくると、突如として強烈な光を迸らせる。
焼きつくすような閃光に、一瞬だけ影が薄れる。その隙を逃さず叫んだ。
「走れッ!」
階段を降り、小部屋を無視して、ただひたすらに駆け抜ける。どれほど走ったのか、二水没して通れなくなった通路に行き止まりを食らい、ラルフはようやく立ち止まることができた。背後を振り向いても、影は追ってこない。ラルフの背後にはただ荒い呼吸を繰り返す、三人の姿があった。
「きゅ、急にっ……一言、言ってくれれば! それにここはどこ……ですか?」
浮遊する光球は、アメリィの動作に併せて左右を巡る。照らし出されたのは、水没した見知らぬ階段だった。
懸命に地図を想いだそうとしてみるが、ここがどこであるか判らない。入口から真っ直ぐに伸びる路を選んだつもりだったが、この階段に心当たりがなかった。戦慄を隠すため、ラルフは話題を魔物に変えた。
「すまない。……あの人形遣いはだめだ」
「だめ……? 相手できないってこと? ラルフが? じゃ、じゃあ誰があれを!?」
エマが息を乱れさせているのは、走ったことだけが原因ではないだろう。胸に通信機を大事そうに抱え、彼女はいまにも泣きだしそうな顔をしていた。彼女にとってラルフは迷宮を安全に歩くための杖だ。その杖が役に立たないのであれば、この先の道を絶望視して混乱しそうになるのも仕方がないことだった。
「この施設内部だけだと思うが……、魔物が、強すぎる」
「ぅ」
エマは言葉に詰まった。片手で口元を抑え、嗚咽が零れないようにしている。
「エマ、……これが終わったら家に帰れるんだよな。前に言ってただろう、お母さんに会えるって」
幾度もエマは頷く。茶褐色の目は、光を湛えてラルフを見つめている。彼女の様子に、ラルフは冷静さを取り戻した。エマがまだラルフを頼ってくれるのなら、応えなければならない。
「絶対帰してやるから」
「……うん、だ、だいじょうぶだから……。アメリィの……あれ、ちょっと、動揺しちゃって……。誘拐犯を仕留めるなんて聞いて、浮かれていたのかもしれない」
エマが落ち着きを取り戻すのを待って、ラルフたちは水没した回廊を迂回し、中央に向かうことにした。影が追い付いてくる様子はなかった。
想定していた内部の回廊と、現在の位置が合わないことを指摘したのはアメリィだった。
「ラルフさん、ここおかしいですよ。わたしたちが見つけた地図には四差路以上に別れた回廊はありません。なのにここ、五つ道があります」
緑の大男ですら通り抜けられそうな、洞穴めいた広い道。その先には五色の印がつけられた道があった。薄暗い施設に不釣り合いな、お伽噺にでてくる迷路のように胡散臭さを漂わせる人工的な痕跡である。誰かが侵入者を騙そうとしている。
加えてここに辿り着くまで部屋の扉がなかった。当初の通信拠点を作るという計画は実行不可能になり、必然的にエマを連れ歩くことになる。
渡された地図と現実の施設が違うことにラルフも気付きながら、敢えて指摘しようと言わなかった。地形の把握に努めて、中央を目指していればいつかヴァイスと出会う。時間がかかっても必ず彼女は中央までやってくるだろう。そう希望を抱いてのことだったが、道筋がその先を想定できないほどに滅茶苦茶で、しかも計略に嵌るかもしれないとくればお手上げだ。
「……それは俺も考えていた。この施設の壁は石だ。しかも分厚い。突貫工事なんか容易にできないはずなのに、構造が変わっている」
「可能性は三つありますね。誰かが魔術でわたしたちを騙しているか、本当に魔術やその他の奇跡で改変したか。そもそも渡された地図が嘘だったというのも在り得ます」
「アメリィ」
「可能性の話です。べつにヴァイスさんを……疑っているわけじゃ、ないですよ」
皆が現状に行き詰まりを感じている。分かり易い不和の種を投げ込むのは、内部分裂に繋がる愚かな行為だ。アメリィはラルフを試しているのだ。
ラルフはのど元まで出かかった言葉を飲みこみ、代わりに三人の面々を順番に見回した。
「ヴェルマ、どう思う? 戻るか、進むか、どうしたらいいか」
「進む。でないとヴァイス殿を一人残すことになる。あの方ならば、易々と死なんだろうが、だからといって戻るのは見捨てるのと同じだ」
「エマは?」
「私もヴェルマに賛成。ヴァイスちゃんは嘘を言っていないと思う。地図が間違っていたのは、たぶん手違いよ。私たちを騙す悪意はない……と思う」
ラルフもエマと同じことを考えた。おそらく手違いだ。ヴァイスがこの施設にいたのは、数年前の話である。その間になにかがあった。確証はないが、そう考えるのが妥当だ。
だが当然、アメリィにそれが通じるはずはない。ヴァイスの過去は、ラルフしか知らない。それも彼女自身の口から告白されたわけではなく、断片的な情報を繋ぎ合わせての憶測ということになる。
「わたしも進むことには賛成します。でもヴァイスさんは……」
アメリィは珍しく、苦々しい色を滲ませた。道着の袖を指で弄び、不安を紛らわせようとしている。
「ヴァイスが信用ならないというのなら、直接訊ねよう。アメリィ、ここで不安がっても仕方ない。答えはでない」
