第四話 『夢と現実』
誕生会も終わり、夜が更ける。
俺は一人、自室のテラスから庭を見下ろしていた。
「……本当に、文官目指すかなぁ」
今日の誕生会でも、父に文官になるための勉強を云々かんぬん、という話をされた。俺自身の頭はそう優れたものではないが、まだ幼い今から真面目に勉強に励めば、人並み程度には活躍する事ができるかもしれない。
——でも、それは本当に俺がやりたいことなのか?
俺はなんのために、この世界に転生したのだろうか。そんな妥協的な未来の為に、俺はここにいるのだろうか。
現実と理想の間で揺れる自分の心。それは暗闇に灯る、明かりのようで——
「——ぅん……?」
誕生日と言う事で、普段よりもなおしっかりと手入れされた庭。その庭をライトアップするため灯されていた火。その明かりに、何か影のようなものが映った気がした。
——ゾクリ。
嫌な予感がした。肌がざわりと冷たい何かに撫ぜられるような感覚。急に気温が下がった気がした。
「……」
気付いた時には動き出していた。自室に戻った俺は、枕の下から隠していたナイフを取り出すと、部屋を抜け出した。
暗い廊下はいつもより冷たい空気が満ちているように感じた。
一歩、一歩と暗い廊下を進む。明かりは月や星の光だけ。
——こんな事をして、どうするつもりなんだろう。
自分で問うが、答えは無い。もし、先ほどのが魔物や強盗だったとして、俺が見つけた所で何か出来る訳ではない。だったらこの場での正しい判断とは、人を呼ぶ事のはずだ。
なのに俺は、一人でこうして廊下を進んでいる。
強迫観念、だろうか。もし今ここで動かなければ、何もしなければ、本当に、妥協的な未来しか得られなくなってしまう。といった。
「……ほんと、何やってんだろ」
呟いたとき、月が雲に覆い隠される。廊下が真っ暗闇になった。
なのに、俺ははっきりとその存在を感じ取っていた。
——それは、『死』と呼ばれるものだった。
「————っ」
俺の真後ろに誰かが立っていた。
全力で、前へと跳ぶ。風切り音が鳴り、そして一瞬遅れて背中に焼けるような痛みが走った。受け身も考えない前転に、身体が床を転がる。
「……ちッ、餓鬼……勘がいいじゃねえか、クソッ。手間取らせてんじゃねぇよッ……!」
押し殺した苛立ちの声が、俺の耳元にまで届く。全身から今更、どっと汗が吹き出す。心臓が痛い程に強く鼓動する。足が震え、歯の付け根が合わなくなる。喉の奥から何かが込み上げ、今にも嗚咽と涙が漏れそうになる。
——死が、俺を見下ろしている。
無精髭の生やした男が、俺を見下ろしている。その手に握られたククリからは血が滴っている。……誰の血? 俺の血だ。
——本当に、何やってんだよ俺はッ……!
なんでこんな事をしようとした。なんで部屋の外に出ようとなんかッ。強迫観念? 馬鹿か! だからって、死んだら何もないだろうが!
男は俺が悲鳴を上げる前に始末しようとしているのだろう。俺との距離をたったの二歩で詰めると同時、ククリを振り上げていた。
——避けないきゃ、殺される。
わかっているのに身体は動かない。恐怖に侵された身体は、まるで石のように固かった。
そして——
——ククリが、振り下ろされた。
鮮血が舞う。俺の不用意な行いが、最悪の結果を生み出す。
身体が揺れ、地面へと鈍い音を鳴らして倒れ伏す。
——メイドが、俺を庇い剣尖を受けていた。
彼女は俺にもしもの事があった時のため、すぐ近くの部屋で待機していたのだ。物音に気付き、扉を開け、状況を理解すると一切の躊躇いなく間に身体を差し込んだ。
「……アーク、様ぁ……時間、稼ぎますか、らぁ、逃げ、て」
「……ぁ、ぁ」
「チッ……!」
男がすぐさま、今度こそ俺を殺さんとククリを構えて駆ける。が、その動きがガクンと止まる。男の足に、メイドがしがみついていた。その身体からは血が止めどなく溢れている。
「クソッ……!」
男が構えていたククリを、俺ではなくメイドへと振り下ろす。
——鮮血が、舞う。
「ァアぁぁああアアアアあああああぁぁああッ!!」
メイドが痛みに絶叫を上げる。背中がざくりと裂け、赤黒い肉と血が見えた。
「しまッ……この、クソアマがァッ……!」
メイドに悲鳴を上げさせてしまった事に男が舌打ちをする。慌てた様子で、再びククリを振り上げる。今の絶叫を聞き、すぐに衛兵が駆けつけてくるはずだ。俺はきっと、助かる。メイドのお陰で、俺の命は守られたのだ。
——だが、メイドは確実に殺される。
男は今度こそメイドを殺し、そして彼女を引き剥がしに掛かる事だろう。
——俺の、所為だ。
俺がこんな不用意な行動を取らなければ、彼女がこんな目に遭う事はなかった。
いや、そもそも。
——魔法があれば。
俺はこんな行動を取ろうとすら思わなかっただろう。
——魔法があれば。
彼女を助けられるのに。
——魔法があれば。
この男を倒せるのに。
男は、ククリを振り下ろした。
メイドに刃が迫っていく様子が不思議とゆっくりに感じた。それほどに俺は、はっきりとその様子を知覚していた。
そして、気付く。
——そうじゃない、だろ。
思い返せば、俺は何か本末転倒を起こしてはいないか? 俺が欲しいのは、本当に魔法だったか? 俺が欲しいのは、欲しかったのは……ただ純粋な力ではなかったか?
