一章 歪
一章 歪
竜が吐き出した炎を華麗に避けて、ヴェルマが魔物犇めく敵陣へ果敢に飛び込む。鈍器を振り回す彼が道を拓いたのに続いて長剣を持ったフロレンツ、さらに少し遅れてラルフも突入する。鈍重な鎧を纏ったヴェルマを金髪で華奢なフロレンツが追い駆けていく光景は、童話にでてくる兎と亀の足比べを想起させる。彼ら二人を追い立てるのが猟師であれば寓話の一幕そのものなのだが、生憎ラルフは貧相な体の青年だった。
ラルフは薄紅色の空を旋回しはじめた竜を目で追いつつ、悠長な足取りで二人の後に続いた。
竜の羽ばたきで暴風が巻き起こり、砂塵が高く舞い上がる。視界一面に吹き荒らす赤銅色の砂は厄介だった。
ラルフたちが目指しているのは、迷宮『悪魔の植物園』の第二層、荒野の中心にある竜の巣だ。彼らが請け負った依頼は、竜の餌の怪鳥に攫われたという装飾品を取り戻すというものである。組合の掲示板に、置き忘れられたようにその依頼だけが残っているのをラルフが見つけたのだった。
この依頼は一見して子供のお遣いのようだが、遂行するには竜の相手をしなければならないという大きな課題があり、面倒な依頼として倦厭されていた。もちろん行く手を邪魔するのは竜だけではない。巣の周囲には小さな蜥蜴型の魔物が、竜の食事のおこぼれを狙って屯しておりそれも進行を妨げる障害物となる。
だがラルフたちにとってはそんな小さな魔物など障害物ではない。重ねて依頼の遂行料が少額であろうと気にする事情があるわけでもない。ゆえに依頼を受けた。小隊にとっては『誰も受けなさそうな依頼』を遂行すること自体に重大な意味があるのである。
竜は低木をなぎ倒しながら滑空し、巣に近づいてくる不届き物――先頭のヴェルマを狙うが、ヴェルマはその巨躯から想像できないほどの敏捷な動きでそれを避けた。フロレンツが口笛を吹いたが、直後に突風が彼を襲い余裕ではいられなくなる。
「ちょ、せっかく整えてきた髪が! 髪が!」
「フロレンツ、おまえは女か」
口笛のお返しにヴェルマがそう口を挟む。だがフロレンツは本当に髪しか気にならないようで、踊るように変に足を弾ませながら自身の頭を撫でている。
背後から彼らを見ていたラルフは竜が相手ですら変わらない彼らの緊張具合に苦笑いしていたが、上空を飛んでいた竜の変調を察知して叫んだ。
「来る! 体勢を低くしろ!」
旋回していた竜が、ラルフの声に反応したかのごとく振り向く。連絡用の魔結晶で指示を待っていた後方待機の魔術師が詠唱に移っていた。
「穿たれる兇暴(cor cutis lacrima)……抗い守護しろ(salvatio)……――『障壁(gelo impulsus)』」
魔術師の詠唱によって神秘は貌を与えられる。硝子片のような無色の欠片が急速に三人の頭上に形成され、そして――竜が吐き出した炎の竜巻が訪れる。放たれた灼熱の光は周囲の空気を焦がし視界を染め上げる。
ラルフは体ごと地に伏せた。
一瞬後、戻ってきた視界には障壁のおかげで無傷の三人がいた。
「うわあああ、あっつ! 髪が! 髪が! 焦げた!」
障壁は間一髪、炎が頭上をなめていくのを防いだはずなのだが、フロレンツだけは運が悪いことに間に合わなかったようである。彼は頭髪を抑え小走りになり、ラルフの距離が近づく。
「そ、そんな……ごめんなさい! フロレンツさん! わたしの詠唱が遅いばっかりに!」
「フロレンツ、アメリィは悪くない。訂正しろ」
焦って泣きそうな声で謝罪するアメリィを、ラルフが遮る。納得いかないのはフロレンツだ。
「訂正ってなんだよ! 焼けたものは元には戻らないんだよ! 切るしかないんだぞ!」
「いいだろ別に。七三分けにこだわりがあるわけでもないくせに」
「こだわりはないが! 愛着はあるんだよおおおぉ、うわあああ」
「うるさい。そこまで気になるなら刈れよ」
泣き言を一言で切って捨てながら、ラルフは目前を指さす。その先にはさきほどの竜の攻撃で焼け焦げた蜥蜴の死骸と、巨大な巣の端がある。
上るには少々高いが、成人男性並の体格が三人いるのだ。だれかが犠牲者に、もとい誰かが誰かを持ち上げることも可能だ。瞬間的にラルフとヴェルマの視線が交錯する。ヴェルマは頷き、ラルフの案を了解した。仲間とは良いものである。
「フロン」
ようやく追いついたラルフは、フロレンツの肩を叩いた。大きく跳ねた肩を、籠手に包まれた手で掴み離さない。
「いっそのこと全て失くしたら、その心労もすこしは薄くなるんじゃないか? 良い散髪所、紹介してやるよ。今日の依頼主が開いているところらしいんだが」