アメリィの話を長引かせるわけにはいかない。彼女の不信感が他のものに伝播することは避けなければならない。閉鎖空間で疑り合いなど無用な諍いを招くだけなのだから。
革帯に繋いだ三本の短剣の感触を確かめる。
「……それに仮にヴァイスがアメリィの言う通りに危険だとしても、こっちは四人いるんだ。そう簡単にやられはしない」
「そう、でしょうか……? ヴァイスさんはまだわたしたちに隠し事をしています。危険です。すごく……危険です。それに復讐なんて野蛮だと」
「アメリィ、ここへ来た目的を忘れていないか?」
「子供たちを助ける。忘れてなんかいません。でも!」
それでも言い募ろうとしたアメリィを、ラルフは手で制した。
「アメリィ」
緑の目がラルフを睨む。ラルフは悠然とその視線を受け止め、退かなかった。
ふとエマが不思議そうな顔をするのを認めたラルフは、彼女に視線を移した。
「……ひとつ訊きたいんですが、ラルフはいまも霊剣を持っているんだよね?」
「ああ。持ってる。それがどうかしたか?」
「いや、べつに。霊剣を持っていれば、ヴァイスちゃんに負けるはずないでしょ」
断定じみた言葉に、アメリィは苦い顔をして頷いた。
「……出過ぎたことを言いましたね、ごめんなさい。本題に戻りましょう」
それからアメリィは口を噤んだ。彼女が釈然としていないのは明白だったが、これ以上なにかを言う空気ではない。
ヴァイスがこちらに牙を剥けば、ラルフ以外は死ぬだろうという予感がある。だからそんなことにならないために、ラルフは両者の仲を取り持たなければならない。それが彼女と協力することを決定した責任というものだろう。不確定な記憶の残滓がどこまで信じられるかなんて判らない。だがラルフはヴァイスを信じたい。
自嘲するほど盲目的に――アリサを信じているのと同じように――彼女のことをラルフは――
均衡を保つことが、いまラルフに求められていることだ。
「先に進むということでいいな。ではまず中央に向かうために、どの道を選べばいいと思うか聞かせてくれ」
選んだ回廊を進めばほどなくして、鉄臭い空気が鼻孔を突いた。当たりである。
何も言わずとも、アメリィは杖を構え、エマはアメリィの背に隠れた。ヴェルマは静かに警戒を続けている。ラルフは無言で片手をあげて、前方を指さした。先に行って様子見してくるという合図だ。三人が頷き、浮かんでいた光球が沈む。束の間、ラルフは音もなく走り出した。
身を潜めて探索する術はアリサから一通り教わっている。野外探索用の皮靴に、反射を除去できていない装備。完全ではないが身のこなし方は様になっていると思っている。それにどれだけ完全に気配を消していようとも魔物は人間に気付く。嗅覚か、温度か、あるいは空気の振動か。施設内部を警戒している雰囲気のある魔物に遭遇したら、その時は諦めなければならない。
路は蛇行している。角が多いのは、侵入してきた敵を排除するときの配慮だろう。奥へ行くほど血の臭いは濃くなる。ラルフは息苦しさに眉を顰めて、ようやく見えてきた灯りに足を止めた。話声はしない。静寂が支配している。いつでも身を引っ込められるように気を遣いながら、慎重に角から身を乗り出した。
見えたのは無数の棺が並ぶ、四方を純白の壁に囲まれた百メートル以上はあろうかという広い空間だった。黒檀の棺は整列させてあり、その均一的な扱いからは死者への情などは感じられず作業的な整頓が窺える。通路は一直線にこの部屋に繋がり、血の臭いは紛れもなくこの部屋から漂ってきていた。
予想外の光景に愕然としたラルフの脳裏で、目前の部屋にいつかの悪夢が重なる。
無数に並ぶ棺。飛散する化物の体。棺の蓋を開ければ、そこにいたのは探し人ではなく――彼女の姿をした――。
ラルフが悲鳴を飲みこむ。同時に猛烈な胃液の逆流と、頭が割れるような頭痛に襲われる。その間隙に――背後の闇から手が伸ばされた。ラルフの反応は、一拍だが遅れる。
華奢な手がラルフの口を塞ぐ。耳元で眠りへと誘う詠唱を囁き、膝を折ったラルフを強引に暗闇に引きずり込んだ。
遊戯室と名付けられた、子供たちのための遊び場でその女の子はいつも一人で過ごしていた。この場では特定の友人がいなくても、本人に声をかける気さえあれば大抵は受け入れてくれる。だが少女はそうした努力はせず、いつも黙って壁際で同じ本を読んでいた。フリルの目立つ少女趣味的なワンピースに、真っ白な肌。人形みたいに綺麗な彼女の姿は人目を惹き、来たばかりのころは皆が話しかけたそうにしていたが、彼女が容姿に似つかわしくない言動を繰り返すので皆離れて行った。
いまや彼女の態度は他人との間に壁を作っていると見做されていて、子供たちの中で彼女に進んで声を掛ける者は一人しかいなくなってしまった。変人に構う、酔狂な者。ラルフのことである。
「今日はなにを読んでいるんだ?」
今日もラルフは、彼女の隣に座りこんだ。何を見ているのか気になって手元を覗き込むと肩が触れ合った。すると少女は物静かな態度を一変させ、ラルフを睨む。
「気安く触らないでって言ってるでしょ。俗物が」
