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四章 霊剣

四章 霊剣


 またあの夢だ。

 四角形の広い部屋に棺が整列している。夢の中のラルフがユーディト、と舌ったらずに呟きながら歩いていた。誰を探しているのかは思い出せないけれど、懸命に彼女を探している。そして見つけた彼女の棺を開けた。

 棺の奥から噎せ返りそうな血の臭いが噴出した。色が着いたようにねっとりとした空気に息を止めて背を翻す。棺桶を開けてしまった。化物を解放してしまった。


 いまや静寂だった空間には死者の怨嗟の呻きが満ちていた。棺桶から一斉に起きだした死者たちは、室内で唯一の生者であるラルフへと手を伸ばす。十代前半の子供の姿が多い。見覚えのある子も、ない子もいる。共通しているのは、瞳が金色の――化物のそれへと変貌していることだった。


 ラルフが声から必死に逃れようと廊下へ飛び出した矢先、小さな白髪頭の少女と衝突した。少女はラルフの背後の空間を見て、なにも言わずとも状況を理解し、ラルフの手をとり駆けだした。

 彼女のことはなにも知らない。けれど温かな指先は、ラルフの手を離さなかった。ラルフも決して離さないようにぎゅっとその手を握りこんで、そして。



 場面は切り替わっていた。棺のなかの刺殺された少女に向かって、ラルフはユーディトと呼びかけていた。何度も、名前を呼んだ。彼女が起き上がることは永遠にないと判っていた。なぜならユーディトを刺したのは他ならない――

 薄桃色の髪の子供が恐怖に凍りついてラルフを見つめていた。

 重い短剣の柄が、手の中からするりと抜けおちた。




 夢の余韻に動機を激しくさせながら、ラルフは飛び起きた。置いていた太刀を握り、すばやく周囲に目を走らせる。ラルフが寝ていたのは、見覚えのある天幕である。昨夜に第二層地下へと帰還して早々にヴァイスは調薬に取り掛かり、ラルフは武器の手入れをしてから眠りについたのだった。状況を思い出し、太刀をひとまず置いた。まだ鼓動は耳元で鳴っている。荒い呼吸が収まるのを待ちながら、ラルフはいま見たばかりの夢を反芻した。


 夢の内容が過去の記憶の断片であることは、随分前から悟っていた。しかしいまほど鮮明で具体的なものは珍しい。というより、はじめての経験である。いつもは棺が並ぶ空間で、誰かに手を掴まれて、意味の分からない言葉を囁かれるだけなのに。それに加えて。


「ユーディト」


 口で呟いてみる。だがなにか突然に世界が色付くだとか、眠っていた記憶が浮上してくるということはなく、自らの掠れた声が寂しく宙に溶けただけだった。

 なぜだか途方もなく愚かなことをした気分になって、ラルフはかぶりを振った。いつの間にやら、隣に寝ていたヴァイスを揺さぶり起こす。


「ヴァイス、俺の体内時計が朝を告げている。起きろ」


 桃色の髪の毛が、敷布の上に散らばっている。肩までを敷布に包み眠りこける姿は、なんの警戒心も抱いていないようにみえた。一瞬だけ、居心地の悪さがラルフを襲った。だがヴァイスが揺さぶりを気にも留めず敷布を深くかぶり直したことで、罪悪感めいたものは吹っ飛んだ。


「……いま起きるから、揺さぶらないで」

「起きる気ないだろ。っていうか、なぜ隣で寝ているんだ。離れろ!」

「寝ている間にラルフがどこかへ行ってしまわないか心配だったから」

「心配せずとも俺は約束を反故にするつもりはない。だから寝るなって!」

「杞憂でよかったわ。安心して眠れる」


 この問答はラルフが敷布を剥ぎ取るまで繰り返された。



 昨夜のうちに調薬を終えていたらしい。あとは投与するのみだと説明を聞きながら、ヴァイスの先導で地下深くへと続く回廊を歩いていた。表面を磨かれた石壁はつるりとしていて、とても大昔に建造されたものだとは思えない。