ラルフの顔をみたフロレンツは瞠目したまま凍った。
「髪、どうにかしたいんじゃないか? すべて失くしてしまえば、もう地毛が傷つくのは気にしなくて済む。悩みがなくなって完璧になれる」
「いやべつに完璧なんて興味ないし、剃るつもりもない」
「大事なものは失うことで、その真価を知ることができるという。逆説的にいうなら、真価を知りたいなら手離せ」
「なんかその逆説、激しく間違ってる気がする! なんで今ある大事なものを自ら切り捨てなきゃいけないんだ!? っていうか、なぜ僕の背後をとったまま動かないんだ? なんか嫌な予感がするんだが……」
不信感を露わに、顔を渋くさせるフロレンツだが、ラルフはそんなことにかまわない。本人の意志など訊ねれば嫌がるに決まっているのだから。
ヴェルマがいち早く竜の巣の足下にたどり着く。登るためにあれこれと悩んでいる時間はない。上空では憤怒を滾らせ先ほどの倍の速度で旋回する竜の姿がある。三人の近くに大事な巣があるから竜はブレスを吐くことはできない。だが直接叩きのめす決断をされると面倒だった。
ラルフは覚悟を決める。
深呼吸するように深く息を吸い――止める。一息にフロレンツの背に手を置き跳躍した。手のひらに硬くあたる胴当てやその他の防具の端――それらを感じながら自身の体をフロレンツの上へと、つまり肩の上へと押し上げる。力を加えられすぐさま体勢を崩そうとする軟弱な体の、その肩に靴底を押し当てた。
「ラルフ、おまえっ!」
土台から非難の声が浴びせられたが、降りるわけにもいかない。
「すまない、身軽さだけが取り柄なんだ」
「なんかその台詞、むかつく!」
その罵倒が放たれたときにはラルフはもう、フロレンツから飛んでいた。人間は立体跳躍ができないわけではない。鍛えることで猫のごとく跳躍することは可能だ。
まるで軌道が定められているように、ラルフは一直線にヴェルマに飛び移る。そしてヴェルマの掲げられた腕に自重がかかった刹那、立体跳躍のための筋力が真価を発揮する。
ヴェルマが時を併せ後押ししたこともあり、まるで飛び上がるかのごとくラルフの痩身は巣の内部へと消える。工場の作業員のように手慣れた動作だった。
唖然としていまの出来事を見ていたフロレンツは、ヴェルマに腕を掴まれ我に返る。疑問を浮かべた彼にヴェルマは無表情で頷く。
「え? え?」
「すまん。力の強さだけが取り柄なんだ」
「ごめんなさい。わたしも支援だけが取り柄なんです。……潜在(disperatio)。覚醒し(maeror ira odium)、苛烈なる本性を示せ(clamare)――『身体強化(audax optatio)』」
だめ押しで唱えられた詠唱に、フロレンツは一拍遅れて事態を察した。
「受け身の心構えを勧める。あと万が一骨いったらすまん」
「やめ! いや、こわい!」
「おまえの取り柄は潔さだ。拙僧の取り柄は筋力だ」
「聞いてないんだけど、なんなの? ヴェルマの力自慢大会なの? やめ、おま、ちょ、投げたら呪うからな!」
「えいっ!」
抵抗むなしく、可愛らしくもない気合い――否、殺意のこもった低いかけ声とともにフロレンツは宙へ放られた。空中高く飛行した彼は、年甲斐もなく絶叫した。
危険な仕事をこなして成功報酬を受け取ったあと、その金をどう使うか。分配するのが常識的な解答だろう。しかしラルフが加わるこの小隊では最初の用途が決められていた。すなわち祝宴だ。
サラシェ王国は山岳を利用した牧畜が盛んな国である。北から東へ走る天を衝くような山脈から凍える空気が降りてくるおかげで、気温は一年間を通して寒冷。食肉以外の国内自給率は平均を大幅に下回っている。そんな背景もあって王国内で迷宮は、金鉱と同一視されていた。迷宮に生息する魔物から得られる紅い欠片――魔結晶は、様々な魔術の媒介や魔導具に用いられ、国内外問わず需要があったのである。宝石よりも需要の幅が広く、紡績よりも他国との差別化を図れる。こんな美味しい商売を王国が放置しておくわけなかった。
王国はまず迷宮に赴く者を『迷宮探索者』と定義した。次に魔結晶を適正価格で買い取る組合を作り、身分を問わず迷宮に潜ることを奨励した。探索者の人口が増えると次第に迷宮の周囲で迷宮探索者向けの商売がはじまり、更なる人が集うようになった。
大通りを歩いているだけでも道の端に開かれた露店の類が目を楽しませてくれる。様々な人間が集うため、諍いは絶えないものの、基本的には賑やかで楽しい街である。