——どくん、と右腕が疼いた気がした。
なんだって良いんだ。魔法じゃなくてもいい。俺の力じゃなくたっていい。ただ、彼女を助けられるだけの力が欲しい。俺は、俺が——
——英雄になれるだけの、力が欲しい。
その時、右腕が激しい熱を発した。
「ッ……く、ぁ、がッ……!?」
——熱い、熱い、熱い、熱い、熱いッ!
焼けるような熱を、腕自体が発している。その熱が、体内へと伸び、身体中を掻き回す。その熱は身体中を巡った先——胸の中央にまで及んでいた。
熱は、まるで体内をぐちゃぐちゃにかき混ぜるかの様に、身体を巡った。
「なんだッ——!?」
男のククリを振り下ろす手が緩む。
俺の頭にはなぜか、ある一つの原理が思い起こされていた。
『魔法を使うには、魔力を体内で循環させる必要がある』
今の状況は、それに酷似しており——そして、その真逆の現象でもあった。例えるならそう——『魔法を使う為に、魔力が体内を循環させられている』。
魔力が魔法になるのではない。魔法を発現させる為に、魔力を用意させられているような、そんな感覚。
「チッ——!」
男は俺に危険を感じたのか、ククリを振り下ろすのを止め、それを握っていたのとは逆の手でクナイを投擲してきた。暗闇の中で放たれたそれは、しかし正確に俺の頭部と心臓へと向かう軌跡を描いていた。
俺は、その死に正面から向き合い、そして右腕を伸ばしていた。いつしか腕を取り巻くように特殊な文字が浮かんでいた。青白い、見た事も無い色をした魔力が溢れ出していた。
これが何を引き起こそうとしているのかなどわからない。だが、使い方だけはわかった。
——ただ、願えばいい。
「俺は……」
「——<俺が、勇者だ>ッ!」
青白い閃光が右腕から迸った。
瞬間、俺は思考がクリアになったような、そんな感覚を得た。世界がスローモーションにさえ感じた。こちらへと飛んでくるクナイをはっきりと視認出来た。身体が思いのままに動いた。
俺は一歩、前へと踏み出す。身体を僅かに傾け、同時に携えていたナイフを振り抜いた。頭部へと向かい飛んで来たクナイは髪を数本散らせながら飛び去り、心臓へと向かい飛んで来たクナイは振り抜いたナイフで受け流される――脇腹付近の服を切り裂きながら飛び去る。
――紙一重。
にも拘らず、俺は危うさも恐怖も感じなかった。それらが全て、無駄がないが故の結果だと、自分が狙って起こした結果だと認識しているからだ。
「……こんの、餓鬼ァッ!」
接近した俺にククリが振り下ろされる。だがそれは、俺が片手で持っていたナイフに受け止められ、流される。腕力や体格を考えれば、到底起こりえないはずの現象。
男は目を見開き、隙を見せた。俺の手が翻り、ナイフが下から上へと跳ね上がる。男の顔へと一線が走った。
「――ガァアああァああッ!?」
男は顔を押さえて後ずさった。被っていたフードが取れ、その顔の全容が明らかになる。
尖った耳。赤い目。そして――銀の髪。
月明かりに照らされたその男が、血に濡れた顔を怒りに染めて叫んだ。
「舐めるなよォ……ジンゾク風情がァアアアアアアアッ!」
その姿が変貌を遂げていく。男はいつしか、全身の体毛と、鋭い牙の並ぶ口、鉤爪と尻尾を持つ異形へと化していた。狼を彷彿とさせるその姿。
俺はその存在を本で見た事があった。
——人狼。
すなわち、
「——魔族ッ……!」
俺達、人間を含む人族を脅かす、魔王の手下——それこそが、魔族。和平や安全よりも、虐殺や暴力を好む、人族最大の脅威。
「このフウル様が、真の姿を見せたからには……確実に死んでもらうぞ、餓鬼ィ……!」
次の瞬間、人狼——フウルは一瞬で俺の前に立っていた。振り上げられた右の鉤爪が、風を切り、そして肉を断つ。
「——っぐッ!?」
躱す事すらできない。急所を守るので精一杯だった。首筋を狙い振り抜かれた右の鉤爪が、代わりに差し出された俺の左腕を深く切り裂いていた。
が、そこで驚くべき事が起きる。傷が、すぐさま塞がり始めていたのだ。
「餓鬼ァ、テメェッ治癒魔法をッ……! クソッ、面倒くせェッ!」
フウルが驚きと苛立ちの声を漏らす。が、驚いているのは俺も同じだった。
魔法はあくまでも、魔力を別のエネルギーへと変質させる事で起きる現象だ。だが、これほどの事を行っているのに、俺はほとんど魔力を消費していなかったのだ。
その事実を、魔法の中でも魔力消費の大きい治癒魔法が受動的に行われた事でようやく理解する。
――これは、明らかに異常だ。
この右腕の力は、”魔法”とは明らかに異なる原理で動いていた。
「……」
だが、今の俺にとっては好都合だった。どんな代償が必要なのかもわからない――だが、少なくともまだしばらくは、魔力切れなどを心配せずに戦えるのだから。
と、フウルがちらりと視線を逸らした。そこには倒れたメイドの姿。
「ッ——!」
俺は反射的に駆けていた。が、駆けてから気付く。今のはフェイントだった。
フウルがその巨大化していた顎門の端を吊り上げる。まるで吸い込まれるように、駆けてきた俺の首元へと左の鉤爪が迫り——吸い込まれていた。
「——ぁ、ガッ!?」
フウルの鉤爪が血に染まった。
「――餓鬼ィ、オレの勝ちだ」
俺の首が胴体と切断され、宙を舞っていた――……
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