「こういう迷宮の地下空間って、ほかにもあるのか?」

「奇数の階層に一つずつ存在しているみたい。最終階層が五だからかしらね」


 広い闇が覆う空間に、棺の群れを幻視する。


「奇数階にあるなら、施設が三つあるってことだよな。もしかして構造は全部同じか?」

「ええ――そのはずよ。第五層にあるのは調査したわけじゃないけど、記憶通りなら」


 記憶通りなら。

 やはり無関係ではないのだ。ラルフとヴァイスが出会ったのも、アリサがラルフを助けたのもすべて因縁がある。過去の記憶の欠落がその認識を阻んでいたが――ヴァイスと出会ってから、眠っていた感覚も蘇りつつある。ラルフは装備した小剣を確かめ、数度握ってみる。師はどうやっても殺せる気はしないが、目前の魔術師はいま正に油断していた。


「ヴァイスの復讐の相手も、そこにいるのか?」

「ん……まあ、そうね。その可能性は高いと思っているわ」


 何度も頭のなかで小剣を振るってみる。彼女はすっかり油断しきっているのか、殺意に勘付かない。無理もないだろう。魔術師というのは元々、後方支援の役割だ。アメリィが安全圏に退避して支援しているのを考えれば、ヴァイスの魔術師としての能力がいかに桁外れか判るというものだが、期待のしすぎはよくない。


「ついて行っても……いいんだよな?」

「なにその遠慮がちな言い方。手伝ってくれるんでしょ?」


 ヴァイスが振り向いた。ラルフは小剣からゆっくりと手を離す。

 彼女もさすがに不審だと感じたのか、眉間に皺が寄った。


「……わたし、至近距離で攻撃されても反撃するまでの間はとれるのよ。それくらいの細工はしているの」


 魔術で、という意味だろう。彼女の体は締まっているが、剣士らしい戦闘に耐えうるほどの筋肉はない。柔らかさは確認済みだ。


「なんで、いまそんなことを?」


 口調が剣呑なものへとならぬように、気を遣って言った。


「……自分じゃ判んない? ラルフ、すごく怖い目をしている」


 空中へぽつんと浮かんだ灯りの下、ヴァイスは会ったときと同じように、得体の知れない微笑を浮かべていた。おそらくラルフも同様の曖昧な顔をしている。二人は少しの間、お互いを探るように、そうしていた。野犬が同じ野犬と睨みあうような、緊張感に充ちそれでいて無意味な時間が流れる。

 約束を反故にするつもりがないと言ったのは嘘ではない。ただアリサが大事なだけだ。居場所をくれたアリサを護りたいと思うのは自然な感情のはずだ――。自分に言い聞かせるように、ラルフは胸中で呟いた。

 ヴァイスは目を細めてラルフを観察していたが、そのうち飽きて肩を竦めて歩き出した。


「さあ、お姫様たちが起きるんだから、しっかり彼女らを宥めてよね。隊長さん」


 その背をラルフは悠長な足取りで追いかけながら、感謝を述べた。


「……ヴァイス、遅くなったがありがとう。俺を助けてくれたことも含め、あなたには恩がある。仲間がどう応えるかは約束できないが、俺はあなたの力になると誓う」


 ヴァイスはひらひらと手を振ったのみで、返答はしなかった。



「おはよう、ございます? ……ん。ここは?」


 治癒術特有の淡い燐光が舞い散る室内で、最初に体を起こしたのはアメリィだった。彼女は周囲を見回してしばし茫洋とした顔をしていたが、ラルフの隣に佇むヴァイスを認め顔色を変える。


「あ、あなたは……!」


 アメリィは狼狽した様子で寝台から飛び降りてヴァイスから距離をとる。ヴァイスはそんなアメリィに降参するときのように首を振ると、ラルフに視線で訴えた。宙に浮かぶ光球は、警戒を促すように点滅する。


「落ち着いて聞いてくれ……」


 ヴェルマとエマが身を起こすのを待ってから、ラルフは説明をはじめた。三人は迷宮の花の毒にやられていたこと。ラルフたちが追っている誘拐犯と、ヴァイスの目的の人物は同じであること。それから解毒薬を精製してもらう代わりに、助力すると申し出たことなども伝えた。想像通り、三人の反応は芳しいものではなかった。