ラルフたちが行きつけとなった料理店の敷居を跨ぐと、いつも小隊が好んで座る場所には先客がいた。
「やあ、おつかれさま。ラルフ」
片手をあげてラルフに笑顔を見せるのは、褐色肌に金髪の長身女性。開襟シャツとパンツという独特の服装に、武器の類を持っていない丸腰。小隊の非戦闘員である、エマだった。
「今日のお話、聞かせてよ」
迷宮探索者向けに開かれた、賑やかな酒場。喧騒際立つ卓に座り、小隊は互いを労っていた。
「今日一番おもしろかったのはフロレンツが泣いたところだな」
ラルフがそう言えば、その横の未だ大剣を背負ったままのヴェルマが頷いた。
ヴェルマの対面の席に座っているのはフロレンツ。その隣に柔和な顔立ちの少女とエマだ。少女のほうは素朴さが滲み出る柔らかな微笑を浮かべぼんやりとしており、エマはフロレンツのほうへ流し目を送っている。対照的な二人に挟まれフロレンツは嬉しがるでもなく恥ずかしがるでもなく、悲壮な顔をしていた。
「へえ、私も行けば良かったかな?」
エマは呟くように言った。
「お偉いさんの服飾品探しですよ。エマちゃんが来てもおもしろいものじゃなかったかと。それにほら……」
魔術ローブを纏った茶髪の少女――アメリィはうっすらと赤らんだ顔で、机上に広げられた地図を指す。エマは素直に地図を覗き込んだ。
「今日はここへ行ったんです」
地図にはサラシェ国指定、第一迷宮『悪魔の植物園』の全体図が描かれていた。高低を示す線は一定せず、大河の流れは半ばから途切れ源流を知ることはできない。まるで神様がパズルのピースを当て嵌め間違えたように、氷山や湿地帯、樹海が脈絡なく混在している。迷宮は古代の強力な魔術によって支えられている魔物の庭園だ。あらゆる物理法則を無視しているのは言うまでもなく、アメリィもそこには触れずに指を走らせる。
第一階層の入り口を辿り、入り口そばに設けられた巨大階段を降る。第二層の雨林を通り抜け、砂漠を避け、西へ。荒野ばかりが目立つ地点を、指が叩いて示した。赤い印がつけられているのは竜の巣だ。
「エマちゃんは蜥蜴嫌いだって言ってたでしょう」
「うん、見るのもやだ。故郷じゃ普通に食用なんだけど、こっちの文化に慣れたら拒絶反応でちゃって」
ほかにも点在している赤い印を、アメリィは微笑み指で撫でた。
「楽しかったですよ。竜は怒り狂っちゃって炎吹きだしまくって、フロレンツさんが何度も死にそうになってました。その度にフロレンツさんは華麗に避けていました」
「フロンがそんな活躍したなんて、私見てみたかったなー」
エマは控えめに隣のフロレンツを窺ったが、肝心の彼は酒瓶を煽って泣いていた。嗚咽すらなく静かに涙を流していたので、彼女は気づかなかったがフロレンツは飲むと泣く類のひとである。エマはフロレンツから体を離し距離を置いた。その様子を眺めていたヴェルマが頑張れと囁くように言ったが、気のせいであろう。
エマは取り直すように、ラルフに笑顔を向ける。
「それで次に受ける依頼はもう決まってるの?」
ラルフは杯の中身を舐めながら、静かに返事した。
「いや、でもひとつだけ気になるものがあるんだ。最近多発している誘拐事件に関する依頼だ」
「誘拐事件? 子どもたちが次々と姿を消しているあれでしょ? 犯人の痕跡がまったくないから、誘拐とは断定しきれないって昨日の日報には書いてあったけど」
ラルフは鞄から最新の日報を取り出しエマに渡した。彼女はすばやく紙面に目を走らせると、盛大に憤った。
「なんでこう嫌な事件ばっかあるかなー! 誘拐とか珍しくないけどさ……」
迷宮都市では人攫いの噂はめずらしくはない。魔結晶の採取が一般人にも許可されている迷宮という土地柄、どれだけ厳しく検問をしても不逞の輩が流入してくるうえに、都市内の貧民層が暮らす区域では路上で生活している子供たちの姿も見受けられる。甚だ遺憾だが浮浪児の一人や二人を誘拐するのは難しいことではないと言える。それなのに紙面にまで掲載され連日追及されているのは、今回の事件はただの人攫いではないという見方が強いからだ。
屋敷に住む中流階級の子供たちも姿を消した。貧民区の子供とは違い、彼らには彼らを世話する侍女がついている。貴人の生活は、厳正な治安組織の厳重な警備網で守られている。そう易々と、しかも複数人がまとめて姿を消すのはあり得ないことだ。
「……なんでも事件を嗅ぎ回っている怪しい人間がいるんだってさ。そいつが子どもの失踪となにか関わりがあるんじゃないかって」
「物騒ですね……」