「俗物って、そんな言葉どこで覚えたんだよ。人に向ける言葉じゃないよ、それ」
ついでに言うなら肩が触れたのは故意ではないし、悪意もなければ、下心もない。それにも関わらず、汚らわしいものを払うような仕草をしてみせる彼女にラルフは傷ついた。
「お父さんがよくお母さんに言ってたの」
「………………」
ラルフが突っ込めなくなると、少女は睨むのをやめ静かに視線を本へと落とした。
始終、こんな調子で会話が弾んでいるとは言い難かったが、ラルフは彼女の傍を動かなかった。彼女は一月前に亡くなった姉の友人で、姉に似て綺麗な銀髪を肩あたりまで伸ばしていた。触ってみたかったが唾を吐かれかねないので自制していた。
「そろそろ名前を教えてくれたっていいだろ?」
「………………」
「ユーディトとはどんな話をしたんだ?」
「あんたには関係ない」
取りつく島もない、冷淡な物言いにラルフはしばし考えあぐねる。彼女と共通の話題は姉くらいしかなく、その話すら拒否されてしまうと何が彼女の興味を惹くのか判らない。本の話題はだめだ。読書は彼女自身が本を好きなわけではなく、ただ暇をつぶすためにしている演技なのだと、ラルフは早々に勘付いていた。
姉も本をよく読んでいた。特に施設の大人の前では。
「……また来る」
「もう二度と来なくていいから」
その言葉は心に深く突き刺さったが、諦めるわけにはいかなかった。姉の死の秘密を握っているのは、彼女だという確信があった。
遊戯室の扉の前で、子供たちの様子を微笑ましげに眺めるマーテルの一人に会釈をし、ラルフは退室した。
ラルフとユーディトは両親が死んだと聞かされ、この孤児院に連れてこられた。最初は散々と泣き喚いた記憶があるが、そのうち悲しくなくなり二人はこの空間に馴染んだ。施設に窓はなく、また薔薇の咲く庭があるものの、その庭以外の出入りは禁じられている。不思議な場所だと感じたが、暮らしはとくに不都合がなかったので、違和感は徐々に薄れていった。
そこに疑問を持ったのは、ユーディトが死んだのに対して周囲の誰もが碌な反応をみせなかったせいだ。ユーディトは誰からも好かれていた――というのは少々言い過ぎかもしれないが、子供たち全員と分け隔てなく接し朗らかに笑っているような立場だった。決してその死を気にされないような、浅からぬ付き合いではなかったはずなのである。しかし、ユーディトが亡くなったとき、子供たちはほとんどなんの反応もみせなかった。涙はおろか、悼む声さえも――哀しみを忘れたように、彼らは普段通りに遊んでいた。
不審感を覚えて、周囲を観察するうち数人がなんの前兆もなく姿を消していることに気が付いた。この場で起きている異常になぜ皆が気付かないのか。
ユーディト以外にその疑問を吐露できそうな人物に心当たりがあった。
「そろそろ教えてくれないか……姉貴とはどんな話を……」
「しつこい! 触んないで、姿もみせないで、話しかけないで。存在が気持ち悪い!」
「まだなんにもしてないのに変なこと言うなよ。あとその文句、結構傷付く」
遊戯室から生活空間へと戻るその背に、ラルフは追い縋った。銀髪と白い服はどこにいても目立ち、百人近くいると思われる子供たちの集団から探すのに苦労しない。彼女はたいして長くもない廊下を、ラルフを追い払うためだけに速足で進んでいた。
ラルフは彼女の隣に並ぼうとしたが、彼女は器用にラルフを避けて進む。ラルフは思わず彼女の肩を掴んでしまった。やばいと呟き咄嗟に手を離したが、振り向いた彼女は想像より遥かに獰猛な目つきをしていた。即座に平手打ちが飛んでくる。避けられるほどの間はなかった。手加減なしで頬をぶたれた。
泣きそうな顔をした女の子に手をあげられるのは、はじめてである。
「触んなって言っているのに」
彼女は間違いなく震えていた。
ラルフが無言で少女の顔を見つめているうち、二人の衝突に気が付いた周囲が騒ぎ始めた。誰かがマーテルと呼ぶのが聞こえた。少女はその声に肩を震わせると、無理矢理、身体を子供たちの中にねじ込んだ。彼女の姿が人混みの隙間に紛れる寸前、ラルフは彼女の手を掴んだ。今度は振り払われなかった。
二人は人を避けて、やがて無人の廊下に行きあたる。彼女に倣い、ラルフは歩く速度を緩めて隣に並んだ。先程までの野生動物並の気迫はすっかり失せ、いま隣にいるのはおとなしげな風貌の年下の女の子だった。
「どうしてついて来たの」
「二人っきりになれる絶好の機会だからだ」
彼女は嘘か真か確認するようにラルフの顔を覗き込むと、眉を顰めた。言葉にされずとも彼女の言いたいことは解る。
「勘違いしないでほしいんだが、俺が教えてほしいのはユーディトのことだ」
「あなた……ユーディト、ユーディトってそればっかり。わたしはあなたのお姉ちゃんとはそんなに親しくなかった。あなたが望んでいるようなことは何も知らない」
「この施設は不自然な箇所がある。まず一つ、突然人が消えたり、増えたりする」
彼女は口を結んでいたが、ラルフは無視して続ける。
「二つ、出入りが禁止されている。三つ、マーテル以外の大人の姿がない。四つ、屋敷の全体図を子供らは教えてもらっていない。出入り口がどこにあるのか誰も知らないんだ」