「ここから先は……エマには辛いと思う。嫌なら留まってもいいし、帰ってもいい」


 アメリィは部屋の奥で警戒を解かず、エマとヴェルマはそれぞれ思案するような疑うような神妙な顔つきだ。ふいにエマが挙手をする。


「はいはい、質問。そこのヴァイスさん、わたしは名前すら聞いたことはないんだけど、ほんとうに信用できるの? 命を預けられるかの確認のためね」

「俺は二日間ヴァイスと共に二階層を探索したが信用できると思う。大規模な魔術を操れる上に、治癒術も習得している。性悪だが、悪意があって危害を加えてくる性質ではない」

「性悪って結構ひどいこと言うのね」


 ヴァイスが小声で非難したが、誰もが黙殺した――否、エマだけがかすかに笑った。


「ヴァイスさん本人に質問ね。私はエマ。魔結晶に興味があるだけの大学生よ。中継地点で待機しているだけになるかもしれないけれど、付いて行ってもいい?」


 エマが寝台から降りて、ヴァイスに近寄った。どうやらエマは不信感よりも知的好奇心に従うことにしたらしい。瞳は巨大な魔結晶を目にしたときと同じく、きらきらと輝いていた。


「わたしがいいわよっていうのもおかしな話だわ。わたしのほうこそいいかしら?」

「ええ、もちろん。大規模魔術ってすごいわ。はやく見たい。ね、なにが得意なの?」


 二人は握手を交わし、穏やかな雰囲気で歓談をはじめる。残るはヴェルマとアメリィだ。ラルフはエマとヴァイスのほうへと向き直り、エマのために施設を案内してやってくれないかと頼んだ。快く了承し、二人は退室する。


「さて、二人とも」


 喧騒が遠いたのを見計らって、ラルフはアメリィを呼び戻した。渋々といった様子でラルフの隣にやってきたアメリィの顔色は蒼白を通り越して土気色になっていた。ヴェルマはそんなアメリィに心配そうに一瞥をくれたが、アメリィはそれに反応すらしない。ひたすらにヴァイス、あるいは予測していない状況に怯えている。

 どう言葉をかけたものか悩んだが、誤魔化さずに訊ねることにした。


「ヴェルマ、アメリィ、俺はヴァイスを信頼しているが、この先の状況がどう転ぶかまでは判断できない。二人はどうする?」

「勝つか、負けるか、死ぬか、生きるか……判らない?」


 アメリィが力ない様子でラルフを見上げた。ラルフは首肯する。


「単純に言えばそうだな。それ以外にも、誘拐された子供たちの生死すら判っていない。手の出しようがない惨状を目にすることになる可能性もある」


 おそらくは生きている。だが、絶対とは言えない。

 束の間、室内を静寂が覆った。ラルフが答えを待つ中で、アメリィは身じろぎすると、胸元から紙を取り出した。薄紙に包まれていたのは、一房の金髪だった。


「……これ」

「フロンの髪か?」


 アメリィはかすかに頷いた。そしてもう一度薄紙で包み直すと、ラルフに差し出す。


「付いて行くに決まっています。もう二度と、皆と離ればなれになりたくないんです」


 震えているが、強い意志の籠もった声色である。自身の発言を忘れてはいないのだろう。ラルフは薄紙を丁重に受け取り、懐に仕舞いこんだ。


「……ヴェルマはどうする?」

「問われるまでもなく。かの誘拐犯の血が仲間の死を讃える献杯になるのなら」


 寡黙な彼は重々しく頷いた。



 第五階層に赴くにあたり、皆の意志を一つにまとめることは成功した。あとは物資の問題が残るのみである。ヴァイスと協議した結果、速度に重点を置き余計な休息はとらないことに決まった。移動は各階層に棲む蟲共を使い、昼夜に関わらず駆け抜ける算段をたてた。ヴァイスの計画では約二日で、施設に辿り着くとのことだ。


