冷蔵庫の番人
うちの研究室には、給湯室の主がいる。
そして最近、冷蔵庫にも何かがいる。
そう言うと、たいていの人は「また佐伯くんですか」と言う。失礼な話である。たしかに佐伯は、研究室の怪異に対して異様な感受性を持っている。しかし、すべての怪異を佐伯のせいにするのは、あまりにも人間中心主義的だ。
最初に異変に気づいたのは、やはり佐伯だった。
「高槻さん、僕のヨーグルトが増えています」
「減ったのではなく?」
「増えています」
「それは幸運ですね」
「そういう問題ではありません」
佐伯は冷蔵庫の前に立ち、深刻な顔で中を指さした。
そこには、同じメーカーのヨーグルトが二つ並んでいた。
一つには、たしかに『佐伯』と書かれている。
そして、その隣のヨーグルトには、付箋が貼られていた。
『未来の佐伯』
佐伯は黙った。
「高槻さん」
「はい」
「僕は、未来で何をしたんでしょうか」
「少なくとも、ヨーグルトを必要としているのでしょうね」
「未来の僕は、ヨーグルトを必要とするほど追い詰められるんですか」
「研究室にいる限り、その可能性は常にあります」
佐伯は、冷蔵庫の奥を見つめた。
冷蔵庫は何も言わなかった。
ただ、低く鳴っていた。
ブーン。
その日から、冷蔵庫はおかしくなった。
以前の家電外交以来、名前のない甘味や飲み物は、いったん私の棚に集められることになっていた。無主物の占有を開始した者には、それなりの責任が伴うらしい。私はその責任を望んだ覚えはないが、付箋の裏に自分でそう書いてしまった以上、反論は難しかった。
ただし、私の棚は小さい。
そして研究室の人間は、思っている以上に名前を書かない。
三日も経つと、私の棚はプリン、カフェラテ、栄養ドリンク、誰かの強い決意を感じるサラダチキンで埋まった。そこで私は、教授に相談した。
「教授、棚を一段だけお借りしてもいいですか」
「いいよ。何に使うの」
「所有者不明品の一時保管です」
「それは、食べてもいいもの?」
「違います」
教授は少し寂しそうな顔をした。
そういう経緯で、無記名のものはまず私の棚に集まり、期限までに名乗り出る者がいなければ、教授の棚へ差し戻されることになった。
もとに戻ったのではない。
暫定的な行政措置である。
佐伯にそう説明すると、彼は腕を組んだ。
「つまり、旧制度への回帰ではなく、執行猶予つきの差し戻しですね」
「その言い方は少し嫌ですね」
「高槻さん、研究室の秩序は嫌な言い方によって保たれることがあります」
「その言葉を論文に書かないでください」
冷蔵庫の異変は、日に日に具体的になっていった。
名前のないカフェラテは、私の棚に移されたあと、三日目の朝には必ず教授の棚に置かれていた。賞味期限の切れた納豆は、扉を開けるたびに前列へ出てきた。誰かが買ったまま忘れたコンビニサラダには、赤い付箋でこう書かれていた。
『葉は待たない』
研究室はざわついた。
「給湯室の主の管轄が広がったんですかね」
佐伯が言った。
「水回り全般を支配するつもりでしょうか」
「それはもう神社では」
「高槻さん、笑いごとじゃありません。これは行政区分の問題です」
佐伯は真剣だった。その真剣さを、もう少し査読対応に向けてほしい。
「でも、給湯室の主は湯と麺と器を司る存在でしたよね」
「はい」
「ウォーターサーバーは飲料担当」
「はい」
「では、冷蔵庫は?」
佐伯は冷蔵庫を見た。
冷蔵庫は低く鳴っていた。
ブーン。
「時間です」
「時間?」
「冷蔵庫は、期限を司っています」
その言葉に、私は妙に納得してしまった。
冷蔵庫は、すべてを先延ばしにする装置ではない。むしろ、先延ばしの限界を静かに教える装置である。中に入れたものは、永遠には待ってくれない。牛乳も、豆腐も、プリンも、そして研究計画書も。
最後のものは冷蔵庫に入れないほうがいい。
翌朝、事件が起きた。
