表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

佐伯くんと高槻さん

冷蔵庫の番人

作者: くるみ
掲載日:2026/05/11

うちの研究室には、給湯室の主がいる。


そして最近、冷蔵庫にも何かがいる。


そう言うと、たいていの人は「また佐伯くんですか」と言う。失礼な話である。たしかに佐伯は、研究室の怪異に対して異様な感受性を持っている。しかし、すべての怪異を佐伯のせいにするのは、あまりにも人間中心主義的だ。


最初に異変に気づいたのは、やはり佐伯だった。


「高槻さん、僕のヨーグルトが増えています」


「減ったのではなく?」


「増えています」


「それは幸運ですね」


「そういう問題ではありません」


佐伯は冷蔵庫の前に立ち、深刻な顔で中を指さした。

そこには、同じメーカーのヨーグルトが二つ並んでいた。


一つには、たしかに『佐伯』と書かれている。

そして、その隣のヨーグルトには、付箋が貼られていた。


『未来の佐伯』


佐伯は黙った。


「高槻さん」


「はい」


「僕は、未来で何をしたんでしょうか」


「少なくとも、ヨーグルトを必要としているのでしょうね」


「未来の僕は、ヨーグルトを必要とするほど追い詰められるんですか」


「研究室にいる限り、その可能性は常にあります」


佐伯は、冷蔵庫の奥を見つめた。

冷蔵庫は何も言わなかった。

ただ、低く鳴っていた。


ブーン。


その日から、冷蔵庫はおかしくなった。

以前の家電外交以来、名前のない甘味や飲み物は、いったん私の棚に集められることになっていた。無主物の占有を開始した者には、それなりの責任が伴うらしい。私はその責任を望んだ覚えはないが、付箋の裏に自分でそう書いてしまった以上、反論は難しかった。


ただし、私の棚は小さい。

そして研究室の人間は、思っている以上に名前を書かない。

三日も経つと、私の棚はプリン、カフェラテ、栄養ドリンク、誰かの強い決意を感じるサラダチキンで埋まった。そこで私は、教授に相談した。


「教授、棚を一段だけお借りしてもいいですか」


「いいよ。何に使うの」


「所有者不明品の一時保管です」


「それは、食べてもいいもの?」


「違います」


教授は少し寂しそうな顔をした。

そういう経緯で、無記名のものはまず私の棚に集まり、期限までに名乗り出る者がいなければ、教授の棚へ差し戻されることになった。


もとに戻ったのではない。

暫定的な行政措置である。

佐伯にそう説明すると、彼は腕を組んだ。


「つまり、旧制度への回帰ではなく、執行猶予つきの差し戻しですね」


「その言い方は少し嫌ですね」


「高槻さん、研究室の秩序は嫌な言い方によって保たれることがあります」


「その言葉を論文に書かないでください」


冷蔵庫の異変は、日に日に具体的になっていった。

名前のないカフェラテは、私の棚に移されたあと、三日目の朝には必ず教授の棚に置かれていた。賞味期限の切れた納豆は、扉を開けるたびに前列へ出てきた。誰かが買ったまま忘れたコンビニサラダには、赤い付箋でこう書かれていた。


『葉は待たない』


研究室はざわついた。


「給湯室の主の管轄が広がったんですかね」


佐伯が言った。


「水回り全般を支配するつもりでしょうか」


「それはもう神社では」


「高槻さん、笑いごとじゃありません。これは行政区分の問題です」


佐伯は真剣だった。その真剣さを、もう少し査読対応に向けてほしい。


「でも、給湯室の主は湯と麺と器を司る存在でしたよね」


「はい」


「ウォーターサーバーは飲料担当」


「はい」


「では、冷蔵庫は?」


佐伯は冷蔵庫を見た。

冷蔵庫は低く鳴っていた。


ブーン。


「時間です」


「時間?」


「冷蔵庫は、期限を司っています」


その言葉に、私は妙に納得してしまった。

冷蔵庫は、すべてを先延ばしにする装置ではない。むしろ、先延ばしの限界を静かに教える装置である。中に入れたものは、永遠には待ってくれない。牛乳も、豆腐も、プリンも、そして研究計画書も。

