自由
深夜の宿屋。ふとおしっこに行きたくなって目覚めた俺の目に飛び込んで来たのは、どデカい雑巾を絞りきったまま放置されたかのような物体とそれを前にしてたたずむ、いや彳むといういけ好かないガキが好んで使いたがりそうな言葉がふさわしい、いや相応しい天使がスィーサイドしそうな愛らしいさの少女が目に飛び込んできた。このまま目を永遠にフォーエバー閉じてこの地上に舞い降りたリファエルを目に焼き付け閉じ込めていようか。
「ご主人さま……もしかしてトイレに間に合わなくてギュッと目を閉じてるんですかっ?」
「いや違うから。リファエルを瞳に虜囚の身に堕と――」
「あ、その話は興味ないから後にしてください。それよりも見てくださいよ、これっ」
「うん、それも気になってた。なにそのビッグぼろ雑巾? 尋常じゃなくクサいんだけど」
「拳士さんです! 森の乙女のお姉さん達にペチってきてもらいましたっ」
うわお。
「捨ててきなさい。うちじゃ飼えないから」
「いやです! 飼いますっ」
「飼うんだ……」
「ご主人さまの闇の奥義をパクリスペクトするんですっ」
「ふーん。おっと、それより、うートイレトイレっと」
それが俺の最後の言葉となった。
◆ ◆ ◆
リファラー=レーンは作業を止めた。敢えて理由をつけるならばなんとなく。それに伴い、作業を手伝っていた森の乙女達も手を止めてリファの表情を伺う。
「ご主人様、遅いですね。うんこかな?」
レーンは自分自身の言葉によって急速に頭が冷えていくのを感じた。そして閉じられていた部屋のドアがゆっくりと開かれて、何者かが入って来ようという事に気付き、背中の大剣に手を掛けた。
少しだけ開かれた扉。その隙間からボールのような、ボーリングの球ほどの大きさのそれが放り込まれる。その正体を持ち前の動体視力で即座に理解した森の乙女達は、だがそれ故に刹那の硬直を余儀無くされた。
宿屋の部屋の床から突如として生えた岩の牙に森の乙女達は貫かれ、レーンは投げ込まれたボール――ご主人様の首――を飛び退って躱す事で死線を逃れた。臨戦態勢に入るまでの一秒にも満たない時間が生死を分けたのである。
即死した森の乙女達には目もくれず、レーンは足に履いた古ぼけたブーツの力を発動させる。ふわりと重力を無視してレーンの身体は浮かび、飛び退った着地地点を大幅にズラす。本来であればレーンが着地した場所に再び岩の牙が床を突き抜けて命を掠め取らんとしていた。
(森の乙女は全員死んだか。使えねー。ご主人様も死んだ。刺客は少なくとも二人か。首を投げ込んできた扉の向こうの奴は魔力を発している気配はない。しかしここまで正確に攻撃地点を指定できるのはなぜだ。この部屋を視ている気配は感じられないが。熱や音を利用して敵の位置を割り出すタイプの魔法か。しかし音で相手の位置を判断しているならば二撃目で私が貫かれているはず。熱で私の位置を視ていて、しかしこのブーツで予想外の動きをしたから外したのか。いや、単純に遠見や透視ができる可能性もあるのか。相手は森の乙女どころか私も殺気を感じ取れなかったほどの手練れ。数はそう多くないと思うが、どうするか。少なくとも扉の向こうの奴はデリートするか。ブーツの能力まで見せてしまったからには大剣で一人は処理したいところだが。決めた。この扉の向こうの奴は殺す。パーンもかくやというほどの必殺の突きで殺す。そして一目散に逃げる、っていうか私ってこの一瞬で物凄く思考が高速回転ですけど死亡フラグじゃないですから。走馬灯ではなく達人同士が相対した故の圧縮された時間的超常現象なので)
そしてレーンは黒い大剣で扉ごとその後ろにいる刺客を突き刺した。
「フラグスラッシュ斬り!」
技名を叫ぶ事に意味はない。ただ意味不明な言葉を叫ぶことで相手の思考を乱すことを狙ったのだ。さらに斬りと言いつつ突くことからも奇剣であることが伺える。
「近くの敵である私を斬るか、一目散に逃げるか。いま決めたリファちゃんの考えの逆が正解よ。でもそれが大きなミステイクってやつですね」
必殺の突きを手のひらで受け止めた青い髪の女、自称拳士は穏やかにリファに語りかけた。
「あっ、拳士さんじゃないですかっ。お元気そうでなによりです!」
(死んだんじゃなかったのか?)
死者の蘇生。そのありえない事をありえると考える思考回路がレーンには存在していた。その発想はレーンの才能とか知性に依るものというよりは幼い頃から触れて来た文化に起因する。
それはさておきレーンは重大な二択に迫られていた。己の全てをかけて磨いた技か、「ご主人様」の言う奥の手か。拳士を殺すのにどちらがより良い手であるのか。
拳士が平然と生きているのは何らかの切り札を切ったからであろう。切り札を先に見せた方が死ぬ。それはレーンがなんとなく聞いた知識ではあったが、短いながらもそれなりの死線を越えて来た事によりほぼ疑いようのない事実となっていた。
コンマ1秒にも満たない逡巡。
結論を脳が導くよりも速く、レーンは反射的に黒い大剣の忌まわしいなにかを解き放っていた。
『ママ……なんで僕が……痛い……苦しい……助けてよ……こんな奴隷如きに……ママ……僕は……僕は……』
ドス黒い歪な愛情に守られた腐臭が、レーンの大剣からこびり落ち、拳士のほうへと流れていく。その呪いだかなんだかはレーンの理解を超えている。しかしこの忌まわしいなにかは敵を確実に仕留めたという確信があった。その確信があったかなかったのタイミングでレーンは再び血まみれのブーツの力を発動させて重力に逆らう回避行動をとる。
「あっぶねー」
いたいけな少女を狙う岩でできた牙をまたしても回避しながら、レーンはそのまま窓を開けて夜空へと逃げ出した。
(人間どもめ……。なりふりかまわずに殺しにきたか。さすがに派手にやりすぎた。やはり奴らを苦しめ尽くして滅ぼすには周到な準備が必要だ。大規模かつ合理的な計画が。アイツに会ってから流れに身を任せてきたが……)
レーンは。レーンはれっきとした人間である。思春期特有の思い込みを患っているわけでもない。しかし人間でありながら人間という種族とかグループとかコミュニティに帰属意識はない。それは過去のトラウマ――すなわち誰もが納得し、涙なくして語れないような悲劇的なエピソードによって形成された思想ではない。敢えて悪を演じているわけでもない。無邪気ゆえに悪をなしているわけでもない。ただ当然の帰結として、確固たる自らの意志で、しかし何かの大いなる意思に操られているかのように邪悪を振りまいているのである。いや、正義を妨害しているのである。
「はわわっ。よっくもご主人さまを~ってなもんですね。ぷっくっくっく……!」
リファはニタニタと笑いながら闇夜でひとりごちた。そのアニメじみた笑い方はナレーションが前言撤回したくなるような典型的な悪魔的哄笑であった。その笑い声に「うみねこか!」とツッコむ者はいない。クイーンの迷宮で力を得た悪魔が遂に世に放たれたのであった。




