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三章 制裁

三章 制裁


 口の中が砂と泥の味がする。気が付けば顔のあちこちに塵らしきものが付着していて、慣れない手つきでそれらを拭ってみる。手も顔もたしかに自分のものであるのに、細部まで感覚が行き渡っていないような違和感がある。たとえるなら長い眠りから目覚めて、大事ななにかを思い出すことができないような――忘れる前は確かに大事に扱っていたのに、どうしてもその正体を思い出せない違和感である。


 ラルフはしばし、血と砂で汚れたままの自分の手を眺めた。自分が横臥させられているのは、直接地面に敷布を敷いただけの簡易的な寝床らしい。強張った筋肉を意識しながら、無理して起き上がった。衣服の下の体にはきつく布が巻いてあり、介抱されていた状況が窺える。


 天幕が張られた狭い空間からは、周囲の様子を窺うことはできないが、いやに静まりかえっている。冷たく澄んだ空気は夜だからか。

 唐突にラルフは昼間の出来事を思い出した。たしかに自分はフロレンツを殺した仇を討ち生きている。拳を握りこめば、たしかに感触がある。頬を抓れば痛い。強張っていた表情筋が緩む。間違えようもない生の実感を噛み締めて、――けれど。


「あら、お目覚め? おはよう」


 ひっそりとラルフの死角に立っていた人物が、沈黙を破った。


 ラルフは飛び上がりそうになりながら、剣を抜こうとした。しかしいつも枕元に置いている剣はなく、手は冷たい地面を掠っただけだった。揺れる視界で辛うじて捕えられたのは、三つ編みをした女の輪郭だった。


「……なんでここに、アリサ、さん?」


 反射的に女の腕に手を伸ばす。触れたのは柔らかな、細い腕だった。細いながらも筋肉質なアリサの腕とは違う。柔らかい。ラルフは間違いを悟り、ようやく女を真正面から見た。

 見知らぬ女は怪訝そうにしながら、突然腕を掴まれたことに対する不快感からか眉を顰めて睨んでくる。


「もしかして意識が混濁している? 自分の名前、言える? 歳は?」


 柔らかな薄桃色の髪と、眦の上がった碧眼。少し性格のきつそうな年下の少女だ。簡素な巻き外套で顔の口元を隠している以外には、特筆すべき点もない凡庸な迷宮探索者らしい装備をしていた。どこか懐かしい面影が重なった気がしたが、女自体には見覚えはない。注意して見れば、女がアリサに似ているところなんて髪型程度しかない。


 彼女の質問が自分に向けられたものであると、少しの間気がつけなかった。はっとして我に返り、ラルフは真面目に答える。


「……ラルフ。歳はたぶん……十八前後」

「付き合ってた子全員の人数と名前を挙げてみて?」

「………………は」

「え? 八人?」

「……いや、えっと、その」


 非常識な質問に戸惑い、女を凝視する。彼女は可憐な花のような外見に似合わぬ、嘲りの笑みを浮かべていた。


「言えないんだ? 言えないんだ?」

「言えるとかじゃなくて、初対面も同然の人間にする質問じゃ……ない、だろ」


 初対面の人間にそんな告白をするのは非常識である。自分の反駁は正しいはずなのに、なぜか語尾が小さくなってしまう。内心で生まれた動揺が、アリサから好きな子ができたのかと訊ねられたときと似ていた。


「ちょっとした冗句よ。彼女ができたことないからって、そんな怯えなくてもいいじゃない」

「どちらかといえばあなたの失礼な態度に戸惑っている」

「ラルフだって大胆にわたしの手を強引に掴んでるくせに……」


 ラルフが慌てて手を離すと、少女は衣服の乱れを直し立ち上がった。天幕の隅に置いてある箱に近づき、中から茶器を取り出す。手早く盆の上で纏めると、薬缶を携えて戻ってきた。


「あんたは誰だ……? 俺の武器はどこに?」

「ああ、ごめんね。わたしがいない間に目が覚めたあなたがどんなことするか、想像つかなくて取り上げさせてもらったの」


 木箱の裏へ置いてあった太刀を拾い上げ、少女は渡してくれる。内心で安堵の息を吐き、ラルフは少女に注意を向けた。一つ目の質問に応えてもらっていない。

 少女は薬缶から椀に茶を注いでいるところで、注ぎ終えると、それをラルフに差し出してきた。ラルフは用心しつつ受け取り口に含む。草の苦味がまろやかに仕上がった、上質な薬湯だ。ラルフは噎せ返りそうになり、口元を抑えた。どうにか堪えて飲み干す。

 一連の流れを少女は小動物でも眺めるかのような生温い目で眺めていた。


「お腹空いてる? ここで作れるのは粥だけだけどいる?」

「いや、いい。心遣いはありがとう。ええと……それより、まず、あなたが誰か訊きたい。……もしかして俺を助けてくれた魔術師ですか?」


 少女は首肯した。友好的な態度を強調するためか、手を広げて頭を下げてみせる真似までみせる。


「ご明察のとおり。改めまして命の恩人、アリサ……じゃなくてリサです」

「……今すごく適当に考えついた名前を名乗ったみたいに聞こえたが、どうした?」


 わざとらしい態度と相成り、ものすごく胡散臭い。へらへらと笑う彼女を前にしてラルフの改まりかけた口調は砕けた。ラルフは懐疑的な眼差しを彼女に注いだが、少女がそれに動じる気配はない。彼女はわざとらしく謝罪すると、最初からやり直す。


「じゃあ、ごめん。もう一回自己紹介やり直すね。リーゼです」

「じゃあって。偽名だって隠す気ないのか。もっとしっかりしろ」


 本名に拘るつもりはないものの、彼女の態度にはつっこまざるを得ない雰囲気がある。少女はラルフの意を汲んでか、真顔になった。厳粛な空気を背後に背負いながら口を割った。


「正直に告白すると、……じつは、名前忘れちゃってさ。ほら記憶喪失ってやつ? ところでグレーテルってどう?」

「却下だ。あと白々しい嘘をつくな」


 ラルフは首を縦に振らなかった。少女は困惑した顔になり、思案するように首を捻る。


「うーん、だめ? なかなか古典めいた名前でわたし自身は気に入っていたんだけど、だめなら……そうね。ラプンツェル、リーゼル……。好みの名前を選んでちょうだい」


 彼女は童話や劇から名前を羅列してみせるが、ラルフが言いたいのはそういう問題ではない。つい嘆息してしまう。まったく初対面からふざけている。


「……あなたが本名を言いたくないのなら、無理に聞こうとは思わない」


 座り直して女に向かい合うと、彼女の笑みを取り消した。


「不安になる童話偽名シリーズはお気に召さない? それなら虫の名前でも――」

「十分だ。名前にはこだわらないから」


 不毛な会話とまでは思わないが、問題が解決しないのであればいくら聞こうと同じことである。彼女はなんだか残念そうな複雑な顔をしたが、ラルフには心当たりがなかったため話を続ける。