 早朝に出発することに決まり、施設内に残っていた風呂桶に、魔術で用意した湯を溜めて最後の安息を満喫することにした。

 ラルフがこれまで寝ていた天幕は、女性陣が使うことになった。天幕から追い出されたラルフとヴェルマは、必然的に三人が横臥していた寝台のある部屋で休むことになる。魔結晶を点灯させる道具は施設に置き去りにされていたものだという。暖かな色の光は、暗闇に温度を与えていた。


「ラルフ」


 微かな呼び声に目を覚ます。施設内部は襲撃の心配がないとはいえ、迷宮に入った状態で深く寝付くことを本能が拒否していた。アリサの教えが身に染み付いた結果である。


「なんだ」


 瞑目したまま、ラルフは問いかけた。仄かな灯りに照らし出された陰が小刻みに揺れた。ヴェルマは訥々と、喋りはじめる。


「フロンが死んだとき」

「ああ」

「なにもできなかった」

「俺がそう指示した。だからフロンの死になにか責任を感じているなら間違いだ」


 骨樹は広範囲攻撃を得意とする、巨大な魔物だ。被害が広がるのを恐れて加勢しないように指示した。その指示が正しかったかどうかはそれぞれの胸に別々の答えがあるのだろうが、彼らがどう思おうとラルフに責任があることは間違いない。


「……なあ、ラルフ」

「なんだ」

「もっと頼ってほしいと思うのは傲慢なのだろうか」


 感情表現が苦手なヴェルマは迂遠な言葉を使わない。いつも彼は率直な言葉で、ラルフの死角を突いてくる。

 予想外の言葉だった。そして一番、言われたくなかった言葉だった。

 ラルフは薄目を開けた。敷布の皺を撫でながら思案して、心の裡を静かに吐露した。


「……俺が孤児だったという話はしたよな?」

「以前、聞いた」

「実は家だけじゃなくて、記憶もないんだ」


 沈黙のみがあった。彼が思慮を重ねているのを察して、言葉を続ける。


「それがちょっとだけ……戻りそうになっている。迷宮に入る前から兆候があった。正直に言うと、俺は怖い。自分が変わってしまうような気がして怖い。現にいまヴァイスを引き入れるなんて無茶を犯している。以前の俺なら絶対に渡らなかった危ない橋だ」


 もちろん、アメリィに泣きながら指摘されたことも影響している。記憶が戻ってきたことだけが原因ではない。アリサとの関係も、小隊との関係も、転換を迫られているのを感じていた。

 過去の記憶が戻って来たとしても、それがどんなに悲惨で突飛なものだったとしても、アリサに鍛え上げられた五年間が消えてなくなるわけではない。今は変わらない。変わらなければならないのは、ラルフのほうだ。

 声色にはださなかったつもりだが、彼は敏感にラルフの動揺を見抜いた。


「不変なものはこの世にはない。恐れても無駄だ」


 見抜いたうえで、力強く断言する。


「記憶が戻って人格が多少変わろうとも、ラルフはラルフだ」

「………………」

「ルッツから霊剣を受け継いだラルフはここに存在し続ける。小隊の中心に、あり続ける。そうだろう?」


 アリサの教えを身体から抜くのが不可能なように、ルッツの存在もまたラルフの現状を語るに必須の存在だ。彼は迷宮探索者の組合で途方に暮れているラルフを小隊に誘い、時には喧嘩し、時には大事なことを教えてくれた。深い恩義を感じている。ルッツがいなければラルフは己の身の振り方を決めるなんてことはなかっただろうし、小隊に名を連ねることもなかった。彼はラルフの孤独を埋めて、目的を与えてくれた。

 それを忘れるわけないだろう――ヴェルマはそう言いたげだった。


「ああ。そうだな。もちろん、俺はここにいるよ。変わらない」


 ラルフは肯定する、当然だ。過去の欠落していた記憶が蘇ったごときで、彼から教わった様々なことを忘れるわけではない。


「ラルフには仲間をもっと頼って、好きなことをしてほしい」


 普段の調子を取り戻したラルフに、ヴェルマは安堵したようだった。


「好きなこと?」

「ああ、ラルフ自身のしたいことだ。誰かの真似事ではなく」


 それだけで彼の言わんとすることを察した。


「ありがとう、ヴェルマ」


 ラルフは再び瞑目する。穏やかな気分だが、ルッツを思い出した記憶の隅に一抹の悔恨が引っかかっていた。懺悔にも似た悔恨は、謝罪するべき相手を見失ってからというもの、事あるごとに罪の意識を抱かせる。

