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二章 破滅

二章 破滅


 棺のような漆黒の匣から銀髪の少女が起き上がり、ラルフの手をとり囁いていた。四方を白く輝く壁に覆われた小部屋の中心に、危険物か崇める対象のごとく安置されていた彼女は一体何者なのだろう。端正な顔が間近にあることよりも、血腥い吐息や死人のような手に触れられていることが恐ろしく心臓が高鳴る。ラルフが考えるに彼女は怪物に等しい何者かなにかだが、夢の中の幼い自分はその判断に迷ったらしく女の手を無碍に振り払わない。

 彼女が身を寄せることをゆるし、黙って耳を澄ましていた。


「……忘れないでほしい。……の……幸福を祈ってる」


 吐息に混じって、掠れた声が囁く。言葉の意味までは解らない。彼女の碧眼は今際のごとく濁り、声もやはり弱々しかった。

 耳が痛くなるほどの静寂に包まれて、ラルフはなぜだか茫然として彼女の顔を見つめていた。眦の下がった優しげな双眸は、見知った誰かに似ている。名前も知らないその少女はラルフを憫笑すると、抱きしめようと手を伸ばした。


「……敵はみんな殺しなさい」


 ラルフの肩に触れようとした途端、彼女の体から剣が生えた。身体を強張らせたかと思うと、それまで浮かべていた微笑が歪み、呼吸を一つ吐きだし脱力した。力を失った体は棺のなかに倒れ込んで、痙攣し、それから二度と起き上がる素振りをみせることはなかった。彼女の背後には子供が立っていた。霧氷より凍えた目をした、薄い桃色の髪の子供。彼女は女を見下ろし、荒い息を吐いていた。

 しんと静まり返った空間は、凍えるように寒くなった。

 ラルフは白い息を吐きながら、棺を凝視していた。どうしても目を逸らせなかった。





 目覚めると脂汗が全身を覆っていた。


 昨夜寝たままの自室である。ラルフは起きたあともシーツに包まり、しばらく茫然としていた。まるで心を穿たれたように、あの光景が目蓋の裏を離れない。

 化物に手をとられ、その死に際に立ち会うような出来事には心当たりがない。行き倒れていた頃の記憶は欠落しているものの、その間にあったことだとは考えにくい。なぜなら場所や人物に不可解な点が多いからだ。きっと読んだ小説に影響されて見た夢だろう。衝撃的な過去があるのは寓話の主人公だけだ。ラルフは他人より少し幸運なだけの脇役である。


 汗に塗れ粟立った肌は不快だったが、脳裏で咀嚼すれば気分も落ち着いてきた。寝台から立ち上がり、深呼吸して鏡を覗き込む。ついで水道の蛇口を捻り、顔を洗おうとした。

 アリサを連想させる美しい髪色をした儚げな少女、その面差しは誰かに似ていると思った。


 鏡のなかの自分と目が合った。鼻筋や眉の間隔、彫りの深さ。なによりも灰色の眼に、あの少女の面影が重なる。


 蛇口を握っていた手が止まった。蛇口から溢れ出ている水の音すら聞こえない永遠の静寂の間、足元から這いずってきた使者がたしかな感触を持って足首を掴んだ。言い知れない怖気が骨の髄まで染みわたり、恐ろしい予感がよぎる。

 しかし正体を暴こうとすれば現状の危うい関係に亀裂が走る気がした。亡霊に対する恐れよりも、アリサとの生活に支障をきたすことのほうが嫌である。疼き訴える理性を諌め、鏡を見ないように注意を払いながら顔を洗い終えた。手早く着替えると、アリサのいる居間へと向かう。

 薄い窓硝子越しに朝のはじまりを告げる鳥の鳴き声が聞こえる。陽の光が細く差し込む居間では、アリサが厚い本を読みながら長椅子に座っていた。


「おはよう、ラルフ。朝食は食べる?」

「おはようございます、アリサさん。いえ寝坊したのでもう行かないと……。今日はこれから買い出しに出て、夜には迷宮入りする予定です。では行ってきます」

「お茶くらい飲んでいけば? ……って言っても聞かないんだろうね」

「ええ、待たせているので」


 荷物を持ち戸に手をかけて、アリサのほうを振り返る。室内は殺風景で、そこにいるアリサも人形めいた白い顔に曖昧な表情を浮かべていた。


「そこまで想われているなんて、ラルフの仲間に嫉妬しそうだよ」

「すればいいじゃないですか」

「これくらいで嫉妬してたら、ラルフがお嫁さん連れてきたときどうなるんだろね。あたしも歳とったなあ。ああやだやだ」

「…………」

「あ、迷宮だけど、魔物を誘導剤で牽引して探索者にぶつけて略奪する輩がいるみたいだから気を付けてね。それとこれ」


 アリサが机に放っていた銀の鎖をぞんざいな手つきで投げて寄越す。ラルフは宙で受け取り、銀の鎖を広げた。括りつけられた赤い結晶は、魔物の体内でしか作られない魔結晶だ。魔術の媒体にもなり、治癒術を施す際の燃料にもなる。魔結晶に彫られた刻印を認めて訊ねた。