「偽名でも怪しくても、あなたが俺の命を助けてくれたことには変わりない。この怪我の手当をしてくれたのもあなただろう?」

「そうよ。棘も抜いたし、包帯も巻いたし、煎じ薬も飲ませた。そう、とても人には言えないような方法で」

「…………」


 無言で身を仰け反らせたラルフに、少女は肩を竦めただけで悪びれた様子をみせなかった。


「看護への正当な対価だわ……。っていうか、冗句よ。冗句。迷宮冗句。そんなに引かれると私が痴女みたいじゃない」

「そんなものは聞いたことがないが……。まあ、なんにしても……あなたは恩人だ。俺が叶えられる範囲で、なにか望みがあったら言ってほしい」


 誠意を込めた謝礼のつもりだったが、彼女は笑っただけだった。


「大胆だね。でも、ラルフって隊長みたいな扱いなんでしょ。お仲間さんと相談せずにこんなことを約束するなんていいのかな?」

「これは俺が報いるべき恩だと思うから」

「仲間は関係ないと言うの? 立派だね。でもさ」


 勿体付けるように、彼女は人差し指を自身の唇にあてた。声量は自然と抑えられ、ラルフの意識も一字一句丁寧に発音する唇に吸い寄せられる。


「あなたたち、みんな揃って倒れてるんだけど。みんなわたしに看病させているんだけど」


 予想しなかった言葉だった。


「え?」


 ラルフは目を瞬たかせ、数秒沈黙した。女はラルフに同情したように目を伏せた。桶を拾い天幕から出て行こうとする姿勢で、こちらを見、静かに言った。

「生きてはいるから安心していいよ。……水、運んでくるね。会う前に身を清めて」




「童話シリーズが嫌なら色ね。(ヴァイス)って分かり易いでしょ」


 便宜上、彼女のことはヴァイスと呼ぶことになった。血液や泥などの汚れを落した後、ヴァイスはラルフを仲間のところに導くために一旦天幕の外へ出た。


 石壁に囲まれた広い空間である。ヴァイスが手元に出現させた光球を頼りに歩きながら、ラルフは周囲を見回す。

 周囲は暗闇と静寂に包まれている。壁沿いに歩きつつも行く先すべてを見通すことができず、どれほど広い空間なのか見当がつかない。小石を踏む音が虚しく反響するのを考えれば相当に手広い空間だと推定してよいだろう。遠くから水が滴る音が聞こえて来て、下水道に潜んだ鼠のような陰鬱な気持ちにさせられる。それなりに迷宮に詳しいと自負していたつもりだったが、この場所に見覚えがなかった。


 知らない場所だということに加えて、不安定に揺れる灯りが不安を掻きたてる。唯一の光源を持っているのはヴァイスであり、彼女がそれを消滅させれば暗闇に独り残されることになる。ラルフは彼女が信用できるのかは計り切れていなかった。いまのところ判っているのは、彼女はラルフたちを襲える状況でも看病に徹していたということだけだ。


「なあ、ここはどこなんだ? 旧祭壇の遺跡か?」


 もし彼女と争いにでもなった場合、この状況は間違いなく不利だ。会話できるうちに少しでも多くの情報を手に入れようと、ラルフは上擦った声で質問を投げかけた。ヴァイスは前方を見据えたまま冷静に説明した。


「いいえ。ここは地下一階層の下、二階層へ至る中間よ。魔物もいないし、もちろん生物もいないわ。すごく静かでしょ」


 光を掲げてみせる。頭上へと浮かび上がった光球は、果てのない石壁の回廊を照らし出した。


「こんな場所があるなんて聞いたこともないが」

 地図にもないはずだ。なぜそんな情報を彼女が握っているのか訝しく思う。

「知ってる人しか入れないように工夫されているの。わたしは昔、迷宮を巡る事件に巻き込まれたことがあって、扉を開ける方法を人に教えてもらったのよ。それから寝泊まりに利用しているの」


 にわかには信じがたい話である。沈黙に滲んだ不信感を読み取ったのか、ヴァイスはすこし思案するように間を空けてから話を再開する。


「あなたには扉を開ける方法を教えてあげてもいいわ。世間に公表しないって約束してくれるなら、という条件つきだけど。そういえば、わたしの目的はあなたに話したっけ?」

「目的? 聞いてない。力になれることだったら喜んで協力したいと思うが――」


 振り向いたヴァイスとラルフの目が合う。どこかに既視感がある。なにか大事なことを忘れているような気がした。覚醒したときに感じた違和感が、瞼の奥底で主張をはじめている。――大事な約束を忘却してしまったような不安感がじわじわと背筋を這った。

 ヴァイスはなんの感情も映していない瞳で、ラルフを見つめた。


「ある人を探しているの。わたしたちから全てを奪った、迷宮の内部深くまで単独で潜りこめる化物。どうやら子供を誘拐するのが特性みたい。わたしはずっとそいつを追いかけているわ」

「ん? ちょ、ちょっと待って。子供の誘拐? あなたはそれを調べていた?」

 話の続きが気にならないわけではないが、ラルフの脳裏で閃くものがあった。

「ええ、あいつの習性を確かめるために、調べていたけれどどうかした?」

「もしかしてあなたは俺たちが追い駆けていた、ふ……」


 不審人物と言いそうになって、慌てて言葉を濁す。ヴァイスが訝しげな表情になり先を促した。さすがにヴァイスを犯人に関連した人物だと決めつけて追っていたとは言えない。


「俺たちも誘拐事件について調べていたんだ。その途中で合流するはずだった隊が惨殺されているのを発見して、いまに至るんだが」

「……それで?」


 言葉の先を確かめるように、ヴァイスはラルフを睨む。その眼孔に気圧されながら協力を申し出ようとして気が付いた。


「あ……、いや、あの、俺たちが追い駆けている事件とあなたが追ってる人間に繋がりがあるのではないかと思って……」


 ラルフは自身がなにを言いかけたのか悟り愕然とする。見ず知らずの人間に救助、あまつさえいまも世話になり、まだ甘えた願いを口にしようとしているのか。目前の華奢な少女――ヴァイスが信頼できる人物かどうかも定かではないのに、なぜ自分は仲間の命を危険に晒すようなことを口にしようとしているのだろう。明らかに気を許しすぎている。


 急に言葉を止めたラルフを、ヴァイスは不審そうに窺う。そして突如、思いついたというふうに手を打った。


「あ、もしかして協力してくれるの? 目的が一緒だからって」

「――え、いや、まだお互い信用とか……」


 先程はたしかにそう言おうとしたが、この状況でお互いの存在を受け入れるのは果たして良と言えるのか疑問が残る。協力することで解決へ向けて進展するのは確かだが、まだお互いへの認知というか警戒心とかが解けていないような――

 胸中に渦を巻く不安は言葉にならなかった。ヴァイスが勝手に納得して、礼まで言い始めていたためである。


「わあ、ありがと。いや実はさ、彼らの居場所には見当がついているんだよ。でも……」


 言いながら彼女は踵を返す。速足になっているのは照れているからなのか。声には高揚感が溢れていた。


「やっぱりいまがそのとき……」


 最後になにを呟いたのかはよく聞こえなかったが、ラルフはその背を必死に追いかけた。





 二人は無人の回廊を進む。内部の構造は複雑に枝分かれしており、広い空間から狭く細い路へ行ったり来たりを繰り返した。ところどころ浸水し通れない路があること以外は、理想的な居住区域だったことが推測できる整然とした回廊だった。そして防衛を意識してか妙に窄まった角が多い。


 ヴァイスに謝罪とともに太刀を返還してもらい、丸腰ではなくなったものの、この場所に詳しい人間が敵に回ったら太刀打ちできないだろうという確信があった。かつてこの場で何が起きたか推測すらままならないものの、ラルフの脳裏にある生贄の儀と惨殺現場に塗りたくられていた怨憎が煽られる。背筋を這い上る戦慄というべきそれは、超常的なものへ抱く畏怖に似ていた。