 自らの嘘に茫洋と想いを巡らせているうちに、夜は明けようとしていた。



 明け方に出発し、陽が昇るころには第三階層を突破していた。甲殻蟲を利用した高速の移動、魔物と一戦も交えず、また余分な休憩もとらなかったためである。砂原を抜け、森林を抜け、西へ東へと跋扈する。砂原、草原、険しい山の道。蟲を操り移動するという、ヴァイス以外には真似することが不可能な芸当を目の当たりにしたアメリィとエマは、目を輝かせて必死に彼女から教えを乞おうとしていた。ヴァイスは苦笑いしつつ、やんわりと拒否する。


 ヴァイスが受けた訓練は相当に過酷なものだったと、その技術力の高さから推定できる。魔術師の才能は磨けば光るなんて生易しいものではなく、最初から大小も純度も決定しているのだという。例外は魔術を操る媒体に魔結晶を使ったときと、代償に己の記憶や激情を捧げたときだけだ。


 つまりヴァイスの魔術師としての才能は卓抜としていて凡人が楽々と追いつけはしない。徹底的に鍛えられたのは、彼女自身の執念も関係しているだろうことを考えれば――修練の内容を聞かせようともただの安っぽい努力自慢になってしまう。エマたちは好奇心で訊いているのだろうが関係ない。ヴァイスだってそのあたりのことは弁えていた。



 しばらく長閑な和やかに談笑を続けていた一行だが、昼を過ぎたころその長閑な時間は唐突に壊される。

 切迫した顔つきでヴァイスが指したのは、巨石が転がる草原地帯の先である。


「蠍百脚がいるわ」


 一キロ以上先に見えたのは他ならぬ、赤と紫の縞模様。近づいてみればそれが荷馬車を二台連結したような大きさの、鋭角的な殻と棘を持つ蟲だと判る。硬い殻と毒煙の攻撃が厄介な魔物であり、食べて美味ということもなければ素材採取にも向かない。よほど魔結晶に困窮していなければ戦わずして通り過ぎるの魔物だが、今日はそうはいかないようだった。


「襲われていますね、どうしますかラルフさん。わたしは助けたいです」


 蠍百脚に襲撃を受けているのは魔物ではなく明らかに武装した集団、探索者たちの小隊であった。一目で状況を理解したアメリィは先が二股に別れた杖を取り出し、ラルフに判断を仰ぐ。ラルフとヴァイスも頷き加勢を了承した。


「アメリィ、先制を頼む。ヴェルマもアレを出してくれ」


 巨躯の男は無言で盾の内側に括りつけられた円形の筒をいくつか取り出す。彼は慣れた動作で銀色の筒に銃把を取り付けて肩に乗せた。

 魔物誘導剤を弾丸とする専用の砲だ。使用法は至って原始的なもので、砲内部に記された火焔魔術刻印を活性化させ、火薬と魔結晶を混ぜたものを側面の穴から入れて用いる。砲は使いきりであるが判断を誤れば誰かが死ぬという状況で出し惜しみはしていられない。


 ヴェルマは無言で構えると、低い声で発射の合図をした。ラルフが了承すると、爆音とともに弾丸が発射される。果たして見事に弾丸は蠍百脚に着弾した。紫と赤の斑の胴体をくねらせ、蠍百脚はこちらを振り向く。硬質的な蟲の形相からは感情など読み取れないが、八つの複眼が真紅の炎を灯したのは激昂しているのが解る。


「どこで止まればいいかしら?」

「いや、止めなくていい。アメリィ、いけるよな?」

「ええ、もちろんです。わたし、練習したんですからね。みんなの役にたてるように」


 アメリィは懐から拳大の魔結晶を取り出した。ラルフとヴァイスは視線で合図し、アメリィの言葉を信頼することにした。蟲の速度を緩めないまま、五人を乗せた蟲は蠍百脚に突っ込んでいく。