冷蔵庫の扉に、研究室全員の名前が書かれた表が貼られていたのである。
『冷蔵庫利用台帳』
その下には、きれいな文字でこう書かれていた。
『一、名前を書くこと。
二、日付を書くこと。
三、期限を見ること。
四、他人の甘味を夢見ないこと。
五、三日を過ぎた無記名品は、調停者の判断を待たず、しかるべき棚へ送ること。』
「しかるべき棚、とは」
田村さんが震えた声で言った。
「教授の棚でしょうね」
私は言った。
「たぶん」
「たぶんが怖いです」
佐伯は目を輝かせていた。
「冷蔵庫の番人です」
「番人?」
「主ではありません。主は支配します。番人は管理します」
「家電の統治論ですね」
「重要です。給湯室の主は湯の秩序を守る存在でした。しかし冷蔵庫の番人は、時間と所有権の境界を守る存在です」
「所有権の境界を冷やすんですか」
「たぶん」
「たぶんが怖いです」
その日の昼、教授が冷蔵庫を開けた。
教授は甘いものが好きである。
そして教授は、名前のない甘いものを「研究室への差し入れ」と解釈する能力に長けている。
教授は冷蔵庫の奥をのぞき込み、少し残念そうな顔をした。
「最近、プリンが少ないね」
その瞬間、冷蔵庫が低く唸った。
ブーン。
教授は静かに扉を閉めた。
「冷蔵庫に怒られた気がする」
「気のせいではないと思います」
私がそう言うと、佐伯が勢いよく振り向いた。
「やはり、高槻さんも感じますか」
「感じるというか、いまのはかなり明確でした」
「冷蔵庫の番人は、教授にも容赦しない……」
「公平ですね」
「公平すぎる権力は怖いです」
教授はしばらく考えたあと、私に言った。
「高槻さん」
「はい」
「僕の棚に置かれたものは、僕のものではないのかな」
「一時保管です」
「でも、僕の棚にあるよ」
「一時保管です」
「三日経ったら?」
「廃棄です」
教授は少し黙った。
「食べるのと廃棄するのは、どちらが食品に対して誠実かな」
佐伯が小声で言った。
「倫理審査が必要ですね」
「食品に倫理審査を持ち込まないでください」
その日の夕方、私は冷蔵庫の扉に新しい紙を貼った。
『冷蔵庫内の食品は、名前と日付を書くこと。
無記名品は、まず調停者の棚へ移すこと。
三日以内に所有者が現れない場合、教授の棚へ一時保管すること。
教授の棚は所有権の発生場所ではないこと。
期限切れのものは、静かに処すこと。』
しばらく沈黙があった。
やがて、冷蔵庫が小さく鳴った。
カチッ。
それは不満ではなく、了承の音に聞こえた。
佐伯は感動した顔をした。
「高槻さん、冷蔵庫行政の才能もありますね」
「履歴書に書ける項目が増えません」
「でも、研究室の食の安全を守りました」
「論文にはなりません」
「なりますよ」
「なりません」
「『大学研究室における無記名食品管理と家電信仰の相互作用』」
「絶対になりません」
「質的研究なら」
「やめてください」
それから数日は、平和だった。
古いポットはカップ麺のために湯を沸かし、ウォーターサーバーは飲み物のために温水と冷水を出した。シンクに置かれたカップは、翌日まで残ると付箋を貼られた。冷蔵庫は、名前と日付のないものを許さなかった。
研究室の設備たちは、それぞれの職務を理解していた。
人間だけが、時々忘れた。
特に佐伯は、実験よりも深刻な顔でヨーグルトに何かを書いていた。
「佐伯くん」
「はい」
「そこまで大きく書かなくてもいいと思います」
「見落とされたら困るので」
「ヨーグルトに『佐伯、覚悟あり』と書く必要はありますか」
「あります」
「何の覚悟ですか」
「期限内に食べる覚悟です」
「立派ですね」
「高槻さん、笑っていますね」
「笑っていません」
「声が笑っています」
その翌日、佐伯が冷蔵庫の前で固まっていた。
「高槻さん」
「はい」
「未来の僕の意味がわかりました」
「何をしたんですか」
「昨日の夜、ヨーグルトを食べるつもりだったんです。でも、解析を回している間に、少しだけ横になって」