最後のものは冷蔵庫に入れないほうがいい。


翌朝、事件が起きた。

冷蔵庫の扉に、研究室全員の名前が書かれた表が貼られていたのである。


『冷蔵庫利用台帳』


その下には、きれいな文字でこう書かれていた。


『一、名前を書くこと。


二、日付を書くこと。


三、期限を見ること。


四、他人の甘味を夢見ないこと。


五、三日を過ぎた無記名品は、調停者の判断を待たず、しかるべき棚へ送ること。』


「しかるべき棚、とは」


田村さんが震えた声で言った。


「教授の棚でしょうね」


私は言った。


「たぶん」


「たぶんが怖いです」


佐伯は目を輝かせていた。


「冷蔵庫の番人です」


「番人?」


「主ではありません。主は支配します。番人は管理します」


「家電の統治論ですね」


「重要です。給湯室の主は湯の秩序を守る存在でした。しかし冷蔵庫の番人は、時間と所有権の境界を守る存在です」


「所有権の境界を冷やすんですか」


「たぶん」


「たぶんが怖いです」


その日の昼、教授が冷蔵庫を開けた。

教授は甘いものが好きである。

そして教授は、名前のない甘いものを「研究室への差し入れ」と解釈する能力に長けている。

教授は冷蔵庫の奥をのぞき込み、少し残念そうな顔をした。


「最近、プリンが少ないね」


その瞬間、冷蔵庫が低く唸った。


ブーン。


教授は静かに扉を閉めた。


「冷蔵庫に怒られた気がする」


「気のせいではないと思います」


私がそう言うと、佐伯が勢いよく振り向いた。


「やはり、高槻さんも感じますか」


「感じるというか、いまのはかなり明確でした」


「冷蔵庫の番人は、教授にも容赦しない……」


「公平ですね」


「公平すぎる権力は怖いです」


教授はしばらく考えたあと、私に言った。


「高槻さん」


「はい」


「僕の棚に置かれたものは、僕のものではないのかな」


「一時保管です」


「でも、僕の棚にあるよ」


「一時保管です」


「三日経ったら?」


「廃棄です」


教授は少し黙った。


「食べるのと廃棄するのは、どちらが食品に対して誠実かな」


佐伯が小声で言った。


「倫理審査が必要ですね」


「食品に倫理審査を持ち込まないでください」


その日の夕方、私は冷蔵庫の扉に新しい紙を貼った。


『冷蔵庫内の食品は、名前と日付を書くこと。

無記名品は、まず調停者の棚へ移すこと。

三日以内に所有者が現れない場合、教授の棚へ一時保管すること。

教授の棚は所有権の発生場所ではないこと。

期限切れのものは、静かに処すこと。』


しばらく沈黙があった。

やがて、冷蔵庫が小さく鳴った。


カチッ。


それは不満ではなく、了承の音に聞こえた。

佐伯は感動した顔をした。


「高槻さん、冷蔵庫行政の才能もありますね」


「履歴書に書ける項目が増えません」


「でも、研究室の食の安全を守りました」


「論文にはなりません」


「なりますよ」


「なりません」


「『大学研究室における無記名食品管理と家電信仰の相互作用』」


「絶対になりません」


「質的研究なら」


「やめてください」


それから数日は、平和だった。

古いポットはカップ麺のために湯を沸かし、ウォーターサーバーは飲み物のために温水と冷水を出した。シンクに置かれたカップは、翌日まで残ると付箋を貼られた。冷蔵庫は、名前と日付のないものを許さなかった。