 アメリィが緊張した面持ちで、腰をあげた。フードから零れた栗色の髪の毛が渇いた風に靡く。彼女が見据えた先にはこちらへと身体全体を動かそうとしている醜悪な蟲の姿があった。


「――『紫電(radius)』」


 魔結晶を媒体にしたことで詠唱は省略される。

 握った魔結晶からは紫の光が迸り、空気を焼く音がかすかに聞こえた。


「敵を、蠍百脚の殲滅を! 遺骸も残さず燃やし尽くせ! ――『紫電(radius)』!」


 目標を指定されたことで、紫の奔流は蠍百脚を目指して地を駆け抜けた。



 四階層の大階段が見えてきたころには、夕暮れになっていた。竜の巣をやり過ごし、五階層に降る前に食事を摂ろうということになった。長いこと座りっぱなしだった脚は浮腫んでいる。灯りを囲みながら、皆は気怠さを癒した。


「お礼に食材を貰ってしまうなんて。助かりますけど、あの方たちは大丈夫なのでしょうか」

「大丈夫だろう。もう引き上げるって言ってたし。厳しかったら食糧なんて渡さない」


 途中で救助した探索者たちから感謝の印として、野草と根菜、それに調味料の類を貰っていた。今日はアメリィが料理番である。持参してきた小鍋を、魔術の火にかけ麦と乾物が混ざった保存食を入れる。そこへ先に茹でていた根菜と酒を注ぐ。調味料を加え、あとは掻き混ぜるだけだ。


「……うん、なるほど、よく料理とかするの?」


 鍋を途中で味見したヴァイスは、鍋の中で掻き混ぜられている緑の液体を見て胡乱げな目つきになった。言いたいことは解るのだが、触れないでやってほしいと強く願う。


「はい、やっぱりラルフさんたちには美味しいものを食べてほしいですし!」

 アメリィはそんな空気を察することもなく、穏やかな笑みを浮かべていた。

「……そう。ちなみにこれは?」

「エマさんの故郷の料理を想像して作った、なんか辛いやつです! 調味料はちょっと奮発してみました」

「………………」


 アメリィの鼻歌を寒々しく響いた。



 食事の感想は非情に不味――、否、辛いという以外特になかった。一言も発さずヴェルマが悶え苦しんだとか、ラルフが一息に飲みこみ気道に詰まらせたとか、ヴァイスが盛大に噎せたとか、そんな事態はなかったのだ。……ないと言ったらないのである。


「もっとね、お出汁とか、灰汁とか、下ごしらえにも気を遣ってみるといいと思うな!」

「お出汁ですか。たしかにエマさんの国は出汁を使う習慣がありましたね。なるほど……今後の参考にしますね」


 エマは辛味に耐性があったようで、野草独特の生臭さも我慢し、平常通りに咀嚼していた。アメリィの食事が振舞われた当初は、大袈裟に反応を示していたエマだが、回数を重ねた現在は食事しながら会話を楽しむ余裕まででてきている。他の誰よりいちばん味覚に被害を受けているのは彼女なのかもしれない。ラルフは密かにエマの胃袋を心配する。


「ずっと訊きたかったんですけど、どうしてヴァイスさんは、誘拐犯を追っているんですか?」


 アメリィは匙で掬ったものを啄みながら、ヴァイスの様子を窺った。問われて顔を白くしたヴァイスは、水で辛味を嚥下してから話はじめる。


「食事中にする話でもないと思うけど……、隠し事はしないほうがいいわね。わたし、あいつに家族を殺されたの。……いろいろとややこしいことがあったけど。概要はそう」

「だからその復讐を?」

「あいつがなんの咎も受けずに安穏と暮らしていると思うと吐き気がするのも本当のことだけれど……。わたしは……」


 ヴァイスが椀を置く。彼女の指はか細く戦慄いていた。アメリィはそっとその手を抑えて、子供にするように彼女の顔を覗き込んだ。


「ヴァイスさんは勇気のあるひとなんですね。かけがえのない人のために頑張るなんて、言葉にしたら陳腐になっちゃいますけど、皆が本当に実行できることじゃないと思います。それにわたしもこの世でいちばん家族を愛していますから、その気持ち、少し判りますよ」

