現代小説「みんな人生を後悔して生きている」
今日のランチは韓国料理にした。
会社の近くにある、韓国人が経営している本格韓国料理店だ。
私のお気に入りは、ユッケジャンスープ。
真っ赤なスープに牛肉と野菜がたっぷり入っていて、これが実にうまい。
辛い。熱い。汗が出る。
だが、それがいい。
人間、歳を取ると刺激が欲しくなるものだ。
人生に刺激がないから、せめて昼飯くらいは刺激的なものを食べたい。
そんなことを考えながら、私は店に入った。
一番乗りだった。
「ユッケジャンスープ定食、お願いします」
いつもの注文だ。
やがて運ばれてきた真っ赤なスープをひと口すする。
うまい。
今日も平和な昼休みが始まった。
……はずだった。
そこへ、二人の女性が入ってきた。
年齢は四十代から五十代くらいだろうか。
いかにも主婦らしい雰囲気の二人組だった。
私の向かいのテーブルに座ると、二人とも石焼きビビンバ定食を注文した。
そして料理が来る前から、おしゃべりが始まった。
私は他人の会話を盗み聴きする趣味などない。
ないのだが……。
静かな店内で、向かいのテーブルから大きな声が聞こえてくる。
嫌でも耳に入る。
これは盗み聴きではない。
向こうが勝手に私の耳に話しかけてくるのだ。
そういうことにしておこう。
「やっぱり女の子は女の子よねぇ」
一人が言った。
「この前ね、うちの子が嫌いな食べ物を出されたときに、いらないって言ったのよ」
「へえ」
「だから私、注意したの。そんな言い方はダメよって」
なるほど。
子供のしつけの話らしい。
「いらないじゃなくて、口に合わないかもしれません、って言いなさいって教えたの」
うん。
それは正しい。
相手を傷つけない言葉遣いは大切だ。
私はユッケジャンスープをすすりながら、心の中でうなずいた。
「そしたらね、うちの子、なんて言ったと思う?」
「なになに?」
「口にいらないって言うのよ!」
「アハハハハ!」
二人が笑った。
私も思わず笑いそうになった。
口にいらない。
なかなか斬新な日本語である。
口に合わないどころか、口が食べ物の受け入れを拒否している。
それほど嫌いなのだろう。
子供は正直だ。
大人は「口に合わない」と遠回しに言う。
子供は「口にいらない」と率直に言う。
意味は同じなのに、大人はそれを失礼だと言う。
言葉とは難しいものだ。
そんなことを考えながら、私は白飯を口に運んだ。
ところが、ここから会話の方向が変わった。
子供の話が終わると、今度は旦那の話になったのだ。
「私ねぇ、もっといい人と結婚すればよかった」
おお。
いきなり重い話が始まった。
さっきまで子供の言葉遣いについて笑っていたのに、今度は人生そのものを否定し始めた。
「もっといい人と出会えたはずなのよ」
「わかるわぁ」
「なんであのとき、もっと探さなかったんだろうって」
「そうよねぇ」
私は黙ってスープをすすった。
これはなかなか興味深い。
結婚という人生最大級の選択について、真っ赤な石焼きビビンバを前に反省会が始まっている。
「昔はね、それなりに格好よかったのよ」
「うんうん」
「でも今じゃ太っちゃって。見る影もないの」
「アハハハハ!」
「本当に後悔してる」
おいおい。
旦那さん。
あなた、今ごろ会社で一生懸命働いているかもしれないのに。
奥さんは昼飯を食べながら、あなたの容姿と結婚生活を全否定していますよ。
しかも本人のいないところで。
いや、本人がいないから言えるのか。
私はスプーンを止めた。
しかし、よく考えてみると、こういう話は珍しくない。
男も女も、結婚して何年もたてば、多少の後悔はあるのだろう。
若いころは恋愛に夢を見る。
この人しかいない。
この人となら幸せになれる。
そんなことを本気で思う。
ところが結婚して十年、二十年。
恋人は家族になり、家族は生活の一部になり、やがて空気のような存在になる。
そして、いつの間にか不満がたまる。
もっと優しい人がいたかもしれない。
もっとお金持ちがいたかもしれない。
もっと格好いい人がいたかもしれない。
もっと若々しい人がいたかもしれない。
もっと、もっと、もっと……。
人間の欲望には終わりがない。
どんな人と結婚しても、結局は「もっといい人がいたかもしれない」と考えるのではないだろうか。