ラルフが捕捉すると、顔色を悪くしたアメリィが口元を抑えた。
「して、ラルフ。具体的な依頼の内容とは」
ヴェルマが催促すると、四人の視線がラルフに集中する。
「ああ、迷宮でそいつがよく出入りしているらしい。具体的な行き先を調べてこいだってさ。あとこれ依頼者は失踪した子どもの親である探索者だから、公の依頼ではないんだ……。危険が多すぎるから、みんなの意見を聞きたい」
ラルフの迷いを汲んで、卓に沈黙がおりる。周囲の卓の活気がやけに耳についた。
誘拐事件はいまいちばん市民が関心を寄せる出来事だ。六年前にも他の迷宮都市で似たような事件が起きており、そちらは未解決のまま子どもたちも帰ってくることはなかった。
言うまでもなく危険な仕事だ。もしかしたら怪しげな人物は独自に調査を進めているだけで、事件解決に対して友好的かもしれない。しかし事件の規模から言っても、一介の迷宮探索者が関わるべきではない事件であることは確かだ。
とはいえラルフがこの依頼を選んだのは理由がある。前に隊長を勤めていた男の口癖だ。「危険を冒す行為だとしても、他人を助けられる可能性があるなら迷うな」と彼は言った。彼は頑としてその主張を変えず、最後には怪我をした探索者を庇って死んだ。彼の行動を真似ることが正しいとは考えてはいないが、彼の意志を継ぐことが可能ならそうしたい。
皆それぞれが彼の最期を反芻し、束の間粛々とした空気が頭上を覆った。
「やりましょう」
重い空気のなかで、はじめに口を開いたのはアメリィだった。
彼女に続いて他の仲間も首肯した。エマなどは幾度も頷いて賛成を示している。
「わたしたちは解ってます。ラルフさんの言いたいこと。わたしも同じ気持ちです」
「大丈夫。新隊長、もっと自信もって。どーんと来い!」
「ラルフの提案に同意する」
「うう、ラルフ隊長に一生ついていきますし、僕はこのなかじゃ新入りですけど……こんなによくしてもらったの初めてなので」
四人の視線を一挙に受けて、ラルフは顔を曇らせた。まだ十代で少年めいた背格好の彼が隊長と呼ばれても、周囲には滑稽に思われるだけだ。秀でて頭がよいわけでも、率先して敵にぶつかっていけるわけでもない。今の居場所を自力で掴んだわけでもなく、幸運で生きている。そんな自分が隊長を名乗るのには負い目を感じる。
「俺は隊長じゃないって何回も言っているだろ」
「そう謙遜しないでって。たしかにラルフはこのなかじゃ最年少だけど、頼りにしてるからさ!」
エマは胸に手を置き、屈託のない笑みを浮かべた。
ヴェルマは静かに頷き、アメリィも控えめに微笑する。
フロレンツも笑ってみせようとしたが、涙で顔はすでにぐしゃぐしゃになっており、笑っているのか歯を剥きだしにしたいのか判らない。同性からみても端整な顔をしていることは瞭然なのに勿体ない。いかに彼が残念であろうと信頼に響くわけではないが、それでも彼が痴態を演じるたびに笑ってしまう。ラルフは思い出して笑いそうになるのを噛み締め、彼らの顔を順番に眺めた。
前衛特化の寡黙なヴェルマ。
治癒術と魔術を同時習得しているアメリィ。
迷宮の遺物について調査する大学生のエマ。
商家の三男坊でありながら、家出をしてきたフロレンツ。
そしてラルフ。前隊長――ルッツに居場所を貰った、なにができるわけでもない剣士。
目を伏せ、様々な想いを吐息とともに吐きだす。
「……俺はやっぱり隊長に向いてないし、これからも隊長を名乗るつもりないけどみんなのこと仲間だと思ってる。感謝している」
暖かな空気、心地よい居場所。求めていたものとは多少違うような気がするが些細なことだ。頼りにされるのは嬉しい。居場所があることは幸せだ。ラルフが控え目にはにかんだのを、四人は明るい笑顔で受け入れた。
ところが――無粋な邪魔は、油断したときに限って現れるものである。背後に殺気を感じてラルフが振り向けば、案の定、武器を持った五人の男が近づいてくるところだった。先頭を歩いているのは金髪にそりこみを入れた火傷顔。一目見て忘れられなさそうな出で立ちの彼は、ラルフ一点に視線を据わらせて向かってくる。
彼は周囲を威圧しながら、懐かしい旧友に会った時にするように笑いながら手を振った。
「霊剣の遣い手さんだろ? ちょっと俺らと遊んでほしいんだけどォ、いま、どう?」
言葉遣いこそ軽薄な若者が女性を誑かすのにも似ているが、斧や籠手などそれぞれが武装していることをみれば侮っていい相手ではない。ラルフは顔を顰めて、男たちを睨んだ。仲間たちも彼らを警戒し、和やかな雰囲気が立ち消え卓に殺気が満ちる。