「なんの魔術ですか?」

「いまここで種明かしをしたら面白くないでしょ? それが効果を発揮しないことを祈っておいたらいい」


 アリサは金色の双眸をラルフに向け、目を細めた。


「いってらっしゃい。約束のことを忘れないでね」



 晴天。迷宮都市の青空市はいつにもまして活気づいていた。

 仲間たちといつもの場所で落ち合い、迷宮の入口前に所狭しと並ぶ露天を巡る。怪しげな風貌の露天商が相場の倍以上にふっかけてくる値段を、相場に戻すように――余裕があればそれ以下にするよう交渉で説得し購入する。夕方になればラルフの背負う背嚢には長期間保存させることだけを考えて生み出された不味い固形食品と応急品、それに大量の水が入っていた。ヴェルマやフロレンツ、アメリィの荷物も似たようなものだ。例外はエマで、彼女の背嚢には小冊子が積められている。

 迷宮の毒を見抜ける人間が一人くらいいなければならないとはルッツの弁であり、エマがこの小隊に加わったのは彼の因縁のおかげである。彼女は戦闘には向かないが考古学的智慧をもち迷宮の至るところに描かれている古語の解読に長けていた。


 準備を終えた五人は昼食を摂り、ついに迷宮に潜る。


 蛇の顎を模した門をくぐり延々と続く坂道を降れば、薔薇の咲き乱れる一階層へと辿り着く。今夜は第一階層の穏やかな魔物が生息している森林地帯を目指す。そこで待機している依頼の先導役と合流し、目的の人間の動向を見張るつもりだった。

 目指す場所には竜もいなければ、人食い土竜もいない。迷宮の他の場所と比較すれば、危険の少ない行軍になるはずだった。しかし予定は予想外の事件によって大きく崩れることとなる。

 指定された場所に赴いたラルフたちが見たのは、無惨に転がった骸だった。



 桃色の薄気味悪い空が暮れようとしている。ラルフは焦燥を抑えながら、今後の行動を脳裏で組み立てた。合流するはずだったのは、総勢六名の小隊。ルッツと面識があり、今回の依頼もその縁を頼りに持ち込まれたものである。

 だが待機していたはずの六名は殲滅されていた。血溜まりのなかを這って逃げようとしたのか、周囲には血痕が跳ね散らかされた痕があり壮絶な死様を晒している。野営の準備をはじめようとしていたところだったのだろう、幌の横には酒瓶と鍋の類が転がっていた。

 傷だらけの遺体に、夥しい出血。まだ死斑が現れていないことから、数十分前に殺害されたのだと思われる。

 素人目にみても殺害方法の手際がいいとは言い難い。一方で戦闘準備をした形跡がないことから、襲撃が反撃の余地すらないほど迅速に行われたのは明らかだ。

 ラルフは血飛沫のついた瓶の一つを手にとる。これだけの小瓶が転がっていながら、割れたものは一つもない。暗殺者の手法にしては手荒すぎ、魔物にしては綺麗すぎる。


 衝撃的な光景に嗚咽をあげて泣き崩れるアメリィを、ヴェルマが支える。フロレンツはあまりのことに茫然としており、エマも顔を背けていたがしばらくするとラルフに向き直った。


「どうするの? これから」


 こんな状況でもエマは毅然として、ラルフを見つめた。

 内心の動揺を暴かれぬよう、努めて冷静に応えた。


「とりあえず……、襲撃者の正体を明かす手がかりを探そう。直に夜になる。死臭につられて魔物が寄ってくるのも時間の問題だ。調査できるのは陽が落ちる前に限られている」


 その指摘にヴェルマとフロレンツは我に返る。アメリィが蒼白のまま立ち上がり頷いた。


「そうね。賛成だわ。襲撃したのが魔物なのか、人間なのか、はっきりさせておく必要があると私も思う。人間なら引き上げたほうがいい。……それも一刻も早く」


 仕事を割り振った結果、フロレンツは周囲の警戒、ヴェルマとアメリィは遺体の傷の検分、ラルフは持ち物の調査、エマは幌のなかに積まれた物資の調査を担当することになった。それぞれが分担した仕事を果たすべく、動き始める。


「フロン、あまり離れるなよ。人影や魔物の姿が見えたらすぐに戻って報告してくれ」


 フロンは注意に対して、無言で首肯した。

 西の彼方の山々には、迷宮の太陽――赤黒く凝固した塊が接したところだった。残された時間は少ない。

 ラルフが最初に疑ったのは強盗の線である。アリサの仲間が被害に遭ったように、迷宮内部ではことごとくその手の殺人が起きやすい。けれど少なくとも小隊は魔物狩りをしていないようだった。綺麗な刃を見れば魔物を斬っていないことも判る。魔結晶もなければ財布も懐に仕舞われたままだ。ラルフは引き抜いた武器を鞘に戻し、遺体の横に置く。

 隣からアメリィが遺体の傷口を確かめながら苦くこぼしたのが聞こえた。


「幾度も刺し貫かれています。針が巻かれた杭か、棒のようなものでしょうか。ほんとうに惨い……、こんなことを人間がやるなんて。魔物がやったのだと仮定したほうが納得いきます」


