暴食Ⅲ
麻布区の名士である華族の川村伯爵邸。
守衛によって門を開けられた黒いフォードは静かに敷地内に滑り込み本邸正面玄関前に停車した。鏑木が素早く降りて、瑠都のために後部座席のドアを開ける。彼が瑠都担当の運転手となって早数年。以来二人の関係は続いている。誘惑したのはもちろん瑠都だ。いつもはゆったりとした後部座席に座る瑠都が助手席に座る時、いつしかそれはすなわち鏑木との情事を暗に示唆するものとなった。ほんの数分前までの、あの乱れた様子は今や微塵も見受けられない。今の二人は完璧に令嬢と運転手。まごうことなき主従の関係である。鏑木は車のドアを閉めると、瑠都の後ろ姿に向かって制帽を取って恭しく頭を下げた。
「おかえりなさいませ、瑠都お嬢様」
すかさず玄関の重厚な扉が開き、邸内から老齢の婦人が姿を現した。川村家の女中頭である。
「ただいま、ばあや」
「遅いお帰りでございますね。急ぎませんと今夜のパーティーには到底間に合いません。すぐにお支度を」
「わかっていてよ。今夜は私たちにとって大切な大切なパーティーですものね。すぐに入浴の用意を」
「かしこまりました」
屋敷の中では女中や使用人達がひっきりなしに動きまわって落ち着かない。今夜は宮内省に軍部、そして財界などあらゆる層の関係者たちがここに集まるのだから無理もない。そしてそのパーティーの席上、病死した母親の代わりとして、父親を援助しながらホステスという大役を勤めなければならないのだ。まだ終わりそうもない長い一日に、瑠都は大きなため息をひとつ吐いた。
自室のドレッサーの前に立ち、磨き上げられた鏡に映る自分を心底美しいと思う。流行りの断髪にした当初は周囲から猛反発をくらったけれど、あまりにも似合いすぎてエキセントリックな魅力を放つ瑠都に、もはや文句を言う者はない。黒い光沢のあるシルクのドレスを身につけ、華奢でありながらも女性的なラインを見事に際立たせるそのシルエットは年齢以上の妖艶さを引き出している。化粧も完璧。すべての支度を終えてもなお、時間は有り余っていた。
「瑠都、支度はできたのか?」
「絵麻緒お兄様?」
響くノックの音と男性にしては高く涼やかな声。それに吸い寄せられるように瑠都は素早く駆け寄ってドアを開ける。
「おっと……我が妹ながら相変わらず美しい」
川村家嫡男の絵麻緒は、瑠都とよく似た美貌の持ち主だった。上背のあるすらりとした体形も面差も醸しだす雰囲気もまるで双子のように似通っており、誰もが羨む仲の良い兄妹である。
「あら? お兄様お支度はまだなの?」
「ああ、いいのさ。男は女ほど面倒くさくない。支度なんかあっという間にできるさ。それよりも……綺麗なおまえをもっとよく見せておくれ」
瑠都の言うとおり、胸元を大きく開けたラフな白い綿シャツに黒のスリムなボトムという、まるで一般庶民のようないでたち。長く伸びた前髪をかきあげながら少し神経質そうに憂いを帯びた微笑を浮かべれば、ほとんどの子女は瞬殺されるに違いない。
「まあ、お兄様ったら相変わらずお上手ね。いつも他の女の人にそんなことをおっしゃっているのでしょう?」
瑠都は悪戯っぽく笑いながら、絵麻緒の腕を取って部屋に招き入れドアを閉める。すかさず絵麻緒は鍵をかけた。
「お兄様?」