「遊ぶってどういう意味だ? それに霊剣の遣い手はもう死んだ」
周囲の客はまだ事態に気付いていない。
ラルフは平静を装って会話をしようと試みたが、彼らは仲間同士で顔を見合わせただけだった。彼らの嗤笑するような雰囲気にラルフは悟る。――彼らとはどう頑張っても、話が通じないようだ。
「死んだだァ? そんな話は聞いていないなァ。俺らは霊剣の遣い手に借りがあんだわ」
果たしてラルフの推測通り、男は陰鬱な笑みを浮かべながら唐突に抜刀して卓に叩きつけた。盛大に皿が割れる音が響く。
乱闘に気が付いた周囲の客が悲鳴をあげながら逃げ出す。
ラルフは舌打ちし、椅子を蹴飛ばし退避した。ヴェルマは屈み、アメリィもフロレンツに庇われて回避を成功させる。だが身のこなしになんの心得もない一般人であるエマの行動は遅い。
エマは瞠目し立ち上がるのに時間をとられているうちに――回転しながら飛来してきた皿の破片が、深々と首筋を裂き赤い軌跡を描きながら虚空へと飛んでいく。
エマが呆然と目を見開き自らの傷付いた首筋を指先で確認しようとするのを、ラルフは網膜に焼き付きそうなほどの衝撃と共に見ていた。いまのが剣筋ならきっとエマの頸は飛んでいた。ラルフの首筋が粟立つ。
「愉しく遊ぼうぜェ、お互いのどちらかが死ぬまでな。霊剣の遣い手の二代目さんよォ」
ラルフはエマから視線を外して、鞘に納められたままの短剣を革帯から引き抜いた。飾紐には紅く輝く魔結晶が揺れている。
エマは死なない。治癒術を操れるアメリィが傍にいるのだから、絶対に死なない。それどころか傷痕すら残らないかもしれない。けれど血が逆上せあがって、収まりがつかない。
「……そこまで言うなら受けてたってやるよ。お前らみたいな輩に、絶対に霊剣は抜かないけどな」
周囲の客が悲鳴とも歓声ともつかぬ声をあげて壁際まで避けた。
「ちょ、ちょっと待ってください! うちの店で乱闘は――せめて外に……」
「うるっせえ! 霊剣の遣い手は逃げ足が速いって噂なんだよ! ここで見つけたのが運命だ。黙って見てろォ!」
制止に入ろうと近寄ってきた店員を、男のうちの一人が斬り伏せる。一際大きな悲鳴があがり、治安維持部隊を呼ぼうとするのを遠くに聞きながら、ラルフは目前の男にのみ意識を集中させていた。意識せず、唇の端がつりあがっていく。お互いに狂気の滲んだ笑みを浮かべる。視線の交錯。それが合図だった。
両者がほぼ同時に床を蹴り、互いを目指して駆けだす。
背後で仲間たちと他の男たちが争いはじめる音が聞こえたが、ただの雑音に過ぎない。男は椅子などの障害物をものともせず哄笑しながら大剣を構えて迫ってくる。外見の軽薄さとは対照的に彼の腕は確かなようで、その構えには一片の揺るぎもない。実戦慣れしている。だが――ラルフだって十分に戦闘は経験している。アリサとの演習で研ぎ澄まされた神経が、大剣が空を切る音を捉える。大仰に刃を振れば、視認せずとも場所は知れる。ラルフは直感した。左を抉りに来る――。半身を捻りつつ、ちょうど傍にあった椅子を蹴り飛ばしながら避ける。読み通り、大剣は左脇を狙い斜め上から降ってきた。
そして安い椅子の、薄っぺらの版板に突き刺さる。一瞬だけだが、男の反応が遅れる。
だがラルフにはそれだけで十分だった。軽く跳ねて避けながら、懐に飛び込み、顎を掴む。背後に回り込み片腕で顎を固定、もう片方の腕で頭の上部を軽く押す。頸椎を捻り潰す構えである。男が大剣を振るおうとするも一拍遅れている。男の無暗な動作が版板と共に貫いた敷座布から綿を舞い散らせているなかで、ラルフは彼の傍で囁いた。
「これで遊戯は終わりでいいか?」
男は膝から崩れ落ちた。彼の手からあっさりと滑り落ちた大剣は、大きな音をたてて床に落ちた。
迷宮都市での私闘は禁止されているが、その私闘が生死に関わらない場合は罰せられない。都市内での私闘が数え切れず、いちいち付き合いきれないためである。もちろん仕掛けた側が曖昧であったり、死亡が確認されたりすれば裁判にまで発展するのだが――この場合、店の被害なども出ているので、ラルフは口頭で聴取されただけで正当防衛が認められた。濃い疲労を浮かべた治安維持部隊と捕縛された襲撃者の残党が帰って行くと、ラルフたちは酒場の復旧作業に追われた。見世物のように先程の戦闘を見物していた客たちも口々に文句やら苦言やらを言いながら手伝っている。
ちなみに斬り伏せられた店員は、客の治癒術によって一命を取り留めていた。いまは安静にする必要があるために治療院に運び込まれている。