そもそも、もっといい人が自分を選んでくれた保証などない。
そんなことを私が考えていると、向かいのテーブルから決定的な一言が聞こえてきた。
「もし人生をやり直せるなら、次は絶対に今の旦那を選ばない!」
おお。
言い切った。
絶対に選ばない。
そこまで断言するのか。
旦那さん、残念です。
あなたは奥さんの人生二周目には登場しないことが決定しました。
一周目限定のキャラクターです。
しかも再登場なし。
ゲームなら、二周目で真っ先にパーティーから外される仲間だろう。
私は心の中で旦那さんに手を合わせた。
ご愁傷さまである。
しかし、ここでふと疑問が浮かんだ。
もし旦那さんにも人生をやり直す機会が与えられたら、どうするのだろう。
ひょっとすると旦那さんも、
「次は絶対に今の女房とは結婚しない!」
と思っているかもしれない。
そう考えると面白い。
お互いに人生をやり直したい。
お互いに相手を選びたくない。
なのに今日も同じ家に帰る。
同じ食卓で飯を食い、同じテレビを見て、同じ屋根の下で眠る。
そして翌朝、また同じ生活が始まる。
なんとも不思議な関係だ。
結婚とは、愛情だけでは説明できない制度なのかもしれない。
情なのか。
責任なのか。
生活なのか。
それとも、今さら別れるのが面倒くさいだけなのか。
もちろん、本当に仲のいい夫婦だって世の中にはたくさんいるだろう。
だが、少なくとも向かいのテーブルの女性は、今日の石焼きビビンバよりも熱心に旦那への不満をかき混ぜていた。
ジュージューと音を立てるビビンバ。
グツグツと煮えたぎる不満。
韓国料理は熱々がうまい。
夫婦の不満も、熱々のうちに誰かに聞いてもらうのがいいのだろうか。
私は最後のユッケジャンスープを飲み干した。
辛い。
実に辛い。
だが、うまい。
人生もこんなものなのかもしれない。
辛いことがある。
後悔することもある。
それでも毎日、なんだかんだで生きていく。
そして昼飯を食べる。
結局、人間は腹が減るのだ。
私は席を立ち、会計を済ませた。
「ごちそうさま」
店を出ると、秋の風が気持ちよかった。
向かいのテーブルでは、まだ旦那の悪口が続いていた。
私は歩きながら考えた。
みんな後悔するんだなぁ。
結婚したことを後悔する人。
結婚相手を後悔する人。
結婚しなかったことを後悔する人。
きっと誰だって、一度くらいは自分の選ばなかった人生を想像するのだろう。
でも、そんな人生が本当に幸せだったかどうかなんて、誰にもわからない。
選ばなかった道は、いつだって美しく見えるものだ。
そんな哲学的なことを考えていたら、コンビニが目に入った。
あーアイス食べたい。
ユッケジャンスープで火照った口の中を、冷たいアイスで冷やしたい。
私は迷わずコンビニに入った。
そしてアイスを買った。
うまい。
やっぱり辛いものの後には甘いものだ。
アイスを食べながら、ふと自分の腹を見下ろした。
ぽっこり。
見事に出ている。
私は自分のお腹をポンポンと叩いた。
そういえば、さっきの奥さんは言っていた。
「今じゃ太っちゃって、見る影もない」
……。
私はもう一度、自分の腹を見た。
……なるほど。
旦那さん。
あなたの気持ち、少しわかる気がします。
私だって昔は、もう少し痩せていたのだ。
こんな腹になる予定ではなかった。
もっと運動しておけばよかった。
もっと食事に気をつければよかった。
もっと若いうちに痩せておけばよかった。
人生、後悔ばかりである。
しかし私はアイスをもうひと口食べた。
うまい。
実にうまい。
人生をやり直せるなら、もっと痩せた自分になりたい。
だが、今日の昼飯をやり直せるとしても、私はきっとユッケジャンスープ定食を注文する。
そして食後には、またアイスを買うだろう。
人間とは、そういう生き物なのだ。
後悔する。
反省する。
そして同じことを繰り返す。
私は腹をポンと叩き、会社へ向かって歩き出した。
ああ、人生は辛い。
でもアイスは甘い。
結婚相手は選び直せても、食欲だけは選び直せそうにない。
そして私もまた、いつか誰かに言われるのだろうか。
「あの人、昔はもう少し痩せていたのにねぇ」
……余計なお世話だ。
私は残りのアイスを口に放り込んだ。
現代小説「みんな人生を後悔して生きている」
完結