 侵してはならぬ場所に入り込んでしまった気がする。


 角を曲がるたび、新たな路地に入るたび、なにかが待ち受けているのではないかと――嫌な予感が付きまとう。


 リティス神教が国教とされる以前、迷宮とは祭壇や神の試練と同一視される通り神聖なものとされていた。迷宮を魔物が闊歩しているのは、裏表隔てなく認知し受け入れる聖性の現れと、矮小な人間が化物に挑む様を好んだからとされる。つまり迷宮は神話空間を再現した場所だというのである。


 しかしその神話の登場人物たち――古代の神の全貌は、明確に記述されていない。どんな姿をしており、どんなことを人間に教示し、どのように在ったのか。それを知る手がかりは迷宮に残された古代遺跡内部にしかない。


 ラルフは遠い過去に想いを馳せてみる。

 強い信仰の痕跡や、大々的な儀式の存在から察するに、神を中心に据えた人間の営みがあったと推測できる。もし熱心な教徒がかつての神域とされていた迷宮に、俗人が勝手気ままに踏み入れると知ったら怒り狂うだろう。現在に至りたとえ新興宗教として生まれ変わっていたとしても、神域の価値が変わるとは思えない。信仰者たちは神域を荒らす盗掘者どもを排斥したいと考えるはずだ。

 しかし一体――どうやって? 多い時には日に何百人も迷宮探索者が訪れるというのに、一体そのすべてをどう排除するというのだろう。教典にあるような神のお導きなど、この世のどこにもないはずなのに――一体どうやって探索者たちを排除する?


 そこまで考えて、ラルフはかすかな物音に過敏に反応し、背後を振り返った。視界には先程通りすぎた暗闇が続くのみで、当然、人の気配はおろか何者の姿もない。考え過ぎである。ラルフが自嘲し、緊張を紛らわせるために息を吐いたとき。


「もしかして怖いの?」

「――ぅわっ」


 背後からヴァイスに押された。直前の思案もあり身の毛がよだつ想いをして叫んでしまう。

 振りほどこうとする必死の抵抗に、ヴァイスはされるがままするりと腕を解き可笑しそうに指摘した。


「なにをそんな慌てているの? 大人びてますって顔をしてるのに、お化けが怖いなんて可愛らしいね。大人っぽいのは上辺だけかな?」

「脅かさないでくれ……! なんか寒いし暗いしこう……恐怖が煽られるんだ」

「じゃあ帰りにまた脅かしてあげるね。っていうかここだよ、ここ」


 ヴァイスは急に立ち止まり、古ぼけた木製の扉に手をかけて一気に開ける。土の匂いばかりが濃い静謐な廊下に、消毒液の匂いが染みだした。


「さあ、入って――『灯りを(lux)』」


 素早く滑り込ませたヴァイスに続き、ラルフも入室する。内装は治療室のようで擦り切れた敷布を被せられた寝台と、硝子の割れてしまった薬品棚が置いてある。ようやく標準的な広さの室内に入れたことに安堵しつつ、ラルフは寝かせられている三人に近寄った。ヴェルマ、アメリィ、それにエマ。感涙しそうなほどの動揺を抑えながら、三人を覗き込む。


 蒼褪めた顔が目に入り、ラルフは瞠目した。穏やかな寝姿は人形のようだ。筋肉は弛緩しておらず、試しにエマの手に触れると、密やかな脈を確認できた。穏やか過ぎて途切れそうなものだが呼吸もしている。だがこの死人のような顔色は恐怖を煽るのに十分だった。


 ラルフが悲痛を湛えた顔でヴァイスを見やると、彼女は小声で見解を述べた。


「毒による呪い状態。見る限り第二階層に咲く氷蝋花が原因だと思うよ。少しの熱でも溶けるようになるから、ここを氷室代わりにしてたわけ。手を離したほうがいいと思うな」


 氷蝋花の名はラルフも知っている。

 花弁や蜜や茎から滴る粘液を一度口に含めば、対象の身体を麻痺させ少しの熱でも溶けるような体質にするという変化魔術を秘めた毒草である。その恐ろしい効果は古典にも登場するほど有名で、サラシェ王国では迷宮内部から持ちだすこと自体が禁じられている。売買などもってのほかであるし、そもそも採取には危険が伴う。ラルフは触れていた手を離し、エマを見下ろした。


「……ここは第一階層なのに、なぜそんな呪いに?」

「事故か、故意か。なんにしても氷蝋花を所持していた裏切り者がいるのよ。このなかに」

「裏切り者……」


 ラルフは半ば茫然と異国語を聞いたときのように反復し、単語を転がす。意味が解らない。裏切り者というその意味が。

 ヴァイスは自らの髪を指先で弄びながら、そんなラルフを嗤笑するように唇の端を吊り上げた。朽ちかけた薬品棚まで歩いて行き、棚の上にのせられた本を投げて寄越す。本の題名は『庭園迷宮に咲く毒草の見分け方』。


「分析魔術まで使って確かめたから、間違いはないはずだわ」


 慌てて古ぼけた本の頁を捲る。氷蝋花の項目に書いてある症状は、倒れ込んだ仲間の状態と合致していた。


「信じられないって顔をしているね? そんなに仲間が裏切るのが意外かな?」


 ラルフの内心を察しない、嘲りの笑み。ラルフは不愉快さに顔を顰め、頷いた。


「……あなたが嘘を吐いていると思いたいくらいには、信頼している」


 ヴァイスははじめから怪しかった。地図にも掲載されていない場所を知っている。強力な魔法を扱い、単独で迷宮を闊歩する。誘拐犯と確信されるほどの紛らわしい行動の数々。そういう人物が唐突に現れ、時を同じくして仲間が毒に倒れた。ヴァイスがすべての犯人だとすれば、様々な偶然の符合に納得できる。


 ――もちろんそれは、ラルフが現実から目を逸らすために思いついた一つの可能性に過ぎない。事実に基づき考えるなら彼女が白だと示す証拠も、黒だという証拠も、双方等しく存在しないのである。むしろラルフの棘を抜き治療してくれたことを考慮するに、彼女にラルフたちの死を願う動機などないようにみえる。

 ヴァイスを睨んでいるラルフに対し、彼女は我関せずといった様子で、治療の資料らしき本に視線を落とす。


「んー、ラルフがそう疑いを持つのは尤もだけど、わたしはやってないよ。第一、やる理由がない。わたしは復讐で忙しい。余計な怨みや毒草密売人の謗りを受けるのはふつうに不快。第二、ラルフを助けたのは偶然。それも善意で助けたわけじゃない」

「……じゃあなぜ。なんで俺を助けたんだ?」

「ラルフが知り会いに似ていたから助けたの。似てなかったら、たぶん見殺しにしてただろうね」


 呆れて何も言えなくなったラルフに、ヴァイスはわざとらしく指を振った。


「それに本当はラルフを助けたら、わたしは去るつもりだった。なのにその似非和み系の女が棘の治療の仕方を知らないとか抜かすものだから、死体から離れたところに天幕を張ったのね。ちょうどこの場所に入る入口近く。そして治療したら後はいいかなって思ってたら、ばたばた倒れて……面倒すぎて置いていこうかと一瞬だけ考えた」


 記憶を脳裏で再生しているのか、ヴァイスは一瞬だけ茫っとした眼差しになり、またすぐに唇を尖らせた。


「それでどうするの? 解毒薬を作ってみる? それとも裏切り者が混じっているかもしれない三人組は放っておいて、わたしたちだけで目標の巣穴に潜入する? それはそれでいい考えだと思うけど」