 細い指が遺体の瞼に触れ、恐怖で見開いていたままの目を閉じさせてやる。ヴェルマも彼女の横で頷き推測を肯定したが、ラルフはその可能性を信じきれなかった。

 魔物ならば皆揃って人を喰うはずである。遺体が綺麗なまま放置されているということは、何者かが殺害に及び遺体を放置して逃亡したと仮定したほうが筋は通る。

 見張るはずだった犯人に悟られ、襲撃されたのか。

 脳裏に浮かんだ想像を、かぶりを振って否定する。なんの確証もない想像に執着するのは危険だ。いますべきなのは襲撃者の正体に関する情報を探すことであり、正体それ自体の推理ではない。

 ラルフは止めかけた手を再び動かし、被害者の荷物に手がかりがないか探る。無くなっているものや、魔物を興奮させる狂騒剤などの薬物、ほかに犯人が置いたものなどはないか。遺体の配置には、最初からなにか違和感があった。眺めただけでは解りにくかったが、この形はいつか見た――。


「ラルフ、こっちはおかしなものなんてなかったよ。綺麗すぎて怖いくらいなにもない。強いて言うなら食料が多すぎるかも。でも男が六人もいればこのぐらいの量もあり得ると思う。干肉に乾燥果物、瓶に詰められた酪……宴会ができそう」


 幌から調査を終えたエマは、気楽な口調でそう報告してきた。


「親睦会でも開くつもりだったのではあるまいか」


 ヴェルマが重々しい口調で言えば、エマは沈黙し、アメリィは項垂れた。口元を抑え、細い肩を震わせる。


「迷宮じゃ理不尽な死に方は珍しくないって解ってたつもりで、心構えはできていたつもりで……でも」


 様子がおかしいアメリィを、皆が注視する。彼女の瞳孔は開き、息が乱れていた。胸に手をあてているのは、生きているのを確かめているのか。

 彼女の丸い頬を一筋の涙が伝い落ちた。


「こんなのってないです。娘さんの誘拐事件を解決したいと望んだだけなのに、ないですよ……。こんな終わり方をするなんて、こんな終わり方をさせられるなんて許せない。許さない……絶対――」


 息継ぎをするように、声が途切れた。

 だがアメリィの憤怒と悲哀が混ざりあった尋常ではない形相を見れば、言葉の続きを想像するのは容易かった。いまの彼女には普段のような柔らかさは微塵もなく、追い詰められた鼠が発するのにも似た気迫が発せられていた。

 エマとヴェルマが目配せし、ラルフも異変を感知したが、それ以上アメリィの激情に触れるのは躊躇われた。幼くして家族を亡くしたアメリィが、家族やそれに準じる仲間に執着しているのは周知の事実である。誰だって触れられたくない過去がある。

 ラルフはアメリィが落ち着くのを待つついで、物色する手を止めなかった。

 そしてようやく目的のものを発見する。


「……こっちは見つけたぞ、手がかり」


 ラルフが無造作に皆の目に見えるように振って見せたのは紙片――遺体の薄く開いた口に噛ませられていた伝言である。苦労して取り出した紙片には、血文字でしたためてあった。悪趣味に顰め面になりながらエマに手渡した。


「犯人か、それに汲みする人物が残した手掛かりだろう」


 エマが受け取り、素早く目を走らせる。


「古語で書いてある。ええと、『真実を明かす前に裏切り者を裁かねばならない。裏切り者に告ぐ、汝の行為はすべて無意味だ。潔く投降せよ。汝が罪を認めれば我らの偉大で残虐な神も汝の罪を赦し、最大の罰は免れるだろう』だって」

 偉大で残虐な神。裏切り者。真実。今はもう知識ある者にしか解読できない古語。


 文章からこれを記した者が錯乱している気配は否めないが、何者かへと宛てた伝言であることは察せられる。三人は顔を見合わせた。


「なあ、このなかで、古代の神の儀式について心当たりがあるやつはいないか?」


 ラルフは遺体の横に座り込んだまま、仲間を仰ぎ見た。三人は困惑したように目配せし、やがてエマが疑問を投げた。


「……古代の神ってなに? リティス神教の前ってことは、西方で信仰されている双神教のこと?」

「いや、それ以前だ。迷宮が造られた頃に信仰されていたっていう、名前も解らない神々のことだよ」

「そういう存在がいるとは聞いたことあるけど、詳細は……」


 エマが至極申し訳なさそうに頭を下げる。他の二者も同様だった。

 迷宮は現在大陸の主流信仰となったリティス神が造ったと囁かれているが、それは間違いだ。大陸にリティス神教が伝来するよりも早く、迷宮は創造されていた。古代の神が人間に与えた試練の場とも祭壇だとも目され、正確な用途は未だ判明していない。解っているのは迷宮が創造された当時、生贄を求める絶対的な神がいたということのみ。生贄に関しては周辺地域の歴史資料から事実だと確認されており、贄を捧げるための儀式の資料も存在している。ラルフは偶然にもアリサの書架で目にしたことがあった。