おかしな点は挙げたほかにもある。列挙しようとしたところで、彼女は頸を振って止めた。
「判るから、もういい。で、なんでわたしに訊こうと思ったの?」
「ユーディトが信頼していたから」
「………………それだけ?」
「ユーディトは同じ魔術師にしか心を開かない」
少女がわずかに狼狽するのを、ラルフは逸る心臓を抑えて観察していた。
ユーディトは魔術師だったが、才能の有無で人を贔屓するような愚者ではなかった。ラルフが語ったのは、少女の口から真実を引き出すための嘘である。
ラルフは姉の部屋で見た魔術師の教本を覚えていた。マーテルという呼称が、魔術詠唱用の言語・materから来ているとすれば、この大がかりな舞台装置の仕掛けに見当は付く。そしてその仕掛けに気付く人物も自ずと限られてくる。
少女が魔術師だというのは、身に纏う雰囲気がユーディトと似ているというだけの、曖昧な推測だった。
「……見えてるんだろ? ここが本当はどんな場所で、どんなことが行われているのか。教えてくれ。知りたいんだ。ユーディトは俺の唯一の家族だったんだ」
逡巡するような間を置いて、少女はぽつりと肯定した。
「うん、そう、そこまで判ってるならもう……」
「教えてくれるのか?」
「後悔するかも」
「覚悟している」
今後の行動はこれから明かされる真実によって変えていく方針だが、不自然に安穏としている現状に未練がないというのは本当だった。ユーディトがいないのだから、こんな場所など壊れてしまってもいい。ユーディトがいないのに、留まる意味なんてない。
「あんたが泣いても、死にたくなっても、わたしは謝らないから」
少女は無表情に、自身を抱きしめた。その手は戦慄いていた。虚勢が剥がれるほどに恐怖しているのだ。もう一度、少女は繰り返した。
「謝らないから……、発言の責任はとってもらうから」
「ひとつだけ気になるんだが、もしかしてその秘密を知ったら消されるということは在り得るのか? ユーディトもそれでいなくなったのか?」
少女は唇の端をつり上げた。はじめて見た少女の笑みは、嘲りと悲哀が混じったものだった。
案内されたのは見知らぬ通路だった。認識できないように魔術を掛けているという扉を幾度か通り、たどり着いたのは巨大な空間だった。天上から照らす白光に、純白の壁と床。異様なのはそこに並んでいるのが、無数の棺だということだ。
棺には名前と番号が彫られていた。
「リコル・エインズ……いなくなった子供の名前?」
ラルフは周囲を見回した。眩いばかりの空間に並ぶのは、死者の寝床ばかりで生者の痕跡は見当たらない。
「体は全部集められているの。大事な検体だから」
「まるで実験しているかのような言い方だな」
「そう。なんだかよく解らないけど、なにかを埋め込んで、それがわたしたちにどんな影響を及ぼすか探っているの。いまこの棺に納められているのはたぶん失敗した検体、このままじゃ、わたしたちも……」
そのとき入ってきた扉の反対側に存在する入口が開いた。ラルフと少女は即座に棺の陰に身を潜める。
入ってきたのは喪服を着たマーテル数人と、形容しがたい醜悪な外見の化物だった。不定形の蚯蚓のような手足に、浮腫んで腫れた頭部。赤く光り輝く石は頭部のちょうど鼻があるあたりに埋め込まれ、血管に似た糸を張り巡らしていた。
マーテルは一つの棺の扉を開けると、化物に指示するように何事か囁いた。化物は従順に棺に寝転んだ。マーテルたちは棺の蓋を閉めて、戻って行った。それだけで終わりだった。
様子を窺っても戻ってくる気配はないので、ラルフは影から思い切って飛び出して、化物の入った棺桶に近づいた。棺桶からはなんの音もしない。棺桶には『ルーシャス・グレイ』と名前が彫られていた。いなくなった子供の名前である。
あまりにも非現実的な展開に思考が追い付かず、ラルフは沈黙した。背後から少女は頼りない足取りで近づいてくる気配があった。
「ねえ、ラルフ、どうするの?」
少女は立ち止まる。切迫したような声色だった。
「どうするって」
動揺しないラルフに、彼女は身振りを交えて重要性を説明しようとする。
「ラルフは何とも思わないの? これを見て、わたしたち、生贄の羊か研究用の鼠みたいに扱われているんだよ? わたしたちもあんな化物にされるんだよ!?」
「べつに……、この施設が変なのは予想がついていたし、どうでもいい」
「逃げたいとか、仇を討ちたいとかは……」
「ここまで大規模な魔術を展開できる人間に勝てるとは思えない」
「きっとそいつは魔結晶を大量に使っているだけで……そこまで人並外れているわけでは」
「だけど俺は魔術的な感性は持っていない。俺は十二で、体格もそれなりに大人に近づきつつあるけど何ができるわけでもない。マーテルからしたら、騙しやすい子供だ」
切って捨てるような応答を繰り返すと、ついに彼女は打ちひしがれた様子で床に座り込んだ。ずっとそうするのをこらえていたのだろう、彼女は震えて俯き嗚咽に肩を震わせている。ユーディトと同じ魔術師だというのに、大きな差があった。ラルフの目は自然と冷たいものへ変わる。