 答えは解り切っていた。


「……仲間を捨てるのは、ない」


 ラルフはそれを拒絶した。ヴァイスの提案は利己的で、到底受け入れてよいものではない。

 仮にこの少女の言葉が真実だとして、仲間内に毒を持った人間がいるのだとしても彼らを独りでも残して行くのはありえなかった。アメリィ、エマ、ヴェルマ、それからフロレンツ。みな志を共にした戦友である。とりあえずこの毒をどうにかして取り除き、彼らと話をしてみなければならない。


 ヴァイスに歩み寄り、彼女の肩を掴む。突然の行動に彼女は目を丸くした。だがラルフはまっすぐに彼女の目を見て、さらに顔を近づけた。


「たとえ誰かが諮ったことだとしても、いまは気にするべきではないと俺は思う。とにかく誘拐された子供らを助けて、アリサさんのところへ帰らないと。解毒薬を作る方法があるなら教えてくれ……いや、ください。教えてくれさえすれば、あとは一人で行く」


 彼女は唖然としてしばし瞬きを繰り返していたが、やがて澄んだ声で短く問いかけた。


「迷宮を一人で? 自殺志願なの?」

「俺は何度も一人で行き来している。自分の命より仲間のほうが大事なんだ。俺が尊敬する人が言ってたんだ。『仲間は家族のように大切に思え。欠けてはいけないものだと信じろ』と」

「へえ、たいした先生ね。……たとえばわたしがあなたに嘘を吐いたり、あなたがいない間に彼らに悪いことをしたりするとは思わないの?」

「そうだな。その可能性もあるか……。では、できればヴァイスにもついてきてほしい」

 ヴァイスは瞑目し、嘆息を零した。

「ラルフは素直だね。でもいいよ。変に大人ぶっているより、そのほうが自然にみえるわ」

 彼女の頬が緩んだ。ゆっくりと目蓋を開き、ラルフの目を間近から捉えた。

「やっぱりラルフは私の知り会いに似ているの。ここで出会えたのは運命だと思って、力を貸してあげる」



 応急薬の精製方法は、至極簡単なものだった。方法を聞いてすぐにでも出発しようと急かすラルフを、ヴァイスはどうにか宥めて一晩は留まることを了承させた。


「三日も寝てたのよ? 体力が落ちているに決まっているでしょ」

「帰るって約束してきた人がいるんだ。できるだけ早く帰らないと心配させてしまう」

「わたしだっていま目の前にいるラルフを心配しているわ。いいから、ちょっと寝なさい。ちゃんと起こしてあげるから」


 背格好は年下に見えるのに、随分な物言いだった。


「……将来、旦那になる人間は苦労するだろうな」

「心の声が漏れてるわよ。締め上げられたいの?」


 氷室代わりになっている暗室を退去し、天幕に戻って粥を食べ眠る。ただそれだけのことが途方もなく無駄な時間に感じる。ラルフは粥を食べ終えたあとも横になれず敷布の上に座り込んで難しい顔をしていた。焦燥に駆られて落ち着かない様子に、ヴァイスはとうとう切れた。


「もううるさいのよ。わたしだってさっさと身を清めて着替えて寝たいの。ちょっといまから服を脱ぐから、敷布被って寝てくれない? できなくてもとりあえず着替えるわよ……!」

「ど、どういう脅し方を……。いや、いい。俺が出て行くから、ゆっくり着替えてく、れ……」


 慌てて腰をあげたラルフの前で、彼女の外套が解け落ちた。外套の下に身につけていたのは、男物のシャツとパンツである。桃色の髪も解かれ癖のついた髪が背に流される。光に髪が細く照り返しその柔らかさを強調するかのようだ。

 改めて彼女を見れば――容姿だけなら名のある貴族の令嬢を名乗っても無理がないような――整った顔をしていた。より正確に表現するなら、非常に好ましい貌だった。

 見蕩れていたことに気付き我に返ると、羞恥心がせり上がってきた。横を向いたが、どうしても気になって仕方ない。立ち上がりかけた姿勢で、ふらふらと視線を漂わせる。


「面倒くさいわ。それに出て行かせると独りでふらふらどこかへ行ってしまいそうだし、いま死なれたりしたらさすがに寝覚めが悪い……」


 シャツのボタンが一つずつ外されていく。薄布から透けた身体の輪郭は、ほどよく締まった腰やしなやかな肢体を想像させた。挙措一つとっても女性を強調するように感じられ視線が釘づけになる。意志とは反対にアホそうな顔をしているだろうと自覚しつつも、完全に目を逸らせず控え目に横見してしまう。

 そんなラルフに半裸の少女は艶笑すると、人差し指を突きつけた。


「……精神誘導魔術がいちばん効果を発揮するときって、どんなときか知っている?」

「……え?」


 予期しない質問に呆けたラルフの前で、彼女は指を振る。


「さあ、考えて。考えてよ。もういい? 考えた?」

「えっ。え?」

「それじゃあ答えを発表するね、答えは単純なの。精神誘導魔術が最大限に効果を発揮するのは、精神の防壁が揺らいでいるとき。つまり純粋な欲望に理性を揺さぶられているとき。さっさと寝なさい、ここからは子供が覗いちゃいけない夜の深みよ――さあ、『眠れ(cocleatus)』」


 言葉の意味を察するより早く、彼女は花のように笑った。途端に強い花の薫りとともに、強烈な睡魔が襲ってくる。


「ま、待て、ヴァイス……!」

「おやすみなさい。幸せな夢をみなさい。そしてできることなら全てを忘れてしまいなさい。そしたら許してあげる」


 身体から突如力が抜けて、床へと突っ伏す。意識が無へと掠れていく。


「――わたしは全部、憶えているけどね」


 声色が囁いたのを聞いた刹那、違和感の正体にようやく思い至った。桃色の髪だ。珍しい髪色だが夢で一度見たことがある。

 ――この少女と出会ったのは偶然ではないのかもしれない。血腥い記憶の残滓が脳裏で閃いたのも束の間、意識は溶け去った。




 迷宮の階層を移動するには、大階段と呼ばれる巨大な螺旋階段を昇降するほかない。大階段はその階層ごとに場所が違い、古代魔術の技術によって昇降する人間を転移しているのだといわれる。階段の場所を記した地図を見ながら、西へ移動していた。森林を抜ければ、そこからは脈絡のない砂原が続いている。霞むほど遠くに剣山と呼ばれる山々が見える以外は、なんの障害物もない一面の砂色。朱甲殻を持った昆虫系の巨大な魔物の背に乗り、二人はそこを突っ切ろうとしていた。


 空は紅く、雲一つない。乾いた空気が砂原の砂塵を舞い上げている。頭から被った砂色の布の裾が、風にはためく。一際大きな風が吹き荒れ砂が舞い散るなか、ラルフは首元を覆っていた布を目頭まで引き上げた。砂嵐と呼ぶべき旋風が非常に厄介であることは、甲虫の背に乗ったわずか一時間半の間に学んでいた。


「それにしても驚いた。まさかあんな場所に地下の扉があるとは……いままで全く気がつかなかった」


 揺れに言葉尻を震わせながら、ラルフは前に座るヴァイスに話しかけた。

 地下への扉が隠されていたのは森のなかにある巨大な岩の陰である。ラルフ自身も何度かその前を通っていたし、岩に上り物見をしたこともある。アリサの教えにより迷宮内部の些細な事柄にも注意していたはずなのだがまったく存在を感知できなかった。一抹の悔しさを覚える。