「……そうか。資料を読んだのはずっと前だから、もしかしたら間違っているかもしれない。だけどこの遺体の置き方は」


 十字を捻ったような歪んだ形を、宙に描いてみせる。


「似ているんだ。とても……その、古代の神に捧げたという生贄の儀式で描く形に」


 ラルフはどう説明してよいか迷いつつ、資料を思い返す。儀式の紋様は人間で描いたりしない。特別な縄で描き、周囲に家畜や果物やその他の供物などを設置するだけのはずだ。人間の生贄が捧げられたのは特別な日だけで、暦に沿って行われたのは判明している。

 こんな出鱈目な方法、神を篤く信奉しているのならばやらないのではないだろうか。

 可能性があるとすれば、より多くの人間が覚えやすいよう改変された簡略版の儀式を信じる者か。それともそう見せかけたいだけの者か。

 ラルフが思うに、犠牲者となった者たちがこの場所で殺されたのは偶然ではない。なんらかの理由がある。ラルフが考え込んでいるのを見て、三人も詳細を知らないながらに事態の成り行きを察したようである。空気に不安の色が混じり始める。


「仮にこれがなんかの宗教の内紛で、誰かへの伝言だとすれば、その誰かがここへ来ると判っていたのか?」

「ここへ来ると確定していた人物って、拙僧が見張ろうとしていた不審な人間か。その不審者、このあたりを巡回しているのを目撃されているという話だったが?」

「じゃあ一番可能性があるのは、そいつかな。見張られているのに気が付いて逆上とか、抹消とか……? いや、違うかな……」


 エマとヴェルマが言い合う。その間、ラルフは黙って考え続けていた。

 無言で遺体を睨み、唸るように告げた。


「……撤退だ」

「…………え?」


 アメリィがきょとんとして訊ね返した。その背後では太陽が沈みかけている。これ以上の長居は無意味である。魔物たちもそろそろ死臭に気付く頃合いだろう。ラルフは再度、三人に向かって促した。


「撤退だ。調査は終わった。夜に入る前に草原を通り抜けないと、伝言をあてた人物……伝言を見たか確認しにくる人物と対面してしまう可能性がある。それは絶対に避けなければならない。なぜなら俺たちでは勝ち目のない相手だからだ」

 成人男性を苦もなく殺す能力をもった集団、もしくは単独犯。

 後者であることは様々な能力的な面からして考えたくないが――、彼らと出会ったときになにが起こるかは想像に難くなかった。

「え? ラルフさん?」

「ヴェルマ、フロレンツを呼んできてくれ。エマは俺と一緒に移動だ」

「うん、判った」

「心得た」


「え、ま、待って!」


 動きだそうとした三人を、幾分か動転するような気配を含んだ声が止めた。


「ラルフさん、ヴェルマさんも! 待ってよ!」


 踵を返そうとしたヴェルマも足を止める。怪訝そうに見遣る先には、頬を紅潮させたアメリィがいた。丸い目を見開き、焦燥に駆られながらも説得するような身振りをしてみせる。


「ど、どうして……ッ!? 犯人が来るって判るなら、どうして……撤退なんかッ!」


 彼女はローブの隙間から覗く下肢を恐怖に震わせながら、真正面からラルフを捉えた。緊張に口の端を引き攣らせ、言葉にならない混乱と憤怒を表情から迸らせている。怒気を孕んだ声音はいつにも増して高く、林全体の空気が震え反響した。


「どうしてこの人たちを殺した殺人鬼を咎めないで帰ろうって言うんですか!?」


 癖のついた茶髪が逆立ち、倍以上に膨らむ。勢いづいてラルフを指さす彼女の目には、激情が灯っている。


「この人たちは誘拐された娘さんの手掛かりを探すために来たのに、理不尽なよく解らない理由で殺されてしまったんですよ。この人たちの家族は恨みますよ、殺人鬼だけじゃなくわたし達のことも! いまここから逃げたら、永遠に父親の仇を討つ機会なんて失われるかもしれないのに! 誘拐された子が救出されたら、その子にわたしたちが自分たちの安全を考えて撤退したって言えるんですか? わたし達、誰かを助ける手伝いをするためにここへ来たんでしょう?」


「アメリィ、落ち着いて聞いてくれないか。俺は仲間を一番に……」


 気圧されつつも、ラルフは立ち上がり彼女へと近寄った。


「十分、落ち着いています。冷静すぎて怖いぐらいなのは、ラルフさんのほうです! 儀式とかなんとかってわけわかんない理由を並べ立てて……身の安全ばかりを優先するんです……」


 アメリィの言葉で、ラルフは凍りついた。

 エマは二人のやりとりに呆然としていたがふと我に返り、ラルフとアメリィの間に割り込む。


「アメリィ、落ち着いて。いまここで諍いを起こしてもなんの解決にもならないわよ、ね? 落ち着いて、冷静に話し合いましょ」

「いえ、エマさん。わたしはラルフさんに言っているんです! ラルフさんの判断は、わたし達の安全を護るためです……。判ります。でも、でも、ルッツさんは人命を優先だって言ってました!」