「わたし、ずっと一人で背負っているのが辛かった……。だからユーディトに打ち明けた。ユーディトはラルフに危害が及ぶなら対処を考えるけど暫く様子をみるといって……そのまま……わたしを引っ張ってはくれなかった。わたしに目的を与えてはくれなかった。だれも……わたしに指示を……」
「ユーディトの死の原因を、あんたが招いたことだというのなら俺にも考えがある」
怯えて涙をこぼす少女には、なんの同情も抱けなかった。
硬質的な檻の冷たさと若い女の怒鳴り声に支配された生活が脳裏に蘇る。狂気に満ちた閉塞から、ユーディトはラルフを救ってくれた。すべてを灰にして、ラルフに手をさしのべてくれた。魔術師でもないのに、なんの価値もないのに、無害だからという理由だけで隣を歩くことを許してくれた。
――ユーディトだけが傍にいてくれればいいのに、どうして余計な邪魔が入るのだろうか。マーテルに唯々諾々と従ってきた意味も、輪を壊さないように気を遣ってきた意味もすべては失われた。
「これじゃあ、おとなしくしていた意味がないんだ」
「……え?」
少女の愕然と見開かれた両目から、涙が一つ二つ零れ落ちた。
「復讐をしよう。殺すんだ。あいつらの一番大事にしているものを、俺たちで」
緑の両目が信じられないものを見たと言いたげにラルフを凝視する。
ラルフは彼女の動揺に構わなかった。どの道、黙っていても死ぬのは決定していて、この少女はそれを避けたいと願っている。ならば選ぶべき道は――少女に選ばせるべき道は一つだ。ラルフはただ誘導してやればいい。ユーディトがラルフにそうしたように。
「あんた、罪を償いたくはないか?」
「え?」
戸惑うアメリィの顎を掴んで、無理に上を向かせる。彼女は瞠目し、身体を震わせた。間近で見れば緑の目はかすかに黄色がかっていて見る角度によって色が変わることが判る。綺麗な目蓋に口付けた。
「さっき誰も指示してくれないって言ってたよな。俺がお前の手をひいてやるよ。だからさ、俺と一緒に外へ出よう。――アメリィ」
水底から引き揚げられたように、一気に意識が覚醒する。同時に記憶の奥底に眠っていた気色の悪い粘着質な感情も蘇り、胃液が込み上げてくる。手で口を抑え、嘔吐きをこらえて、もう片方の手を暗闇の中へ差し出す。伸ばした指先に触れたのは冷たい壁の感触だった。汚泥から足を引き抜き、壁伝いに歩きはじめる。
唐突に足先に障害物がひっかかり、ラルフは転んだ。障害物の正体を確かめて、再度立ち上がる。
頭部から流血している。茹ったように頭が熱く、視界は霞がかっているにも関わらず色彩豊か。空気が自分を中心に渦を巻いている気すらする。身体を包む倦怠感と舌先に残る妙な苦味と口内の渇きから、毒を飲ませられたときの症状を思い出した。
大麻か、それに準じる毒か。嘆かわしいことだが大麻は迷宮内部に群生しており、地上での薬物の横行は珍しくない。誰かの悪戯で迷宮に植えられた大麻は魔力という肥料を得て、より即効的な毒草へと進化しつつある。害意ある者がそれを利用しようとするのは想像に難くない。
ラルフがそれを大量に盛られて死ななかったのは、ただの幸運だろう。現にラルフが寝かされていたのは、犯人にとっての死体置き場である。ラルフが蹴躓いたのは死体だった。体格からして、おそらくはヴェルマ。いまさら悔やんでも仕方のないことだが、ラルフは三人から離れるべきではなかった。
悔恨が足首を捕まえそうになったが、歩き出す。仲間が死に、ラルフだけが生存しているなら、やるべきことは決まっていた。
犯人がラルフを捨てたのはこうして置くだけで、ラルフが死亡すると確信していたからだ。では犯人はどこへ行ったのか。これも容易に想像はつく――、もちろん残りの仕留め損ねた人間を殺しに行ったのだ。
「話して……みようと思っていたんだがな」
呟いても空虚な響きが残るだけで、叫びだしたいくらいの怒りはいっそう増した気がした。絶え間ない痛みと、裏切られた屈辱が、報復を望んでいる。いままでは自覚することすらできなかった凶暴な感情が、記憶という燃料を得て燃えている。殺意が存在を声高らかに主張している。
ふらつく身体を壁に押し付けて、太刀を確認する。当然のことだが、引き抜かれていた。短剣も存在しない。いまのラルフは完全な丸腰だ。暗闇を仰ぎ、嘆息する。
均衡は保てなかった。片方が爆走しはじめた。ラルフは止められなかった。それなら殺すしかない。血の味を覚えた犬は無関係な人間をも襲い始める。早く捕捉して潰さなければ、エマとの約束を破ることになる。
ここがどこだか判らないが、迷宮の通路のように見えた。
「ごめんな、ヴェルマ……。やはり俺はあんたに隊長なんて呼ばれる資格はなかったんだ。フロンやみんなともっと話してみたいと、ようやく思えたころだったのにな……」
遺体に背を向け、ラルフは覚束ない足取りで歩き出した。
かつて仲間と呼んだ少女を殺す躊躇いは、胸中のどこを探しても見つからなかった。
ラルフは痺れた四肢を無理矢理に動かして回廊を歩き、彼女を探していた。