「認識阻害魔術がかけられているの! 悪鬼特性の強力な魔除けよ!」


 ヴァイスは風の音に負けないよう声を張り上げた。魔物を操るために前方を見据えたまま振り向けないのだ。ラルフは彼女との距離を詰めて訊ねた。


「悪鬼?」

「人間のかたちをした魔物のこと」

「半魔のことか?」


 ラルフの脳裏に思い浮かぶのは、これまでに始末してきた子供たちの姿だった。悪人の玩具になった彼らは強制的に魔結晶を人体に埋め込まれ、人体の魔力許容量を超えたゆえの拒絶反応を示して、つまり魔物化(・・・)して、迷宮探索者の討伐対象になっていた。


「あれはその成り損ないでしょ。劣化品か模造品っていうのかしら。ともかく悪鬼はそれの上位の魔物で、人間に化けるのが上手よ。そしてたぶんあいつらは迷宮の外にも……」


 砂嵐が巻き起こり、両者は口を噤んだ。訊きたいことはまだ残っていたが、彼女の説明はそれで終わりだった。


「面倒くさいから飛ばすわよ」


 そう宣言し、ヴァイスは速度をあげた。

 異国の神話の神々は、六脚ある馬に乗るという。六脚の馬が駆ける速度はまさに神速のごとくと伝えられる。たしかに甲虫の脚も六本。神速と呼んでも過言ではない速度がでた。徒歩で移動すれば半日かかる距離を、甲虫はわずか一時間程度で詰めてしまったのだ。そのおかげでラルフはひどい酔いを訴える羽目になったが、ヴァイスは止めてくれなかった。


「ほらほら、待ってる人がいるんでしょ? 頑張らないと」


 吐き気を堪えているなか、にやりと笑ってそう急かしてくるヴァイスが鬼に見えた。




 半日も過ぎれば、大階段に辿り着いた。世話になった甲虫を殺し、そこからさらに降りて迷宮の二階層へ。丘陵に降り立つと、眼下には灰色の湖の群れが現れる。湖同士を隔てているのは、深い緑の重なりだ。

 二階層はすでに陽が落ちようとしているところであり、探し物をするには夜が明けるのを待たなければならない。ラルフは動きたがったが、やはりヴァイスが許さなかった。三階層までくると魔物は活発に人間を狙って行動するようになり、長い休憩はとれなくなる。いまここで休んでおいたほうが後の数日の苦しみが少なくなるというヴァイスの意見は正論だった。渋々ながら同意し、二人は天幕を張り夜営の準備をはじめた。


「なんかおかしいと思わない?」


 ヴァイスがそう訊ねてきたのは、陽が暮れて周囲が帳に覆われたころである。


「なにが?」


 ラルフは天幕のなかから顔をだして、ヴァイスの姿を確認した。最初の番を買って出た彼女は、食べかけの果実を両手で握りこみ、茫洋とした目で暗くなった景色を眺めていた。


「いや……なんだか、穏やかすぎる気がして」

「……魔物が大人しいのは俺も感じていたがなにか問題あるのか?」


 道中、魔物の襲撃に一回も遭っていない。ただの幸運だと思っていたが、まさかとんでもない理由でもあるのだろうか。訝しげな表情になったラルフに、ヴァイスは無表情のまま頷いた。


「嵐の前の静けさ、って言葉があるわよね。なんだか良くないことが起こりそうな気がするの」


 その言葉は沈み込むような重さをもって、投げかけられた気がした。ラルフは軽くかぶりを振ってその考えを振り払った。余計な妄想は、作戦を遂行させるのに邪魔になる。


「ヴァイスも手伝ってくれるのに、それはない。それにヴァイスのいう諸悪の根源も、もうすぐ決定的に追い詰められるって言ってただろう。不穏なことを考えると嵌るぞ。魔物が大人しいのは、ただの幸運だって思うことにしないか」


 ヴァイスは頷いたが、しかし緊張した面持ちは緩まなかった。


「たしかにわたしは緊張しているのかもしれない。ずっとわたしたちの人生を壊した犯人を追い求めてもう五年……。もうすぐ復讐は果たされて、長かったわたしの人生も終わる」

「終わる? どうして?」


 死ぬ気なのかと問いかければ、彼女は首を横に振った。


「違うの。長い間、復讐のためだけに生きてきたから、それが終わるならわたしも死んじゃうような気がしただけ」


 なんと返答したものか迷う。生きる目的というものはいつだって曖昧で、その曖昧なものにしがみつくには教信者になる覚悟がいる。彼女は悲願を見つめすぎて、自分という輪郭が曖昧になってしまったのだ。その気持ちは、ほんの少しだけ理解できる。

 独り言ちるように、ヴァイスは溜息とともに吐露した。


「魔術の訓練がとても嫌だったの。わたしの操る発火魔術はね、代々血縁で受け継がれる類のもので、その能力を発現できないころは、母親からそれはもう虐待のように訓練させられた。わたしはそんな環境から逃げ出したくて弟を連れて家を出たわ」

「…………」

「でもそれは上手くいかなかった。結局わたしと弟は、世の中の狂気や悪意に押しつぶされそうになったり死にそうになったりして、大切なものすべてを失った。家族を裏切った、その行為がどれだけの罪か知ることになった。でもこんな状態になっても、まだ死なないの。とても後悔しているわ」

「……それは」


 脳裏でなにかが熱を持って疼いた。なにかを思い出しかけているが、肝心の気になる部分は思い出せない不快な感覚。 


「家に帰りたい。両親に会って話をしたい。随分昔のことだから、二人の顔はあまり思い出せないけど」


 記憶を再生しようとしているのか、彼女の目蓋はきつく閉じられていた。彼女に誘われて、ラルフも自身の家を想い出そうとしていた。アリサの待つ家ではなく、記憶を失う前の本当の家だ。アリサに拾われたころ何度か家に帰りたいと口走り、どこにあるのかも思い出せず混乱しながらも、あれほど焦がれた場所。

 記憶を失っていても帰りたかった家は、本当はこの世界のどこにもないのかもしれない――


「俺も帰りたいよ……」


 ぽつりと漏らしたその言葉は、ヴァイスを正気に戻したようだった。目を見開いた彼女はラルフを凝視する。その驚愕があまりにも新鮮だったから、思わずラルフは苦笑いしてしまった。


「もちろんアリサさんの待つ家に、な」

「――、そうよね」


 驚愕も束の間、呆れたような声をだしてヴァイスは敷布を被った。


「いままで打ち明けられる人はいなかった。これからも誰にも話さず、胸に沈めなくちゃいけないと思ってた。でもラルフに話せてすっきりしたわ。今日はもう寝なさい。おやすみなさい」


 話しすぎたと言わんばかりのその背を見て、ラルフは考えてしまう。

 もし――ヴァイスが復讐だけに人生を捧げて、なんの遊びも知らず、なんの人間関係も築かずに生きてきたのだとすれば、その復讐が達成されたとき、果たして彼女に何が残るのだろう。彼女は正気でいられるのだろうか。