「…………」


 ヴァイスは口を開きかけて、閉じた。

 アメリィは薄く笑い、言葉を続ける。


「まあ、わたしも家族なんてもう……。家族の次に愛しているのはレベッカシリーズのお菓子です! ヴァイスさんはレベッカシリーズ知ってますか?」

「え、……ええ、名前くらいは」

「レベッカシリーズの季節限定はもう食べました? わたしあれの茶菜混じりの……」


 辛気臭くなりかけた空気を払拭しようと繰り出された怒涛の菓子の話に、ヴァイスは呆気にとられながらも一先ず彼女の口を噤ませるために頷いた。アメリィは身振り手振りで甘味がどれだけ人生に置いて重要かを語り、それはエマが止めるまで続いた。


「そんなに甘いの好きなのに、辛味も大丈夫なんだ。アメリィの味覚って不思議だよね」

「ええ、でも次はそうですね……。甘いのに挑戦しますね! 砂糖は値が張りますけど、奮発します!」


 エマが何気なく放った一言が、アメリィから驚愕の挑戦を引出したことに空気が凍った。


「アメリィ、向上心があるのは結構だが、甘いのはやめてくれ……」


 これ以上、凄まじいものには耐え切れそうもない。我慢できずにラルフが口を挟むと、アメリィは頸を傾げた。純粋な視線になぜかラルフは居心地の悪さを覚え、視線を泳がす。


「え、嫌ですか? じゃあどういうのが好みですか?」

「……や……ふ、ふつうの家庭料理かな。家庭料理食べたいな、アメリィの……」


 アメリィは笑顔で次は頑張りますと言ってくれた。

 曖昧な顔をしているラルフに、ヴァイスが近寄り小声で囁いた。


「なんでこんなときだけモテる男の解答なの?」

「いや、ルッツがこう答えていたなと思い出して……」

「ラルフってときどき最低だよね」




 夜半になり、ラルフは最初の見張り番を引き受けた。天幕を背に渓谷が覗ける淵に座り込んで、迷宮の紅い月を見上げる。一体どういう仕組みになっているのか、迷宮内部では陽が堕ちれば月も昇る。高等な魔術で神話上の世界の再現をしているらしいから、魔術の心得のない凡人が考えたところで正解は導けないのだろうが太陽に比べ月は綺麗である。


「ねえ、ラルフ、そこにいるわよね?」


 かすかな蟲の音しか聞こえない静寂に、唐突に小声が割り入った。予想の範囲内だ。ラルフが振り向けば、天幕から小柄な影が抜け出すところだった。なぜかワンピースのような、下肢を晒す恰好をしている。

「なんだ、その恰好」

 迷宮を舐めているとしか思えない。仄かに赤い月光に照らされたながらも、ぞっとするほど白い四肢。微塵も似てはいないのにアリサを連想させて、ラルフは目を背けざるを得なかった。彼女は覚束ない足取りで、ラルフの隣まで来ると座り込んだ。


「脚が痛いから。寝るときくらいいいでしょ。誰も見てないし」

「それは判らないだろう」

「大丈夫よ。精神誘導魔術で眠らせた」

「…………あのなあ」


 呆れたラルフに、ヴァイスは微笑してみせた。


「『真実を明かす前に裏切り者を裁かねばならない。裏切り者に告ぐ、汝の行為はすべて無意味だ。潔く投降せよ。さすれば我らの偉大で残虐な神も汝の罪を赦し、最大の罰は免れるだろう』」

「それは……エマから聞いたのか?」

「うん。聞いてすぐ判った。わたし宛の宣告だわ。わたしが迷宮内部にいることは、あっちにもお見通しってわけね」

「…………」


 沈黙が二人を覆った。ヴァイスの恐怖がゆっくりと伝播するように、ラルフもわずかな緊張を感じていた。

 得体の知れない誘拐犯と、古代の神の関係。犯行ばかりに着目してきたが、そもそも犯行動機はなんなのか。灰色のピースが多すぎる。

 ヴァイスとならば戦闘をするのに不安はないが、他の仲間たちは――


「ラルフたちって、ひとつの家族みたいに仲がいいね。うらやましい」


 ヴァイスは傍に落ちていた小石を無意味に渓谷へと投げ捨てた。堕ちる音は聞こえない。それきり彼女は発言せずに、ぼんやりと月を見ているようだった。


「……ヴァイス、俺は自分の記憶に確信をもてない。だから問うが、復讐の原因は俺も知っていることじゃないのか? 俺も一緒に……ヴァイスの復讐を背負うべきじゃないのか?」