暗闇に包まれた通路は迷路のようでいて、そこに殺人犯が隠れていると想像すると、興奮で血潮が滾ってくる。人間を殺すのは初めてではない。親しい人間を殺すのも経験済みだ。武器などなくても手間を惜しまなければ絞殺できる。
額の傷はすでに革紐と麻布で簡易的な止血を施した。妙な高揚感のおかげで痛覚が麻痺している。左右どちらの通路から彼女が現れるか判らない。見つかれば、どんな攻撃をされるかも判らない。恐怖と快楽が同時に存在する、二度とは味わえない遊戯だった。
前方にふと、灯りが揺らめいた。ラルフは立ち止まり、壁によりかかりながら頬についていた泥を拭う。話声はしない。足音もなければ、なにかを引き摺る音もしない。静かだ。
息を潜め、魔術師がやってくるのを待つ。
徐々に人の気配が近づいてきた。足音は消されているものの、かすかな息遣いと衣擦れの音が拾える。魔術師の道着を被った彼女は幽霊のように生気のない仕草で、通路をゆっくりと歩いている。ラルフは彼女が通路を通り抜けるまで待った。
影が微かに確認できる程度に光源が小さくなってから、ラルフは彼女を追いかけ始めた。高鳴る心臓を抑えて、呼吸を静めつつ、敏捷に。彼女が角に消えたところで、ラルフは一度足を止めて様子を窺った。戻ってくる様子はないので、静かに角から身を乗り出しす。
その瞬間。
「わたしを蝕むもの。顕現しろ――『楔(amor)』」
封鎖された空間ではありえないはずの、突風が髪を凪いだ。
ラルフは直感に従って身を引いた。飛来した漆黒の杭が幾本にも床や壁に突き刺さり、数秒後に霧散する。残った破壊の痕跡をラルフは眺めて、静かに話しかけた。
「感情を対価にして、絶大な効果を引き出す魔術詠唱。長くは続かないぞ」
「それはどうでしょう、ラルフさん。わたしはずっと感情を対価に魔術行使していました」
アメリィが微笑した気配があった。光球が近づいてくる。ラルフは視線を逸らさずに、一歩二歩と後退った。曲がりくねる回廊は長くない。やがて角にはアメリィが姿を現し、ラルフは回廊の中間点に落ち着いた。二人は対峙し、睨みあう。
「図太いですね、ラルフさん。機杖で何度も頭を打った上に、致死毒を飲ませたのに生きているなんて」
「アメリィ、あれは致死毒じゃない。たしかに多量摂取で死ぬこともあり得るだろうが、たぶん質の悪いものを高値で売りつけようという詐欺師の手口だ」
「…………本当に、運のいい人」
「そうだな、それとも悪運かな。なんにせよ、本当に俺をぶっ殺したいなら意識を失っている間に頸椎を折るべきだったな」
「嫌われている人間ほど死なないと言いますからね。でも頸椎を折るなんて、さすがに慕っていた人間にそんなことはできませんよ。死体は綺麗なままがいい。……フロレンツさんを見てそう思ったんです」
アメリィは吐き気をこらえるかのように、口元を手で抑えた。嘘のように軽薄な言動だったが、本人は本気で言っているらしかった。
胃がむかついてきたが、どうにか堪え、会話を続けた。
「さて、同郷のよしみだ。動機を聞きたい。それと俺の太刀はどこにある?」
「同郷……。ラルフさんは思い出したんですか? ここでのことを?」
「質問を質問で返さないでくれ。会話にならないだろ?」
ラルフは笑ってみたが、アメリィは仮面のような微笑を崩さなかった。
彼女はどこか壊れてしまったようだ。口元は緩んでいるにも関わらず、身体の筋肉は強張っており、目には異様な光を帯びている。ヴァイスより鮮明で決定的な、狂気がありありと感じ取れる。彼女は殺意を解放する時機を冷静に見定めようとしている。
返答に失敗すれば彼女は躊躇わず殺しにくると確信めいた予感があったが、構わない。ラルフがこうしているのは、エマの逃走のための時間を稼ぐのが目的だ。エマがヴァイスと合流できれば、生存は確定する。間違ってこの場に来た場合は、ラルフが全力で盾になる。その覚悟はあった。
「俺の記憶の欠如は最初から気が付いていたんだな?」
とにかくアメリィの気を惹かなければならない。幸いにも彼女はラルフと会話したがっている。
「あなたがわたしに施した仕打ちを忘れているのはすぐに気が付きました。わたしは最初、またあなたが従属を願っているのかと思って、怯えながら近づいたので……」
「……じゃあ、俺がアメリィにしたことを綺麗さっぱり忘れていたから、憎たらしくて?」
「ええ、それも一つの動機です。なぜあなただけが悪夢を忘れているのですか? わたしを一番辛い目に遭わせた人間が、なぜ? ……あなたはわたしになにをしたのか覚えていますか? わたしの期待をどう裏切ったか、理解していますか?」
ラルフがアメリィに施した仕打ち。
あの銀髪の少女の姿をした悪魔に、ラルフが施されたこと。
その二つが唐突に脳裏に蘇り、ラルフは視界が歪むのを錯覚するほど動揺した。二つの事柄は無関係ではないが、ラルフがアメリィを傷付けた言い訳にはならない。アメリィにしたことは、紛れもなくラルフが背負うべき罪だ。それも惨たらしく殺されても文句が言えないような罪。そんな罪の存在をいままで自分は忘却していた――?