 ルッツ、という名前にラルフの息が詰まる。


「わたしはラルフさんが責任を問われるのを避けて、責任を脅かさない安全を選んでいるだけに見えるんです。臆病だから、責められるのは嫌だから、痛いことが嫌だから、安全な橋しか渡りたがらないように見えるんです! 違うなら違うって言ってください。わたしの目を見て、言ってください! そうしたらわたしは黙ります。わたしが誤解してたって認めます……!」


 アメリィはこれだけ言うのに、途方もなく疲れた顔になった。言葉を失くし息すら潜めるラルフと、息も絶え絶えになったアメリィがお互いを見つめあう。アメリィの双眸からは涙がとめどなく流れ落ちている。ラルフは自身が無表情であることを自覚していた。


「ラルフ……さん」

「………………」

「言えないんですね、ラルフさん」


 ラルフの喉が鳴った。

 隊長扱いされることを真に受けたわけではないが、そう振舞うことが求められてるならやろうと考えていた。それが小隊のためになるならば苦労を強いられたって構わない。ラルフがそこまでするのは、小隊を護りたいたいからだ。人命も優先されるべきだが、小隊の仲間の安全を優先させたい。――その判断が罵られると、どうしていいのか判らない。


「……俺は仲間のことを一番に考えていたつもりだ」

「ええ、そうでしょうね。そうです、ラルフさんはそういう人です」


 アメリィはこれ以上の言葉に出てこないとでもいうふうに、かぶりを振った。そのまま座り込み、嗚咽をあげはじめる。子供のように丸くなった彼女にエマは優しく近づき、その背を撫でた。ヴェルマはラルフを一瞥したが瞬間的に伏せ、アメリィのほうに気遣わしげな視線をやる。


 一寸先も見通せない暗闇のなかへ背中を押されたように、ラルフを漠然としていながらも広大かつ底知れない不安感が襲った。自身のやってきたことは間違いだったのではないだろうか。アメリィを泣かせて、誰も救えず、口先だけだと非難される。頭蓋の内側で未だに反響している声に、弁解できる余地がないことは誰よりも自分が知っていた。


 だが自身の非道さに衝撃を受けている場合ではない。


 ラルフは唇を噛み、西の空を睨んだ。きつく結んだ口を薄く開き、腹の底へ溜まっていたものを吐きだすように深呼吸する。それから仲間の安全と顔を見たこともない誘拐された子供の顔が、脳裏で天秤にかけられる。アリサの声とルッツの遺言が浮かんでは消えた。

 時間の流れを、ひどく遅くに感じた。

 返答を間違えれば、後悔と罪悪感は一生背中に張り付く。


「ごめん……、アメリィ」


 やがてラルフはゆっくりと息を吐きだしながら謝罪した。

 アメリィが顔をあげた。言葉の激流を解き放ったあと気力すら失ったように、彼女の肩は小さくくたびれていた。

 血臭を肺に溜め、一息。目の奥に鉄臭さが染みるのを自覚しながら、ラルフは真摯な目を彼女へと向けた。


「アメリィが正しいよ。俺が間違っていた。……撤退はしない」

「え……」


 エマも、ヴェルマも驚愕してラルフを見た。


「ヴェルマ、すまないがフロンを呼んできてくれ。話はそれからにしよう」

「頼まれた」


 駆けていくヴェルマの背を見送り、ラルフはエマとアメリィに向き直った。エマは背嚢から水を取り出しアメリィに渡しながら、ちらちらと横目で様子を窺ってくる。


「……ねえ、危険だよ」


 孤を描く唇が、掠れた声を吐きだす。


「ああ、もちろん。解ってる」

「……わたし今期のレポートさえ提出できれば卒業確定で、家に帰してもらえるのに。お母さんと会うの二年ぶりなのに」

「護るから。俺もアリサさんと約束したし、帰らないわけにはいかない」


 アメリィが腫れた顔をあげた。仲裁に迷うかのように二人の顔を交互に見比べる。二人は微笑しており、一見して争っているようには見えなかった。


「ずるいよね、ラルフは。助ける人間を一人しか選ばない。無か有、滅ぼすか生かすか、分かり易い二択しか選ばない」

「……悪いと思ってる。この埋め合わせは生きて帰ったら必ず」

「ラルフの悪癖だよ」

「すまない」

「ほら、もうそこでばらしちゃったじゃない。……もう決めちゃったんだから、いいけどね。嘘だってなんだって、私が従うと決めた人がそう指示するなら従う。私だって好奇心で付いてきたんだし……この状況で犯人が私たちのこと楽に帰すとは思ってないし」


 遅かれ早かれ、殺人鬼はラルフたちの存在に気付く。撤退を選べるのは、殺人鬼が動き始めるまでのわずかな時間しかない。エマもラルフも悟っていた。

 アメリィだけは愕然として二人に視線をやったが、エマは何も言わずその背を優しく撫でつづけた。


「一般人をただで帰す生温さなんて、殺人鬼が持っているわけないんだよ。私たちが相手どらなきゃいけないのは、誘拐犯と邪教の狂信者の両方、もしくはそれら二つの犯行を成し遂げた同一人物になった。彼あるいは彼らを出し抜くのは大変なことだよ。でも、アメリィ、それでも立ち向かっていきたいんだよね?」