研究室の設備たちは、それぞれの職務を理解していた。

人間だけが、時々忘れた。

特に佐伯は、実験よりも深刻な顔でヨーグルトに何かを書いていた。


「佐伯くん」


「はい」


「そこまで大きく書かなくてもいいと思います」


「見落とされたら困るので」


「ヨーグルトに『佐伯、覚悟あり』と書く必要はありますか」


「あります」


「何の覚悟ですか」


「期限内に食べる覚悟です」


「立派ですね」


「高槻さん、笑っていますね」


「笑っていません」


「声が笑っています」


その翌日、佐伯が冷蔵庫の前で固まっていた。


「高槻さん」


「はい」


「未来の僕の意味がわかりました」


「何をしたんですか」


「昨日の夜、ヨーグルトを食べるつもりだったんです。でも、解析を回している間に、少しだけ横になって」


「寝たんですね」


「寝ました」


「それで?」


「朝になって、期限を少し過ぎていました」


冷蔵庫が低く鳴った。


ブーン。


「それを、どうしましたか」


私が聞くと、佐伯は目をそらした。


「静かに処しました」


「廃棄したんですね」


「はい」


「そして?」


「申し訳なくなって、同じものを買って戻しました」


「それが『未来の佐伯』ですか」


「おそらく」


私たちは、冷蔵庫の中を見た。


『未来の佐伯』と書かれたヨーグルトの付箋には、小さく追記があった。


『反省済』


佐伯は黙った。

私も黙った。

冷蔵庫だけが、静かに鳴っていた。


カチッ。


それは、今すぐ食べろ、という音に聞こえた。


「佐伯くん」


「はい」


「今すぐ食べましょう」


「今すぐですか」


「未来に任せると、また付箋が増えます」


佐伯は真剣にうなずき、ヨーグルトを一つ手に取った。

その瞬間、冷蔵庫がもう一度、小さく鳴った。


カチッ。


それは、ようやく理解したか、という音に聞こえた。

その日の夜、私は最後に給湯室を確認してから帰ろうとした。


ポットは静かに保温していた。ウォーターサーバーのランプも穏やかだった。冷蔵庫は低く一定の音を立てていた。


ブーン。


私は、ふと冷蔵庫の扉を見た。

そこには、朝にはなかった付箋が一枚貼られていた。


『調停者、昼食を忘れるな』


私はそのとき初めて、昼食を忘れていた事に気づいた。

そして、私の机の上に、小さな包みが置かれていた。

包みの横には、付箋が三枚あった。


一枚目には、こう書かれていた。


『湯を整える者、場を整える』


二枚目には、こう書かれていた。


『冷を守る者、時を守る』


三枚目には、こう書かれていた。


『調停者、昼食を忘れるな』


横の包みを開けると、小さなチーズケーキが入っていた。

付箋には、さらに小さく追記があった。


『期限、昨日』


私はしばらく考えたあと、佐伯を呼んだ。


「佐伯くん」


「はい」


「これは、どう解釈すべきでしょう」


佐伯はチーズケーキを見つめ、厳粛な顔で言った。


「番人からの試練ですね」


「食べてはいけないと」


「いいえ」


佐伯は少しだけ身を乗り出した。


「研究者には、期限を過ぎても向き合わなければならないものがあります」


「それをチーズケーキで言いますか」


「言います」


「佐伯くんは、さっき期限を少し過ぎたヨーグルトを静かに処しましたよね」


「はい」


「その思想と矛盾していませんか」


佐伯は少し考えた。


「僕のヨーグルトは、僕の未熟さでした」


「このチーズケーキは?」


「高槻さんの試練です」


「都合がよすぎませんか」


「研究室の怪異は、だいたい都合がいいです」


そのとき、教授が通りかかった。


教授はチーズケーキを見て、少しだけ目を輝かせた。


「それは、名前がある?」


「あります」


私は付箋を見せた。


『調停者、昼食を忘れるな』


教授はうなずいた。


「高槻さんのものだね」


「はい」


「期限は?」


「昨日です」


教授はさらにうなずいた。


「なるほど」


「なるほど、とは」


「これは食べるべきか、食べないべきか、難しい問題だね」


「そうですね」


「僕なら食べるかもしれない」


「教授は参考意見から除外します」


「どうして」


「実績です」


教授は少し寂しそうな顔をした。

私はため息をつき、給湯室でコーヒーを淹れた。

ポットは何も言わずに湯を沸かした。

ウォーターサーバーも何も言わずに水を出した。

冷蔵庫も何も言わなかった。


ただ、私がチーズケーキをひと口食べた瞬間、どこからともなく、カチッ、という音がした。

合格、という意味だと思うことにした。


その直後、冷蔵庫の扉に貼られていた付箋が一枚だけ、ひらりと床に落ちた。

拾い上げると、そこにはこう書かれていた。


『次は冷凍庫』


私はそっと付箋を戻した。

見なかったことにした。


研究室の平和には、時々、先延ばしも必要である。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