「ラルフさん、お疲れ様です」
「やっぱり強いねえ、強すぎるよ。もう少しすれば隊長は自分しかいないって気付くでしょ」
エマはにやりと笑った。その首筋には紅い掠り傷程度の瘡蓋があるだけだ。アメリィの治癒術による、超回復のおかげである。
「とりあえず今日は飲みましょう! 竜を相手にして、お疲れ様なんですから」
なぎ倒された椅子や皿の破片を片付け終わると、アメリィが店員を呼び止め、追加の酒を注文した。緑色の酒瓶が大量に運ばれてきて、ラルフのための果実水も卓の上に揃う。大皿に山ほど盛られた芋のサラダと野菜、肉類過多のご馳走を囲み、五人は二度目の乾杯をした。
何事もなかったように店内は活気を取り戻していた。端のほうでは興がのり竪琴を演奏しはじめた者もいる。軽妙な音楽に乗せられて歌い出す者もいて、酒場はより賑やかな雰囲気に包まれた。
時間が経ち、酒場の熱気が倦怠を帯びるようになるとお開きである。
酔い潰れたフロレンツをアメリィとヴェルマが送り届けることになった。酔い覚ましの治癒術をかけながらの帰路である。必然的にラルフはエマを送り届けることになる。
ラルフは卓上にひろげていた地図を仕舞いこむために一度持ち上げる。赤い印はまだ数えるほどしかない。行った場所に印をつけるというのは、ラルフが思いついた試みだった。
エマも地図を覗き込み、笑った。
「なにを見ているの? ああ、それね。いつかみんなで埋めるって約束したものね」
「ああ。そうだ。それとエマ」
配分を終え軽くなった財布から、ラルフは銀貨を取り出した。仲間の誰の姿もないことを確認し終えて、エマの手に握らせる。周囲の騒音のおかげで二人の会話を聞く者はいないだろう。
「返済はいつでもいい。母親の病気、はやく治るといいな」
「うん、いつもありがとう……。ラルフ、このお礼は必ず」
ラルフとエマは強く頷きあう。手袋を填めたままの、彼女の手を握りこんだ。酒場の酩酊した空気にあてられたのか、妙な高揚と使命感が胸を満たしていた。
「おかえり、遅かったね! ラルフ! っていうか、なんか臭いんだけど!」
「いきなり酷いんですけど、アリサさん……」
ラルフの自宅――養い親であるアリサの借りている家に戻ってきて開口一番に浴びせられたのは文句だった。玄関の細い石柱にもたれかかり、アリサは半眼は半眼でこちらを睨んでくる。白髪に金の瞳の痩躯は、少女めいていて年齢を気取らせない。飾り気のない淡い色のワンピースからは華奢な肩が露出しており、青白い肌は艶めかしさより不健康極まりない印象を与えた。
夜の空気は寒い。上着を脱ぐついで、彼女の肩に乗せてやる。気休めでしかなかったが、やらないよりはましだ。だが汚れた革靴を脱ごうとして足下にも目をやったとき、彼女が裸足であることに気が付いてさすがに顔を渋くした。
「暖かい格好をしてくださいと言ったじゃないですか。身体を悪くします」
「平気よ。あたしの身体は気温程度でどうにかなるほど柔じゃないもの」
「なんですかその自信……。とにかくまともな服を着てください」
ラルフが怒ってみせても、彼女は笑うだけでまじめに取り合う様子はない。
「なんか今日のラルフ、説教臭いんだけど。疲れてる? 女の子にフラれた?」
「そんなわけじゃあないですよ。ただその恰好が寒そうだから」
「ふふ、心配してくれてありがとう。でも夜はあたしの時間だから、好きにさせてよ」
目元が悪戯っぽく歪む。雪色の肌と色素の抜けた目から推測できる通り、彼女は太陽光を受け付けられるほど身体が強くない。太陽がでている時間帯は外出せず、家に閉じこもってばかりだ。光を受け付けないということは、病に対する抵抗力が落ちているということでもある。そのため散々彼女に自分の体を大事にするように言い聞かせているのだがいうことを聞く気配はなかった。彼女は自身を大事にできない。いつまで経っても変わらない悪癖に嘆息する。
「俺はもうあなたと出会ってから五年経ってるんですよ」
「うん、それが?」
小首を傾げて問いかける。
ラルフは無垢な目を向けられたことで一瞬だけ答えに詰まり、それから顔を背けた。
「……あなたもその分、歳くってるんですよ」
「だろうね!」
アリサはあっけらかんと肯定し、顔を綻ばせる。
「っていうか、五年も経っていれば、ラルフがおっさん臭くなってあたしに説教してこようとするのも当然よね。なんか時の流れを感じちゃうな。嬉しいけど寂しいな」
「…………そういうアリサさんは、変わりませんね」