 アメリィの体が震えた。俯き地を見つめるアメリィは、やがて小さく頷く。


「わたし、いまでも恨んでますから。わたしのお父さんを殺した人間を討ってくれなかった、お父さんの仲間を。遺される悲しみは知ってますから。繰り返すなんて許せないんです!」


 小さく震える声で吐きだすと、沈黙が三人を覆った。皆それぞれの想いを巡らせていたが、それを口にだす者は皆無だった。風に揺れる木の葉の音がささやかに聞こえる。三人は遺体の傍から離れ林の中に腰を降ろし、陽の暮れた空を眺めながらヴェルマたちを待った。

 迷宮の第一階層は穏やかだ。空を横切る鳥もいない、身動きする虫もいない、林全体に生気がない。しばらく息を潜めて、周囲を警戒していると、粗雑な足音が近づいてきた。


「大変だ、フロンが……! フロンが……!」


 遠くから林目掛けて駆け寄ってきたのはヴェルマである。いち早く声に気付いたラルフが立ち上がり彼を迎えでる。ヴェルマは慌てた様子で口を開こうとするものの、意味のある言葉にならず埒があかない。見る見る間にヴェルマの顔は土気色になり、ただならぬ事態を予感させる。ラルフも顔を青くして、ヴェルマに詰め寄った。


「フロン、フロン……ああ、ああ、あいつ! あいつが!」

「落ち着け。フロンがどうしたんだ!? おい、ヴェルマ! ヴェルマ! はっきり言え!」

 混乱と憔悴を同時に浮かべてみせるヴェルマを、ラルフは揺さぶる。

「あいつ、あいつ…………、襲われてる。魔物に」


 頭が真っ白になり、耳を疑った。

 ヴェルマはそれだけ言うと、表情を一気に失った。その反応が決して演技などではないと判り、ラルフの全身に震えが走る。怖気と恐怖で自身の顔から血の気が引いて行くのを、他人事のように感じた。

 ――ラルフの甘い判断が招いた事態だ。後悔と焦燥が背後から押し寄せ背を重くするが、それに引き摺られる場合ではない。ラルフは舌打ちして後悔を打ち切り、強張った体に鞭打ち走り出した。すぐ背後からヴェルマが追い縋る。


「ヴェルマ! そのフロンがいる場所は、どこにある!」

「あ、あ、あっちだ。あの木、あの木の傍だ」


 ヴェルマが指さしたのは、林の先端部分にあたる鬱蒼とした低木が連なる箇所である。たしかに物見にはうってつけだが、それほど離れずとも良いと言ったはずだ。どうしてと責めたくなるのを抑え、固く唇を結んだ。

 警戒しながら、速足で近づく。


 徐々に近づき見えてきたのは、低木ではなかった。蠢く無数の黒い葉と、不自然に歪み屈んだ白い幹。白粉が塗してあるような不気味な白さを晒す幹には、昆虫めいた複眼が浮いている。『骨樹』――第一階層内では最大級の体長を誇る魔物である。通常は木に擬態しており、獲物が木の下を通ったところを啄むように狩りをする。骨状の幹に生える棘には神経毒があり、その針を弾き飛ばすことで獲物の身動きを封じることを得意とする。前衛に勝ち目はなく、魔術師が二人いようと相手するには難しい魔物だ。骨樹は基本的に待ち伏せしかしないため、迷宮探索者は不自然な木の下を通るのを避ける。しかし骨樹は沼地や河川の傍に分布する魔物のために――、フロレンツは油断していたのだろう。


 ラルフは間近にある木陰に身を隠し、魔物を窺う。ヴェルマも手近な木陰にしゃがみこんだ。


 フロレンツはまだ生きており、黒い葉に似た無数の手に捕えられて躰を痙攣させながら、それでも剣を持とうと必死になっていた。けれど幹に生えた棘が、ちょうど硝子を割るように、二度三度と弾け飛び彼の体を刺し貫いた。

 世界は呼吸すら忘れたように無音に包まれていた。フロレンツが叫んだのを、壁を一枚隔てたように遠い感覚で聞いていた。おそらくヴェルマも同じだっただろう。その瞬間が来る前に救助に行かなければならないことも忘れ、二人は見入っていた。


 そして二人が見守るなかで骨樹は黒い手をざわめかせ、普段は隠している口許を露出させると喚きたてるフロレンツの肩に喰らいついた。この世のものとは思えない絶叫が、耳を劈く。吹き上がる鮮血が魔物の白い幹を濡らし、周囲を朱色に染め上げていく。痙攣する躰に骨樹はさらに深く歯をたてた。――咀嚼音のような、粘つきながらも硬いものを折る音が聞こえる。それから骨の髄まで舐め回し啜るような、乱れた息。


 二人の前で骨樹はフロレンツの四肢を千切って行く。至極、愉しそうに――というより、食べやすくするための当然の行為として、なんの躊躇いもなく人間の躰を引き裂き口へ運んでいる。そこには人間が唱える尊厳というものは一切ない。人間の想いを、命を、未来を、魔物がいかに容易く踏みにじるか痛感させられる。