「ヴァイスの目的を一緒に背負ってやることは難しいが……」


 頭を掻く。会って間もない少女に、こんな言葉をかける気になったことが、なぜだか無性に恥ずかしかった。


「復讐が成功したあとの居場所に困ったら、俺のところに来いよ。一緒に……もちろんヴァイスさえ良ければの話だけど」


 言って、ヴァイスの反応を窺う。彼女は振り向ききょとんとした顔をしていたが、やがてふっと表情を緩めた。


「ありがとう。ラルフって優しいんだね。仲間以外にも」

「……当然だろ」

「なにその素っ気ない言い方。照れてるの?」

「べつになんでもない」


 ラルフはそれだけ言って、天幕に引っ込んだ。だがまるで子供じみた真似をしたような気がして、直後に付け足した。


「……先に仮眠する。なにかあったら、すぐに呼んでくれ」

「そうする。おやすみなさい、ラルフ」


 恬淡としていながら、優しくも感じるその声。ラルフは妙な気分になりながら、微睡んだ。



 それから深夜に番を交代した。何事もなく夜が明けて、明け方。夜行性の魔物が潜み隠れる時刻になり、二人は行動を開始していた。二階層は端から端まで歩いて約一日程度、一階層の半分ほどの空間しかない。おもな脅威は背の高い樹木やぬかるんだ草地――障害物の多い地形と、肉食獣的な外見をした魔物である。二人は大階段から歩いて二時間の距離にある泉を目指し出発した。


 生い茂った草を掻き分けながら道なき道を進む。その間、ヴァイスは指を折りながら、説明を繰り返していた。


「まずわたしたちが作りたいのは、霊薬『金の林檎酒』ね」

「ああ、判っている」

「いくつか材料があるけれど、そのほとんどはわたしが持っているわ。ここで探さなければ探すものは三つ。一つめ、大蛇。蛇型の魔物で、有毒。この毒が必要だから、頭部を破壊してはいけない」

「あの魔術を使ってくる厄介な人食い蛇だな」


 第二階層には有毒の生物が多く潜んでいる。有毒の生物といえばすぐに思い浮かぶだろう蛇型の魔物も多数存在しているが、大蛇と呼称されるのはそのなかでも人間を丸のみできるほどの大きさの人食い蛇を指す。

 彼女は頷き、ラルフの確認に肯定を示した。


「二つめ、三階層の鋼鉄鰐が潜む泉の水。これは目的地に着けば苦労せず採取できる。今向かっているのもそこね」

「俺も何度か立ち寄ったことがあるから場所は知っている」

「そしてこれが一番大事。三つめ、氷蝋花本体。見つけたら、絶対に触らずに場所だけ教えて。万が一、ラルフがそれで倒れたら今度は助けず捨てるから、そのつもりでね」


 黙って聞いていたが、言葉の後半は聞き捨てならない。ラルフは表情を厳しくさせ、小柄なヴァイスを覗き込んだ。


「……ヴァイスは俺に信頼してほしいのか、してほしくないのか、どっちなんだ?」


 わざわざ表明してみせるということは、信頼を勝ち取れと言われているのだと解釈してもよいのか。ヴァイスの心証が掴めない。曖昧なごまかしを口にせず、物事を端的に述べる姿勢は個人的には好意がもてるが、仲間の命を賭けるとなればべつだ。

 すでに仲間が眠る地下への入口を知っている。氷蝋花が肉体を完全に凍らせるまで一週間ほどある。ならばヴァイスを殺しても、ラルフが生き残ってさえいれば外に救助を求めることができる。険阻な表情から考えを察したか、ヴァイスは笑みを潜めた。


「もちろん、してほしいわよ。お互いに信頼を得た状態で最終難関に挑むのが最善に決まってる。でもその前に実力を見せてほしいの。これぐらいで倒れられたら、組む意味がない」

「……まあ、その意見には一理ある。だが俺の剣の腕なら知ってるだろう」

「もっとあるでしょ。隠してることが」


 細い腕が、剣を引き抜く動作をしてみせる。それが霊剣を暗示しているのだと、ラルフはすぐに思い至った。


「街にいるとき、噂で聞いたわ。ラルフっていうのが、この街に一つしかない霊剣を持ってるって」


 ルッツが遺した一振りの短剣のことだ。

 迷宮から発掘された武器は、魔術の起動因子である単語を発することなく魔術の効果を発揮する。鞘から抜いただけで炎を吹いたり、周囲に雷撃を墜としたりできるという、まさに神霊が宿る剣――だから霊剣と呼ばれる。

 ラルフは嘆息した。ヴァイスの好奇心が宿った目から逃れるように、周囲に視線を巡らせる。森林とぬかるんだ地。それから小石の目立つ、干からびた河の痕跡。泉に近づいている証だった。


「ほらもうすぐ泉に着くぞ」


 ほんの数分すれば泉が見えてくる――はずだった。




「先導して! わたしは後方から掩護する!」

「心得た!」


 太刀を片手に、跳ねるように踏み出す。泉を囲んでいた蜥蜴とも蜘蛛ともつかぬ、多足胴長の肉塊にしか見えぬ魔物たちが一斉にラルフに詰め寄った。


「まったくなんなんだ、この数は――ッ!」


 肉塊じみた体の頭にあたる部分には、立派な牙が生えた巨大な口がある。死肉蟲――新鮮な人間の死体と魔結晶が揃うと産まれる魔物であり、おもに探索者が死んだあとに適切な処置をしないことで発生する。死肉が元であるために、通常はこんなに大量発生することは有りえない。


 泉に近づくにつれなにやら腐臭が漂ってくるかと思えば、魔物に襲撃されている探索者の集団がいた。集団は救助を求めている様子なのだが、夥しい数の死肉蟲が幾重にも囲んでおり、近づくこともままならなかった。

 ラルフは悪態をつきつつ、片足を軸に旋回しながら刃を振るっていく。まるで舞のような拍子のついた一閃が、魔物の急所である魔結晶が埋まる喉元を抉っていく。血飛沫をあげて、弾き飛ばされる夥しい数の魔物。その屍の上にラルフは素早く飛び乗り、周囲を確認した。


 まだまだ死肉蟲が減る様子はない。耳に届く叫喚から察するに、集団が善戦していないのは間違いない。早く突破しなければ――踏み出そうとしたときだった。


「醜悪な習性に似合いの、見苦しい外見だわ! 燃えてしまいなさい!――『雷光(fulgul eruptio)』!」


 ほとんど怒号に近い詠唱と共に、群れた死肉蟲の間に閃光が駆け抜けた。

 稲妻のように蟲の群れの間をジグザグに走って行くそれは、数秒の間を置いて爆炎をあげて死肉蟲を吹きとばす。死肉蟲と土塊が空中高く舞い上がった。死肉蟲は細切れになって地に降り注いだ。巻き上げられた小石が目に入るのを片腕で防ぎながら、ラルフは後方から跳躍してきた死肉蟲を一刀両断した。その間にも絶叫の勢いで詠唱は続く。


「灰を降らせろ! 地獄の淵 ――『爆裂延焼(eluptio)』!」


 炎の渦が巻き起こり、暴力的な熱が空気を焦がし現れた。強大かつ凶悪な火焔の存在に薄桃色の空が赤く染まり、熱を帯びた突風が吹き撫でる。火焔は地を這う肉塊を舐め、焼き焦がし、不快な悪臭を放つ消し炭を作り上げていく。本当に神の怒りが堕ちたのかと思えるほどの、圧倒的な光景だった。


 一体どれほど命を削ったら、このような魔術を発現できるのだろう。障壁を築くのにも四単語を使わなければならないアメリィなどでは、一生かかっても絶対に無理だ。ラルフは尋常ではない魔術に愕然としたものの、飛び掛かってきた死肉蟲に回想から覚めた。咄嗟に突き出した刃は魔物の急所を逸れて、頭を抉る。形状から予想はついていたが、身体全体が死肉で更生された死肉蟲には骨などなく、かすかな筋の手ごたえがあるのみで容易く断ち切れた。筋が粘着的に剣に纏わりつくのを払ってから、魔結晶を粉砕する。腰から三本あるうちの短剣を二本取り出して、太刀と持ち代えた。双剣の構えをとり、息を整え、駆けだす。熱風のなかで炎が取りこぼした魔物たちを斬っていく。