 無言が息苦しかったわけではないのだが、つい思っていたことが口を突いてでた。ラルフとしては真剣な問いのつもりだった。しかしヴァイスは鼻を鳴らし、可笑しそうに冷笑しただけだった。


「ラルフは、誰かに答えを訊ねたら、素直に答えてもらえると思っているの? このご時世に甘っちょろいことを抜かすのねえ。さっすが、庇護者がいて、仲間がいて、わたしとは住む世界が違う」


 嗤笑が含まれた声色。かつてないほど冷淡な、突き放す言葉の数々。嘲笑に神経が逆撫でられそうになったが、一瞬で鎮静した。


「そうかもしれない」


 肯定を予想していなかったのか、ヴァイスは返答に窮した。


「俺は五年前にアリサさんに拾われた。それから彼女に保護してもらいながら、迷宮に潜るための戦闘術を身につけた。彼女はすばらしい女性だ」

「なにママが恋しいの? そんな話に興味な――」


 彼女の言葉を皆まで聞く余裕はなかった。


「だがアリサさんの目は、黄金色をしている」


 ラルフの告発に、ヴァイスが戦慄したのが、予想が外れていないことを示す何よりの証拠だった。ラルフは彼女の言葉を待った。しかしいくら待っても彼女は、なにかを告げることはなかった。力ない足取りで立ち上がるとラルフから距離をとり、そして。


「ラルフは………………の?」

「え?」


 聞き取れなかったが、嫌な予感はした。声質から、立ち姿から、さっきまであったはずの親しげな色は失せていた。いまやヴァイスは端整な顔を不信感と疑念に歪ませ、ラルフを仇のように睨みつけていた。


「ラルフはわたしの敵になるかもしれないの? ……だからあのとき、殺気だってたの?」


 あのとき――廊下でのことは、たしかにアリサが原因だったが、いまはそのような執着を持っていない。いますぐヴァイスをどうこうしようとは思わない。

 だが彼女に睨みつけられると、凍りついたように舌が動かない。どう言い繕えば、彼女の信頼を取り戻せるのかまるで判らなかった。手を伸ばし、這いずるようにして近づこうとして――、


「触らないで」


 彼女にそんな目で見られることが衝撃を受けて――頭が真っ白になった。

 茫然しているうちに、彼女は素早く踵を返し天幕へと戻る。

 自分の荷物を抱えているのを目にしたラルフは、すぐに彼女のしようとしていることを悟り、声を張り上げた。


「待ってくれ、ヴァイス! 一人でなんてそんな無茶だ」

「無茶? 何を言っているのよ、わたしは最初から一人で乗り込むつもりだった」


 振り向いた彼女の表情は酷薄としていた。スカートの端が風にはためき、舞い上がる。太腿に短剣がくくりつけられていた。見知った短剣――霊剣の鞘。忘れるはずもないその特徴的な輪郭にラルフは言葉を失う。

 どうしてヴァイスが霊剣を所持しているのだ。

 霊剣はルッツの死の間際に、強敵から破壊されたと聞いていたのに――


「場所は地図に書いたしエマちゃんにも伝えてある。ラルフは来るも退くも自由よ」


 ラルフはなにも言えなかった。刹那のうちに疑問と殺意が脳裏に渦巻き、激情の前に言葉と理性が霧散していた。状況がまったく理解できない。ヴァイスはアリサと敵対していて、ルッツともつながりがあった? それともルッツを殺したのは――


「でももし来るつもりなら、ラルフ、相応の覚悟をしなさい。ラルフが敵に回ったとしても、わたしは容赦しないから」


 それだけ言い捨て、彼女は深く底の見えない渓谷へと飛び降りた。


 止めることは、できなかった。


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