頭から足先を眺めてみるが、本当に変わりない。強いて言うならば迷宮や荒事に関与しなくなったことで筋肉が落ちてきている点だが、そこは容姿相応の体つきに戻ったようにも思える。アリサの実年齢など知らないが――それにしても、若く見える。
「まあね。あたしは外道だからこの美貌だけが救いなの。あたしの可愛さは永遠だし」
アリサは笑いながら手を引いて家のなかに導いてくれる。ラルフは子供扱いに不満げな顔をしつつも、おとなしく手を引かれた。
「自分で可愛いとか言わないでください、気持ち悪い。っていうか、寝ていても良かったのに」
「いいの。掃除がちょっと長引いたから、夕飯の準備も遅かったし」
「夕食はなんだったんですか?」
「んー、ラルフの好物。キャベツで肉を巻いて煮たアレだよ。食べる?」
「いただきます」
「そう言うと思ってた。ちょっと待ってて」
アリサは手でラルフを制すと、厨のほうへ消える。
部屋のなかは薔薇の意匠が施された長椅子と机があるのみで生活感がなかった。ラルフが迷宮に潜るようになってから、アリサは身辺を整えはじめ、いまでは生活感のない空間が当たり前となっている。単調な形の家具のほかに唯一、部屋の主の趣味を感じさせるのは、部屋の隅に置かれた雑誌と日報の山である。ラルフは暇つぶしのために、雑誌の山から表紙も碌に確認せず冊子を引き抜いて、長椅子に座った。
彼女が消えた扉の向こうでは食器の用意をする音が響いてきた。
すでに机上に用意されていた硝子盃にお茶を注ぐ。花の薫りが室内に広がる。馴染み親しんだ花の薫りに、身体が芯からがほぐれる。
雑誌を手に取り頁を捲ってみると、どうやら連続怪奇殺人事件に関する資料らしい。最初の数頁は磔にされていたという被害者の惨状と、犯人が魔術師である痕跡について言及している。しかし少し後のほうになると被害者が加盟していたという魔物崇拝の邪教についての憶測が記されていた。手描きの獣と旗の象徴は凝っているが歪んでいる。陰惨な血の薫りと、煮えたぎる邪念が滲み出る事件だ。旧い秘密を紐解くように好奇心をそそられたが、酒場の熱気を引き摺る頭は一つのことに集中できず、べつのことを考えはじめていた。
アリサとの今後のことだ。
彼女との生活は他人からみれば同棲に見え、幸いなことに彼女は迷宮探索者という不安定な職に理解がある。おまけに彼女との関係を阻むものはお互いの認識くらしかない。懊悩しているうちに食事をのせた盆を持った彼女が扉から出てくる。
「あの、アリサさん」
雑誌で顔を隠すようにしながら、ラルフはアリサを呼んだ。アリサは食事を机に並べ終えるとラルフの手から雑誌を取り上げ隣に腰を降ろす。妙に気恥ずかしく、言葉が出てこない。
「……あの、……ですね」
「なに? 何が言いたいの? からかってるの?」
おそらく彼女だって、ラルフの考えているようなことはすでに思い当たっている。しかしながら、彼女の顔を見るとラルフは言葉が出なくなる。
好意を伝えたところで彼女は態度を一変させはしないだろうが、もし万が一にでも、避けられるようなことになれば傷つく。加えて彼女は五年前に迷宮都市の前で行き倒れていたラルフを拾って、居場所を与えてくれた養い親だ。肉親と呼べなくもない。
ラルフは口を開きかけ――一瞬の間に様々な逡巡を脳裏で展開させたあと、口を閉じて言葉を飲みこんだ。
「いやなんでもありません、あの……つぎの依頼が無事に終わったら、アリサさんに伝えたいことがあるんです」
ラルフが笑おうとして失敗したみたいな顔をしているのとは対照的に、彼女は蠱惑的に頬を緩めた。
「偶然。わたしも伝えなきゃいけないことがあるの」
「な、なんですか? 急に……」
心臓が跳ねた。まさか同じことを言おうとしているのではないか。そんな妄想とも知れぬ期待が沸き起こり、すぐに静まった。アリサの告白はおそらく良い報せではない。
「ラルフは依頼が終わってから伝えるって言ったでしょ。じゃあわたしもそのときまでとっておく。楽しみにしてるから」
ラルフが硬直したの対して、アリサは鷹揚に笑い食事を促した。一体どういう意味の笑みなのか判断がつかない。追及できなくなって、ラルフは磨き抜かれた銀器を片手に食事の前の祈り文句を唱えた。野菜と挽肉を捏ねたものを包んだものを突き始めるラルフを、にこにこと見つめる。慈愛のこもった眼差しに赤面しそうになりながら切り分けた料理を口に運ぶ。
料理は美味しい。彼女が作ってくれたものなら、なんでも美味しい。
「今度の仕事はどれくらいで帰って来るの?」