 ラルフが焼け焦げた死骸が続く道を突っ切ると背後から、ヴァイスが追い縋ってくるのを気配で感知した。

 残念ながら道が開けたのは一部だけで、集団の周囲にはまだ残っている。目測でおよそ三十――群がっている死肉蟲のなかでもとくに巨大なものたちが二人を威嚇した。五人いたらしい集団は壊滅しており、残る二人が背中合わせで戦っている。

 ラルフは死肉蟲から目を逸らさず短剣を背後に放り投げて、問いかけた。


「どうしたらいいと思う?」


 返事の代わりに荒い呼吸音が聞こえた。魔術の発動には肉体的な疲労を伴う。術者の生命力を対価として捧げるからだ。ラルフもそれを判っているので少しの間、彼女が息を吐くのを待ってやる。ヴァイスは咳き込むのをこらえながら、切れ切れの声で指示した。


「……っ、実力を、見せて」

「判った。霊剣は抜かない。だけど――ヴァイスが良いものを見せてくれたぶん、俺も手の内を開示しよう」


 逡巡しない。ラルフは首から提げていた魔結晶の欠片を、口内に突っ込み奥歯で噛んだ。砂を噛むよりも不快な、硬い感触が口内のなかで主張する。それと共にほろ苦く、鉄臭く熱い液体が喉奥へと流れ出す。短剣を仕舞い、再び太刀に持ち替える。


「ラ、ラルフ、それ、いま、なにを……! だめだよ、そんなことをすれば――ッ!」


 めずらしく動揺した様子のヴァイスを、ラルフは黙殺した。全身に力が漲ってくる。神経が研ぎ澄まされ、視界が鮮明になる。血の臭いが纏わりついた身と、死臭、誰かの名前を連呼する声。いつもより過敏になった知覚が状況を明晰に見分し、選ぶべき最善の選択を教えてくれる。ヴァイスの信頼を勝ち取り、探索者の集団を助けるには、完膚なきまでに死肉蟲を殺し尽くし圧倒的な力をみせなければならない。


「皆殺し、だな」


 決断すると、跳躍した。上空から落下する勢いを利用し、真っ直ぐに太刀を死肉蟲の脳天に押し込む。刃は辛うじて存在していた薄い骨を突き破って進み、魔結晶に亀裂が入る。まずは一匹。結晶を破壊した手ごたえを感じて、ラルフは近くにいた死肉蟲に飛び掛かった。刃から血の糸が舞う。刃を押し込むのを待たず暴れ出した死肉蟲から、機敏な動作で飛び降り刺す。血飛沫が盛大に降りかかり、だがそれでもラルフは動くのを止めない。脅威を感じたのか次々とラルフに襲い掛かってくる死肉蟲の噛みつきを、俊敏に避けながら、一太刀ごとに魔結晶を破壊する。三匹、四匹、五匹。赤ん坊の手足にも似た死肉蟲の脚が千切れて宙を舞う。二十匹を超えたあたりから、ラルフの周りには肉塊の山ができた。


「――あは、は」


 いつしか口許が無意識のうちに笑んでいた。魔物が苦悶の声をあげながら、引き千切れていくのは愉快である。

 ヴァイスがなにかを言っているような気がした。ラルフは気にせずに向かってくる魔物に太刀を突き刺し、牙を弾き飛ばした。幾度血を被ったか、もはや覚えてない。手に残っているのは、切り裂いた肉の感触だけだ。

 愉しい。醜悪なものを前にして高まっていく気分が愉しい。

 いつの間にか、死肉蟲はすべて動かなくなっていた。真っ赤に明滅する視界で次の敵を探すと、唐突に背後に生じた気配に振り向いた。応戦しようと、太刀を構えかけて――。


「ラルフはアホなの!?」


 飛び掛かってきたのがヴァイスだと知って、慌てて太刀を退ける。ヴァイスに押されるままラルフは体勢を崩し、死骸の上に倒される。首元を締めあげられて乱暴に揺すられ、前が見えない。息も絶え絶えになりながら両手を挙げて降参を示すが、当のヴァイスも混乱しているらしく離してくれない。


「ばっかじゃないの! ばっかじゃないの! 半魔になるのかと思ったでしょ! ばっかじゃないの!」

「苦しい。離せ、許してくれ!」

「許さない!」


 憤然とした顔で、ヴァイスは断言した。口元から鎖を引き抜き、咽頭で留まっていた緋色の欠片が取り出される。彼女は唾液に塗れたままのそれを握りこむと、鎖を首元から外して投げ捨てた。アリサがくれたお守りを、あろうことか彼女は投げ捨てた。一瞬、頭が真っ白になった。


「はあっ、なにしてん……だっ!?」


 叫び身を起こそうとしたラルフだが、ヴァイスが首元にしがみついて離れない。突然の彼女の抱擁に戸惑い、押し返していいものか逡巡する。


「こんなものがあるから不幸は起きるんだって行ってのにね」


 ラルフは訝しげに腕のなかの少女を見下ろしたが、彼女は涙の滲んだ碧眼で睨みつけると鼻先に指を突きつけてきた。


「もうだめだから。魔結晶はなにがあっても身体に取りこんじゃいけないから!」

「……、うん」


 剣幕に思わず首肯し、ラルフはヴァイスを見つめてはたと気づく。


「ラルフが思ってるよりも、ずっと危ない……。飲みこまないからってなにも害がないと考えているなら、それは大きな間違い。これは禁忌の術だ、よ……?」

 ちょうどヴァイスも正気に戻ったらしく息を止めた。数秒、無言で見つめあう。そしてこちらが恥ずかしくなるくらい正直に頬を赤らめると、震えながら立ち上がった。

「なあ、ヴァイスと俺って本当に知り会いなんじゃ……」


 いまにも倒れるのではないかと不安になるくらい、ヴァイスの体が揺れている。ラルフは恐れつつも答えを聞くべく彼女を見上げた。彼女が真実を話すのならば出来る限り受け止めよう。そんな誠意を込めて見上げていたのだが、ヴァイスはあらぬ方向を向いて耳を塞いだ。


「ああ、天国のお父さんが言ってるわ。『もしかして俺ら知り会いじゃない?』なんて声をかけてくる奴は、たいてい一度限りの男だって!」

「やめろ! 俺は真剣に……なあ、ヴァイス、俺は本当のことが聴きたいんだ」


 もう一度繰り返そうとした途端、予期しない方向から声がかかった。


「いいところを邪魔しちゃってすみません。あの、助けてくれて、ありがとうございます……」

「ありがとうございます。このご恩は一生忘れません」


 どこかで聞いたような感謝の言葉を述べたのは、死肉蟲に囲まれて二人残っていた探索者だった。盾を持った老年の騎士然とした男と、年端もいかない踊り子のような恰好をした少女。彼らは死肉蟲の死骸のなかに座り込んだラルフに、感涙しながら頭を下げていた。


「…………」


 ラルフとヴァイスは無言で顔を見合わせた。


「気付かないと思っているのか……?」


 静かな声で口火を切ったのは、ラルフだった。ヴァイスはラルフに先を譲るように後退した。彼女の頬はまだ赤いものの、眉間に皺をよせ鼻を摘んでいた。

 ラルフも内心は同じ行動をとりたかったが自制。落ち着いて立ち上がり、衣服の埃を払う。衣服には脂肪や肉塊がこびりついているので、それは四肢に異常がないことを確かめるための建前上の動作だったが――異常がないことを確認し終えると、ラルフは二者に向き直った。