悪寒が背筋を這い上った。
「………………ああ、いま、思い出した」
それから納得する。アメリィがなにをしたいのか、確かに理解した。
呼吸が苦しい。鈍重なものが肩に圧し掛かっている。その正体は悔恨か、罪悪感か、別の何かなのかは判らない。
「最初はわたしもあなたのことを許そうと思ったんです」
その言葉は他人事のように聞こえた。
「あなたはわたしに恐怖を植え付けて、この施設のなかにいた子供らの一掃を命じました。それから弁舌を尽くし、魔術師の子をどこかからか招き入れ、表に出ました。わたしも一緒に」
そこまで覚えていない。思い出していない。否、この短い間にラルフは理解していた。
ラルフが無意識に過去の記憶を拒絶しているのだ。だからこそ都合よくアメリィとの出会いを想い出し、その他の自分の所業を知らないままに過ごしていた。ヴェルマとの対話で得た安らぎは中途半端な覚悟を裏打ちしていて、いまやラルフを責めたてている。
立っているのも辛くなって、ラルフは壁に手をついた。そのまま寄りかかる。意識が朦朧として来る。いや――だめだ、逃げてはいけない。理性が限界を迎えそうな瀬戸際で、ラルフは持ち直し、アメリィを見つめた。
「表に出た後、あなたは酷いことをしました……。魔術師の子はそのまえに離反して。わたしは隙を見計らって逃げました。……覚えていますか?」
「いや……アリサさんに助けられるまで、俺は自分がなにをしていたか知らない」
「そうでしょうね。ラルフさんはそうです。悪運の強い人……ですから、小隊に加わったあと何度かあなたのことを殺そうと試みましたが無理でした。道徳を身につけたあなたを見て、わたしはわたしの殺意に挫けました」
アメリィはローブの内に隠していた、杖を取り出した。先端には鈍器としても活用できるような牙状の錘がある。彼女はそれを軽快に振った。
「ラルフさん、笑ってくれていいですよ。わたし、あなたのこと好きなんです。まだ好きなんです。いまも、あなたを見て自分が間違っているんじゃないかって自問自答しています。一生懸命にルッツさんに尽くす姿を見て、あなたも本当は変われるんじゃないかって。でも夢のなかのわたしはいつも叫んでいるんです。ラルフさんに向かって、やめて、助けてって。それなのに、あなたは無表情でわたしを」
語尾が詰まったが、一拍置いて何事もなかったようにアメリィは続けた。
「でもそんな悪夢に、わたし我慢できなくなりました。精神誘導魔術は同じ魔術師には効き目が薄い。あの魔術師があなたと会話しているの、聞いちゃったんです。あなたがどれだけその人を好いているか、知ってしまった。あなたはわたしを置いて、その人と結末に辿り着こうとしている。看過できないほど、屈折しきってます。あなたが幸福になってしまったら、わたしだけが不幸じゃないですか。そんなの嫌です、ありえません。だから、一緒に堕ちましょう?」
手先は汗ばんだ感触があるのみで、ほとんど痺れて感覚がない。アメリィの告白はまったく笑えなかった。死角から全力の不意打ちをくらったみたいだった。思考すらも彼方へと吹き飛んだ。いますぐこの場で吐きたい。だがそんな隙をみせれば襲われる。
「わたし、これからラルフさんが教えてくれたように、あなたの大事なものを壊します。そしたら天秤は元通りになって、これからはわたしのことだけを考えてくれますよね?」
ラルフはアメリィを茫然と見た。
アメリィは復讐者に相応しくもない、優しげな微笑を浮かべていた。
「見てください、これ。あなたを殺すために特別に作って、練習しました」
ラルフが杖だと思っていたそれをアメリィは胸の前まで掲げて見せる。なるほど、持ち方を変えればそれは投げ矢投射機だった。ラルフは退くこともできず、かといって歩を進めることもできず無言で彼女を見つめた。昔ながらの単純な武器だと侮ってはいけない。投射機は簡素な形状でありながら貫通能力は高く、板を突き通す程度は造作もない。操作にはある程度の熟練が要求されるのが欠点と言えなくもないが、投射に長けた人間が叩きだした投げ矢の最高飛距離は二百メートルを超えている。つまりアメリィに投げさせたが最後、ラルフは矢に貫かれて死ぬ。