 醜悪な化物の最低な食事風景を絶句して見つめていた二人だったが、ラルフはふと呼吸の仕方を思い出した。同時に噎せ返るように濃密な血の臭いを知覚し、堪えようのない吐き気が腹の内から湧き上がってくる。堪えきれず、嘔吐する。口を抑えて指先に当たった肉の感触にまた不快感が増して、幾度も嘔吐する。濃い血潮の匂いが、耳の奥を刺激する肉の音が、視界で細切れにされた肉が、人間の――それもフロレンツだと思うと狂いそうになる。視界は未だに魔物の食事風景を捉えつつも、恐怖と興奮がない交ぜになりそれらは真っ赤になったり霞んだりした。

 ラルフは早まっていく動悸に呼吸を短くさせながら、口元を拭う。腹の裡で煮えたぎる激情が理性を溶かしつつある。自覚はできたが、だからといって止められるかどうかは別の問題だった。

 ラルフは魔物を見据えたまま、ヴェルマが隠れていると思われる方向に声をかけた。


「ヴェルマ、ここまで案内してくれてありがとう。二人のところに戻って彼女らを護ってくれ。骨樹は毒を持っている。巻き添えにならないためにも、応援には来るなと伝えろ」


 ヴェルマが息を呑んだのが、離れていても判った。


「だ、だが骨樹は十人いても討伐が難しいと……!」

「問題ない。俺よりあの二人のことを、頼む。俺が帰らなかったら問答無用で退避だ。大階段まで戻れ」


 ヴェルマは返事をしなかった。あるいは風に紛れて、聞き逃しただけかもしれない。ラルフは返答を聞くのを待たず木立を飛び出し、魔物目掛けて疾走していた。背に背負っていた太刀を抜き放ち一心に駆ける。


 足音を潜めずに近づいたために魔物もラルフの存在を察知し、屈んでいた姿勢から咢を持ちあげた。全長が二階建ての建物ほどにもなる巨躯。近づけば幹が人間の脊椎に似ていることと、白骨を思わせる鋭角的な顎ばかりが目立つ異形であることを確かめられる。骨の幹の下からは乳白色の触手が伸びており、遠目に見れば根だと誤認しただろう。

 骨樹は地を這うような鳴き声を轟かせ、ラルフを威嚇した。空気を揺るがす吐息に片手に握った太刀も震動したが、その程度では諦めきれない。


 アメリィが大切な家族を喪ったとき助力してくれなかった人間を恨むと言っていた、その言葉がいまさら実感を伴って心臓を鷲掴みにしていた。仲間を目前で喪ったときですらこんなに悔しいのだから、その場に立ち会えなかった後悔は、なにもしてやれない無情さは、果たせない間に何倍にも膨れ上がり身を蝕むに違いない。


「――――畜生が」


 孤を描くように毒針の射程へ飛びこみ、一息で肉薄。水平に構えていた太刀を返し斜め下から根の部分を切りつけた。柔らかな肉を断ち切る感触が伝わり、不快感が背筋を這い上ったのも束の間、次々とラルフ目掛けて根が襲ってくる。ラルフは余計な思考を挟まずそれらを斬っていく。骨樹はラルフのことを危険な敵だと認識したのか、生命線である魔結晶が埋め込まれた咢を近づけてこない。代わりに無数の触手を伸ばし、躰を絡め取ろうとしてくる。四方から迫ってくる触手を斬るのには力もいらず、技もいらず、けれど霧を着るように際限がなかった。

 泉の水のごとく枯れず湧き出す触手を切ってばかりいるのでは、肝心のフロレンツがいる場所まで進めない。あの咢を粉砕せしめることができない。

 ラルフが執念を込めて骨樹の貌を、一瞥したときだった。骨樹の咢から、嫌な音がした。同時に背後から静かに忍び寄っていた一本の触手が、足首に絡みつく。予期しないことに動揺し思わず振り返ったラルフを、四方から迫ってきた触手が一気に囲いこんだ。もんどり打って転んだ足首を触手が掴みあげ捻り持ち上げる。


 目の裏で閃光が弾け焼け付くような感覚に襲われ、ラルフは刹那、視力を失った。再び目が見えるようになると、地面が遠くなっていた。

 吊るしあげられた。ラルフは慄然として、頭上にある地面を眺めた。自身の額から血液が流れ落ち、苔むした地に吸い込まれるように消えていく。


「…………あ」


 横を向けば、間近に骨樹の咢があった。ふいに脳裏に抓んで踊り食いをする情景が浮かんだ。死の恐怖に肌が粟立ち、全身が痙攣したように震える。口の中に鉄錆びを舐めたような味が広がり、全身が硬直しかける。だが復讐の念は鎮火することなくさらなる燃料を見つけたかのごとく閃いた。太刀を握っていた指先に力が行渡る。