「寝たんですね」
「寝ました」
「それで?」
「朝になって、期限を少し過ぎていました」
冷蔵庫が低く鳴った。
ブーン。
「それを、どうしましたか」
私が聞くと、佐伯は目をそらした。
「静かに処しました」
「廃棄したんですね」
「はい」
「そして?」
「申し訳なくなって、同じものを買って戻しました」
「それが『未来の佐伯』ですか」
「おそらく」
私たちは、冷蔵庫の中を見た。
『未来の佐伯』と書かれたヨーグルトの付箋には、小さく追記があった。
『反省済』
佐伯は黙った。
私も黙った。
冷蔵庫だけが、静かに鳴っていた。
カチッ。
それは、今すぐ食べろ、という音に聞こえた。
「佐伯くん」
「はい」
「今すぐ食べましょう」
「今すぐですか」
「未来に任せると、また付箋が増えます」
佐伯は真剣にうなずき、ヨーグルトを一つ手に取った。
その瞬間、冷蔵庫がもう一度、小さく鳴った。
カチッ。
それは、ようやく理解したか、という音に聞こえた。
その日の夜、私は最後に給湯室を確認してから帰ろうとした。
ポットは静かに保温していた。ウォーターサーバーのランプも穏やかだった。冷蔵庫は低く一定の音を立てていた。
ブーン。
私は、ふと冷蔵庫の扉を見た。
そこには、朝にはなかった付箋が一枚貼られていた。
『調停者、昼食を忘れるな』
私はそのとき初めて、昼食を忘れていた事に気づいた。
そして、私の机の上に、小さな包みが置かれていた。
包みの横には、付箋が三枚あった。
一枚目には、こう書かれていた。
『湯を整える者、場を整える』
二枚目には、こう書かれていた。
『冷を守る者、時を守る』
三枚目には、こう書かれていた。
『調停者、昼食を忘れるな』
横の包みを開けると、小さなチーズケーキが入っていた。
付箋には、さらに小さく追記があった。
『期限、昨日』
私はしばらく考えたあと、佐伯を呼んだ。
「佐伯くん」
「はい」
「これは、どう解釈すべきでしょう」
佐伯はチーズケーキを見つめ、厳粛な顔で言った。
「番人からの試練ですね」
「食べてはいけないと」
「いいえ」
佐伯は少しだけ身を乗り出した。
「研究者には、期限を過ぎても向き合わなければならないものがあります」
「それをチーズケーキで言いますか」
「言います」
「佐伯くんは、さっき期限を少し過ぎたヨーグルトを静かに処しましたよね」
「はい」
「その思想と矛盾していませんか」
佐伯は少し考えた。
「僕のヨーグルトは、僕の未熟さでした」
「このチーズケーキは?」
「高槻さんの試練です」
「都合がよすぎませんか」
「研究室の怪異は、だいたい都合がいいです」
そのとき、教授が通りかかった。
教授はチーズケーキを見て、少しだけ目を輝かせた。
「それは、名前がある?」
「あります」
私は付箋を見せた。
『調停者、昼食を忘れるな』
教授はうなずいた。
「高槻さんのものだね」
「はい」
「期限は?」
「昨日です」
教授はさらにうなずいた。
「なるほど」
「なるほど、とは」
「これは食べるべきか、食べないべきか、難しい問題だね」
「そうですね」
「僕なら食べるかもしれない」
「教授は参考意見から除外します」
「どうして」
「実績です」
教授は少し寂しそうな顔をした。
私はため息をつき、給湯室でコーヒーを淹れた。
ポットは何も言わずに湯を沸かした。
ウォーターサーバーも何も言わずに水を出した。
冷蔵庫も何も言わなかった。
ただ、私がチーズケーキをひと口食べた瞬間、どこからともなく、カチッ、という音がした。
合格、という意味だと思うことにした。
その直後、冷蔵庫の扉に貼られていた付箋が一枚だけ、ひらりと床に落ちた。
拾い上げると、そこにはこう書かれていた。
『次は冷凍庫』
私はそっと付箋を戻した。
見なかったことにした。
研究室の平和には、時々、先延ばしも必要である。