「遅くても三日くらいです。それが限度だと思います」
「三日も? それは……さびしいな。迷宮探索ってどうしてもやらなくちゃいけない?」
「当然です。アリサさんが教えてくれたのは、それしかないですから」
「たまにラルフは嫌なこと突いてくるよね」
「冗談です。それに前隊長の言葉を借りるなら、魔物狩りは俺の性です。まるで魔物を殺すためだけにあるような、天性の才能があるとかなんとか。……それにアリサさんも魔物狩りやってたから解るでしょう? 人をいためつけて弄び殺すやつらへの憎しみも、迷宮に入るたびに高揚感で満たされるのも、一度嵌ってしまったら離れられないって」
アリサは頷いたが不安そうな顔で体を寄せ、おずおずと抱き着いてきた。細腕が背に回され、力がこもる。花の薫りが鼻先を掠めて、動揺とも高揚ともつかぬ情動が湧いてすぐに静まった。
「解るけど心配なんだよ。一人で待っているとき、ふとこのまま帰ってこないんじゃないかって怖くなるんだ」
「……、もう俺には指示しないって、自由だって言ったじゃないですか」
「そうだね。ラルフの自由を縛る権利も、ラルフに指図する権利も、もうあたしにはない」
言葉ではそう言っても、抱きしめた腕は緩まない。ラルフはごく自然にアリサの手にふれる。骨ばった指先は、血が通っているのか疑いたくなるほど冷たい。
「――このごろのアリサさんは、生温いことばかり言いますね。牙はどこに忘れました?」
「牙は歳をとってすり減ったの。あたしはもう若くない。身近な人間を失う恐怖と喪失感に、耐えられる気がしない。今度こそ、だめになってしまう気がする」
食事が終わっても、アリサはラルフに寄りかかったままだった。
ラルフは彼女の肩を優しく受け止めながら、彼女が語ってくれたことを思い出す。彼女がまだ迷宮で治癒術師として活躍していたころ、彼女の仲間は魔結晶を狙う強盗の奇襲にあった。悲しいことだが迷宮内部では利欲を巡り人間同士が争うのはめずらしくはなく、アリサの仲間はその犠牲になり、彼女だけが生き残ったという。
運が悪かった。悲しい出来事は忘れてしまえ。俺はそう簡単に死なない。
アリサが他人ならばそう言ってしまえるのに、受け止めた体の重みが安易な慰めの言葉を塞き止める。代わりに口を突いて出たのは子供じみた約束だった。
「行くのを止めることはできません。俺には責任があります」
彼女の肩を掴み、ラルフは畳みかけた。
「独りにはしませんから、とにかく絶対、この依頼は終わらせて帰ってきます。約束です。帰ってきたらアリサさんに伝えますし、アリサさんのいうように迷宮探索についても考えます。だからアリサさんもさっきの……言ってくださいね?」
彼女の顔が泣きだしそうに歪む。金色の双眸はラルフの姿を一度だけ捉えて、伏せられた。
「ラルフは、強くなったね。あたしを支えてくれる。……約束、守ってね。なにがあっても、あたしを置いて行かないで」
「守ります。いつでもアリサさんを一番に想ってますから」
力強く抱擁したことに安堵したのか、彼女の体から力が抜けた。ラルフに体を預けるように横になり、そのまま眠ってしまった。
食事を終えた後、ラルフは彼女の体を抱き起こし寝室に運んだ。寝室に足を踏み入れるのは二年ぶりだったが、書物と資料が埃とともに部屋の床面を埋めているのは記憶通りの光景である。書架には古代の神に関する題名が多くみられ、資料として壁に貼り付けられているのはサラシャ王国第一迷宮から第四迷宮までの魔物の分布資料だ。惜しみなく金のかけられた膨大な資料の山は、一朝一夕では集まらない。
以前なにか目的があって調べものをしているのかと訊ねたとき、彼女は冗談めかして「死んだ仲間を生き返らせたい」と答えた。
あの返答を聞いてから二年ほど経つが、ラルフはいまもその答えを冗談だと断言できない。ラルフに対し明確な言葉を投げかけてきたのは今回が初めてのことだが、それ以前にも彼女が身近な人間の死を恐れ過去に呪縛されているのは感じ取っていた。
寝台に彼女の体を降ろし、燭台の蝋燭に火を灯す。揺れる灯りの元に露わになった白い頬を、掌で撫でた。彼女は目を開けることはなく安らかに寝息をたてていた。
ラルフは暫くの間、安らかに呼吸をする綺麗な貌を眺めていたが、やがてかぶりを振って寝台から降りる。音をたてないように、静かに扉を閉めた。
自身の寝台に入ったあとも、柔らかな体の重みがいつまでも残っているようで、感触を反芻しては夜が更けた。
明け方に変な夢をみたのは、アリサのことを考えていたからかもしれない。