「……フロン」


 ――フロレンツは神経毒にやられ満足に動けなくなった身体で、この恐怖を味わっていたのか。

 それはさぞかし辛かっただろう。いまラルフが味わっている恐怖なんかより深く、心の底まで絶望したに違いない。仲間の顔を順番に思いうかべ、救助を求めると同時に呪詛を吐いたに違いない。


「…………仇を」


 フロレンツに死の原因はラルフにある。

 仲間を優先すると表明した矢先にこんなことが起きてしまった。全部、ラルフの責任だ。決して許されることではない。ラルフがフロレンツに警戒などと指示したことが間違っていたのだ。隊長失格だ。

 やはりラルフでは、ルッツに追いつけない。

 それをもっと先に打ち明けていれば――。終わってしまったことを考えてもしかたない。しかし、先のことを考えられる状況ではない。

 フロレンツが死んだ。ラルフが死なせてしまった。死んだ仲間に対してしてやれることは一つだけだ。


「ごめん、フロン」


 ラルフを持ち上げた触手が咢に近づく。震えながら太刀を構え、咢に向けて振るう。太刀は細針のように弾かれて地面へと落下した。

 獲物に抵抗されるのに飽きたのか、骨樹はラルフの首へと触手を巻き付けてくる。抗おうにも空中でたいした動きができるはずもなく、無様に悶える。意識が明滅し、要領を得ない単語がちらついた。アリサと、幼い頃に見た死の断片。片腕が千切れ、弾き飛ばされて、中身を散らした死体。無数の棺。


 霞がかった視界で、咢が開くのを見た。咢の隙間から紅く輝く魔結晶が覗いた。


 ああ、死ぬのか――と悟る。仲間を護りたいと口先で言いながら、けれど仲間の窮地を我が身可愛さに助けに行くこともできず、死んでから仇を討とうとして失敗して。なんて馬鹿なのだろうか。なぜこんなに痛い目に遭っているのだろう。せめて自分に力があれば、フロレンツだって助けられたかもしれないのに。どうして自分は――


 後悔と呼ぶには醜く、懇願と呼ぶには浅ましい想いが駆け抜けた。意識が朦朧として次第に自分がなにを考えているのか分からなくなる。顔が腫れていく苦しさだけに悶えながら、意識が奪われる。


 朦朧としながら、ひどく懐かしく全身の血流が疼くような――詠唱を聞いた気がした。


「其の物は温和な貌をして、いつの間にかそこにいる。生まれついたときから底を知らぬ食欲を秘め、何者であろうと貪欲に求めたがる。何人たりとも其の物の召喚に逆らえない。何人たりとも熾されない者はない。無情、無限。正体は虚。其の物の名は――『灼(origo)』」


 刹那、真紅の炎が虚空に閃き、熱く乾いた烈風が吹き荒れた。その熱は骨樹を芯から揺るがすと同時に、喉を締め付けていた力が解きほぐれた。咄嗟に受け身をとり、地面を転がった。涙目になって咳き込みながら、手探りで剣を掴んで重い体を引き摺るように退避する。

 なにがなんだか理解が追い付かないものの、何者かに助力されたことは察しがついていた。肉の焦げる悪臭が鼻孔を刺激する。骨樹は突然の攻撃に身を捩り、悶えていた。

 アメリィは触手だけを溶かすような、高度な魔術を扱えない。そもそも骨樹に魔術攻撃は効きにくいはずである。ラルフを助けたのは強力な魔術師であることは間違いない。警戒したラルフは骨樹の向かい側を睨んだが、魔術師はそれを遮った。


「わたしがあいつを横転させるから、あなたは魔結晶の破壊だけに集中して。良いって言うまで近づいてはだめ」

「……な、にを……」


 問いかけようとしたラルフの耳に届いたのは、透った声で紡がれる詠唱だった。


「永劫の無への導き――『光あれ』(suscitatio)」


 骨樹は黒い手をさざめかせ、機敏な動作で触手を魔術師に向かわせる。


「咎人は永遠に土に降る塵でも数えていればいい――『偽善の制裁』(salvatio)」


 しかし直後、触手は見えない壁に阻まれ、千切れた。擦り切れるようにして端から微塵になって行く様は、まるで見えない刃が枝葉を剪定するかのように分かり易く、だからこそ圧倒的で、ラルフは一瞬だけ茫然とした。骨樹は抵抗しようと頭上の葉をも動員させ、魔術師を狙うが一向に直撃する気配はなかった。むしろ動かせば動かすほど切れていくようで――、一分も経たないうちに巨体は傾き、骨樹は無防備に咢を露出させた。


「――いまよ!」


 指示を出される前から、ラルフは走り出していた。触手の残骸を避けて、まだ蠢く触手を退けて進む。ようやく咢まで辿り着く。まだ魔物は触手を動かしていたが、ラルフには届かない。

 ラルフは息を止め太刀を振り降ろした。振り降ろされた太刀は、結晶に罅を入れ粉砕せしめた。

 同時に骨樹は最期の力を振り絞り、棘を放った。まだ完成しきっていない未成熟な針は、本来のものより短く飛距離もなかったが、至近距離では避けられるはずもない。ラルフは躰に棘の鋭い先端が刺さるのを感じながら、今度こそ意識を失った。

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