 騎士と踊り子は困惑したように眉尻を下げて、ラルフとヴァイスを交互に眺めている。


「気付かないってなんのことですか……?」

「魔物を誘導して探索者たちを殺しているっていう略奪者……、あんたたちのことだろう?」


 迷宮へ出発する前にアリサが注意を促していた。


「え?」

「あんたたち、自覚してないかもしれないが魔物の誘導剤の匂いが染み付いてるぞ」


 腐臭にも似た、甘いような刺激的な匂い。それは魔物の誘導剤の匂いである。死肉蟲があれだけ群がっていたのも納得できる。周り一帯に匂いが充満しているのは、おそらく誘導剤の入った瓶を間違って割ってしまったとか、そういうありふれた失敗が原因だろう。そして自ら殺した探索者の遺骸置き場から発生した死肉蟲に襲われた。


 略奪者というのは半ば推測だったが、二人は否定することもなく形相を一変させた。


 二人とも異様な光に両眼に宿し、騎士は持っていた大槌を構え、踊り子は投擲用の小剣を取り出す。それは肯定と同じだった。


「ただの一単語で爆裂を操る魔術師を、私ははじめて拝見しました。隣の貴方もです。戦闘狂という言葉が相応しい方をお見かけしたのは、幸運なのでしょう」


 騎士は厳かに述べた。


「戦闘狂って……」


 改めて自分の行為を思い返せば戦闘狂という評価を得るのは当然かも知れない。とはいえ他人の口からそう聞くのはなかなか衝撃的である。ラルフが口を挟もうとしたが、ヴァイスが背後から衣服を引っ張り制止してくる。


「私たちが全力で戦っても、あなたたちには勝てないでしょう」


 踊り子は声に苦渋を滲ませていた。己の劣勢を悟り、それでも立ち向かわねばならないときの覚悟を秘めた目。ルッツが見せていたものと同じだ。ヴァイスが制止してくるまでもなく、ラルフはその眼力に気圧されて言葉が出なかった。


「……でも、やらねば殺されるなら……! わたしたちの団長は『諦めずに生き残る方法を探せ』と言いました! だから……」


 踊り子が主張し、騎士も重々しく頷いた。


「だから、恨まないでください!」


 それは無理だ。というわけではないが、ともかく、望む通りに死んでやるのは不可能だった。踊り子が頭部に向かって投擲した二本の小剣をラルフは難なく避けて、その際に掴んだ。迷宮で魔物が投擲してくる石塊を避け続けるという訓練を何年もやらされたラルフにとって、人間が投げる短刀を掴むのは造作もない。だが踊り子自身はまさか掴まれると思っていなかったのだろう、頬肉を引き攣らせた。踵を返して退避するという発想も出てこないのか、その場で凍りついている。そうしているばかりでは的になるのは明白だというのに。

 ラルフは間髪入れずに、投擲し返した。


「――ひゃあっ!」


 短い悲鳴をあげて踊り子は倒れ、地面で悶える。血が指の隙間から吹きだす。苦悶の唸りと呪詛が叩きつけられた。これで踊り子は戦闘不能だ。ラルフは太刀をだらりと下げたまま、騎士を見遣った。

 騎士は踊り子に一瞥くれてやると、深く項垂れた。


「……お願いがあるのですが」


 ラルフが目で続きを促す。騎士は嘆息すると、大槌を手から放した。呆気なく泥と死骸のなかに大槌が埋まっていく。

 元々なんの決意も浮かんでいなかった弱々しい眼光は、すっかり失せていた。


「彼女はいいので、私は見逃してくれませんか?」


 騎士の裏切りを責めたてるように踊り子の唸りが高くなり、呪詛が続く。

 ラルフが太刀を握る腕へと力を込めるのを、背後から手が止めた。なにか言うよりも早く、ヴァイスが前へと踏み出した。


「そうね、おとなしく恭順を示すなら見逃してやってもいいわ」

「ヴァイス……?」

 ラルフは目を見開く。

「ただ――一つだけ条件があるの」


 あの泉で身体を洗って、その匂いを流してからね、と。

 ラルフが振り返った先で、彼女はこれまでにみせたのことのない慈母のような笑みを浮かべた。



 第三層の探索にかかった日数はおよそ二日。想定していたよりも短く終わったのは、ひとえに騎士が泉に潜む魔物をすべて誘導してくれたおかげである。ラルフは余計な戦闘をせずに済み、さらにその死体に運よく絡まろうとした大蛇を発見し捕獲することができた。


「あの踊り子ちゃんは生きるための道がそれしかなかったんじゃないかなって思うんだけど……。ラルフは非道だよね。わたしに負けず劣らず」


 帰路の途、甲虫の背に揺られながらヴァイスは呟いた。


「いままであの子は生きるためになんの罪もない人たちを殺した。その罰だ。それに中途半端に罪を背負って生きるのは辛いから」

「慈悲深いことのように言ってるけど、それ、私はおかしいと思うわよ。どうせ仲間の前ではこんなことしないくせに」


 二人の間を突風が凪いだ。

 そのラルフの態度をどのように受け取ったのか、ヴァイスは頷いた。


「迷宮に法はない。なにをしてもこいつに考えを改めさせることはできない、本当に救えない。そう思ったなら、私刑を実行することすら赦される……というより、それを止めることができない。でもだからって、過ちを犯したらすぐに殺そうと言うのは冷血だよ。時間が経って罪の重さを知ることができたら、更生する人間もいるわ。そして罪の重さを知って、生きながらの罰を受ける」


「そうじゃないやつもいるだろう」


「そうね。だけど更生しない人間と、更生できる人間、どうやって判断するの? どうやって分けるの? まったく良心の欠片を持たない残酷な人間はたしかに存在するけど、その一方で更生する人間も存在するのは事実だわ」


 それはまるで自分のことを語っているかのような、迷いない断言だった。

 人間は変わる。記憶を失えば、死を前にすれば、生きてさえいれば、――性根を入れ換えて残りの人生を贖罪にあてることができる。

 だがラルフにはヴァイスがそんなつまらないことを言う意味が理解できず、眉を寄せた。


「……あの子を殺したことを責めているのか?」


 ヴァイスはすかさず否定した。


「いいえ、全く。暴力をぶつけようとしてきた人間に、それ以上の暴力をぶつけて勢いを挫くのは必要なことよ。その勢いが余ってそいつの喉元を抉ったって仕方ない。因果応報、自業自得。わたしもそうやって血を敷いてきたし、これからだってきっとそうなる。道を進む覚悟ができているから、わたしは振り返らない」


「じゃあなぜ?」


「ラルフはどうしたら変わることができるんだろうねって、言いたかっただけ」


 沈黙するほかなかった。考えているふりをしていたが、実はヴァイスの言うことにそれほどの興味はなかった。


 頭を占めるのは、アリサのことだ。どれだけ探しても、アリサがくれたお守りは見つからなかった。失くして死ぬようなものではないのだし、無事に帰宅したあとに謝罪すればいいだけかもしれない。だがそれでアリサが悲しむかもしれないと想像すると、重たく悲痛なものに感じられた。一時だけでもアリサが悲しむようなことはしたくない。

 彼女の顔を見れなくなってから、もう五日が経っていることに溜息を吐くほかない。


 迷宮の空で燃えていた陽は、砂原の向こう側に堕ちようとしていた。

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