矢を番える彼女の表情には、殺意も恍惚もない。震えながら、懸命に、殺そうとしている。彼女はもう決意している。ならば、ラルフがとるべき道は一つだろう。食いしばった歯が痛む。彼女の出方を待ってやるほど、優しくはなれなかった。
アメリィやヴェルマや、エマ――それからヴァイス。仲間の命に優先順位などなかったのに、どうしようもなくいまラルフは取捨選択を迫られている。開いた口の隙間から唸り声にも似た叫びが漏れた。
「お前の理論は身勝手だ。俺を殺そうとするだけなら許したし、たぶん受け入れた。でも少なくともそれは……ヴェルマやエマを殺していい理由にはなるはずないだろう」
彼女に向けて突進する。彼女は驚いた顔をして、ラルフの気勢に怖気づいたのか足を縺れさせて転んだ。ラルフはすかさず彼女に覆いかぶさり、投げ矢を遠くに放り投げた。
アメリィの顔から微笑が消える。抵抗しようと無暗に殴り蹴ってくる四肢を、体重をかけて抑えつけラルフは言い募った。
「俺は怖かったよ。薄々と察してたんだよ。失くした記憶が良くないものだったって! でもな、ヴェルマが言ったんだ。受け入れろって。なにがあっても今の自分を失うなって。俺もそうするのが正解だと思う。でもお前は……ヴェルマを、大事にすべき人を、殺した。殺したんだよ!」
拳のなかから抜けた細い手が、ラルフの頬を殴った。もう一度、ラルフは掴み直す。ラルフもアメリィも肩で息をしていた。
「余計なことを言わないでください! わたしが何も知らないふりをしていれば、なにも手をくださなければ、仲間は生きてた? わたしは幸せになれました? そんなことない! わたしの悪夢はあなたが死ぬまで醒めない! フロレンツさんはあなたのせいで死んだ! 遅かれ早かれ、あなたはみんなを殺してたッ!」
かつてないアメリィの絶叫が回廊に反響する。
「少なくとも記憶を失っている間、俺が願っていた仲間の幸福は護られていたはずだ。俺は善人でいられた」
「嘘だ! いつだって邪魔する人間を殺したくて仕方ないくせに! わたし、知ってます。ラルフさんがみんなの前で抑えてる衝動の正体を! 自分の力に酔っていつもそれを振るいたがってる……。その犠牲になったのはわたしだったんですから」
抑えつけた彼女の太腿が、ラルフの体の下と床の間とを幾度も跳ねる。
「仲間の為とかもっともらしい言い訳をして、わたしを殺すんですか! 馬鹿じゃないんですか! 死んじゃったほうがいいです、偽善者、俗物、嘘吐き! 地獄に堕ちろ!」
「俺は言い訳しない。殺したいから、殺すだけだ……」
「じゃあ、なんで! やっぱりラルフさんは悪魔――」
これ以上聞いていたくなくて、唇を塞いだ。間髪入れずに噛まれた。
血の混じった唾を吐きだし、アメリィは嗤笑する。ラルフの切れた唇から滴る血が、アメリィの白い首筋に落ちていく。
「……もし俺がアメリィのことを好きだと言ったらどうするんだ?」
「真偽がどうあれ、わたしはあなたを殺したいほど憎んでいます。変わりませんよ、変わらない……そんなの、遅いんですよ、なにもかも!」
叫んだ勢いで目の淵に留まっていた涙が、目尻から一筋こぼれた。
「俺だけじゃなくてエマやヴェルマもお前を好いていたはずなんだがな」
「……みんなを殺したのは……わたしじゃ……。でもわたしも死にます。あなたを殺したら」
アメリィの表情が歪んだ。目に涙を滲ませ、それでも気丈にラルフを睨んだ。狂気は未だに目の奥で爛々と輝いていたが、身体は疲労してきたのか抵抗する力が弱くなっている。ラルフとしても、いつまでも殺意を向けてくる相手を抑えているのは精神的な疲労が大きい。潮時だ。
「そうか……、なら俺も――。喜んでいいぞ、アメリィ、お前の予言は当たる。俺は罪を償う」
「一緒に地獄に堕ちてくれるんですか」
「ああ、そうだ。全部終わったら……。だから待っていてくれ」
「……はい、待っています。あなたが悶え苦しみながら醜く足掻いて死ぬ、そのときを」
狂気の沙汰としか思えないが、心の底から嬉しそうにアメリィは笑った。彼女の気が緩んだ隙に、血が垂れた細い首をラルフは絞めた。