STORY 9
珍しく、バーにオーナーの千葉が姿を現した。
俺がバイトを始めて多分初の事だろう。
昨日、オーナーと如月に此処を去る事を告げた。千葉はフロアーに入って来るなり佐伯を呼び止め、休憩室に消えて行った。
「珍しい、オーナーが来るなんて」
注文を聞き終えた柊が俺の横に来るなりそんな事を言う。
千葉が姿を現した理由がなんとなく解っていた俺は言葉を濁した。
「どしたの?因幡っち」
何かを言っていた柊が突然言葉を向けて来る。え?という俺の返事に苦笑を浮かべた。
「なんか、怖い顔してるけど・・・大丈夫か?」
柊は、妙に感が良いらしい。微妙な俺の変化にしっかりと反応しているのだ。
「そうですか?別に何もないんですが・・・」
俺は言葉を濁し、フロアーに目を向ける。奥の席で、常連の女性が手を上げるのが見えた。
「あ、俺行ってきます」
ここぞとばかりに歩き出し、オーダーを受けに行く。
「因幡くん、あれオーナーの千葉さんでしょ?」
注文かと思えばそんな事を聞かれる。
俺は愛想笑いを湛えながら答えた。
「良くご存じですね。オーナーとはお知り合いですか?」
俺の言葉に客は頬を赤らめた。
「知り合い、というほどじゃないのよ?私が一方的にお慕いしているだけ。でも珍しいわね、千葉さんがお店に来るなんて」
お慕いしている、の所を強調して彼女は小首を傾げた。
綺麗な女性にそんな風に思われている千葉を羨ましいとも思ったが、何故だか自分もそう想われたいとは思わない。そう想って欲しい人は違う人を見ているからなのかもしれないと思った。
「オーナーをお呼びいたしましょうか?」
俺の言葉に彼女の表情は一気に花開いた。
「ご迷惑でなければ、是非」
始めからそう言えば良いのに、と少しばかり嫌な気持ちを感じながら客席を離れる。そのままバックヤードを通り過ぎ休憩室の扉をノックした。
「・・・はい」
何故だか妙に低い声がする。それが佐伯の物だと解るまで少し時間がかかった。
1つ呼吸を置き声を発する。
「御話し中申し訳ありません、オーナーにお会いしたいというお客様がいらっしゃるのですが・・・」
一気に言い返事を待つと休憩室の扉が開いた。
「何処のどいつだ」
機嫌の悪そうな声とは裏腹に、不敵な笑顔を浮かべた千葉が顔を出す。
「奥のテーブル席の方です」
負けないようにお腹に力を込め伝えると、わかったと言い千葉は歩きだした。すれ違う瞬間、不敵な笑顔が少し困ったような其れに変わり、俺の目を見る。
「?」
意味が解らずその背中を追うけれど、千葉は振り返る事はなかった。
意味の解らない視線を送られて、俺はそのままフリーズしてしまう。見える事はない千葉の背中を追いかけていると、頭上から地を這うような、恐ろしい声がした。
「おい」
そのまま腕を強く掴まれ、休憩室に引き込まれる。
抗わなければいけなかったのに、驚きの方が強くて身動きがとれなかった。
そのままの勢いで壁に強か背中を打ち、その衝撃で痛みより息苦しさを感じむせこむ。
なんとか呼吸を整え、潤んだ瞳をそのままに、乱暴なまでの態度を非難しようと顔を上げ、今度は違う意味で固まった。
いつにない苦しそうな、それでいて悲しく、しかし熱のこもった顔。見たこともない佐伯の表情に、言葉は完全に成りを潜めてしまった。
しばしお互いを見詰め合った後、視線を先に外したのは佐伯。俺は詰まっていた息を気付かれないように吐いた。
「…なんで辞める」
沈黙を破ったのも佐伯で、その質問に俺の息は再び詰まる。視線を外した佐伯の表情は読み取れなかった。
「えっ、と…大学の関係で、どうしても働く事が難しくなってしまったので…」
千葉と如月に吐いた嘘を、佐伯に伝える。
佐伯の眉間にそれはそれは深いシワが刻まれた。
その反応が何故だか苛立ちを産ませる。
別に、ただのバイトなのだ。その他大勢の中の1人に過ぎないと、嫌と言うほど解っている。なのに、そんな反応をされるとあるはずのない可能性を思ってしまう。少しは自分の事を見てくれるのではないか、と…。
だから、俺は視線をソロリと佐伯に向けた。一瞬視線が絡み合う。
だけれどやっぱり視線を反らせたのは佐伯だった。そうして紡がれた言葉に大きなダメージを受ける。
「…辞めるのは別に構わないが、俺も一応店長という名がついているんだ。相談があっても良かったんじゃないか?」
辞めるのは構わない、と佐伯は言った。つまりはそう言う事か、と絶望を感じて口から渇いた笑いが零れる。
佐伯は驚き掴んでいた腕を放した。
急いで腕を自らの方へ引き寄せる。そうして今度こそ視線を逸らさずに佐伯に向けた。
「なんの相談もせずにすみませんでした。でも相談するほどの事案ではなかったですし、ほぼ決定事項だったもので」
自分でも驚いてしまうほど冷たい声音で、まるで捲し立てるような言い様だった。
「ちょと待て、俺が言いたい事は」
佐伯の表情が一転したけれど、一度滑り出した感情は止められない。佐伯の焦りを含んだ言葉を強引に遮り更に冷淡な声を紡いだ。
「店長というプライドを傷付けてしまい申し訳ありませんでした。ただのいちバイトなもので、配慮が足りませんでしたね」
卑屈な笑みまでも零れてきて、もう立っているのもやっとで…。
ふらりとしていた俺の腕が痛みを覚えた。そうして視界が大きく揺れる。
身体が弧を描き、強い力で部屋の壁に背中を押し付けられ、佐伯の怖い顔が覗き込んで来た。身体を反らそうにも、壁が邪魔をし身動きがとれない。
ある種の嫌悪を抱き、佐伯を睨み付けた。
「放してください」
荒れる心とは裏腹に、静かな声が零れる。
その瞬間、スッと佐伯の大きな手が動き、思わず目をギュッと閉じた。
殴られる、と思ったけれど強い衝撃は訪れずに柔らかく頬を擦られる。困惑と共に目を開けようとした時、妙に優しい声音が聞こえた。
「なんで泣いている」
そうして、親指で目の下を再度擦られた。
いつの間にか溢れていた涙を認識して、思わず佐伯の手を振り払っていた。
「逃げるな!」
強い声で言われて固まる。
「まだ答えを聞いていない。お前は俺の事を責めているのに、なぜ泣いている。答えろ」
そんなの決まっている。
大好きな人に悪態を吐き、その前から消えようとしているのだ。多分もう二度と会う事はないだろう。
好き、という気持ちも伝えられないのだ。
キリキリと痛む胸を堪えようにも、多分もう限界だったのだ。静かに消えようとしているのに、この人はそれを許してくれない。
いっそのこと想いをぶちまけ、清々しいまでに玉砕してしまえば良いと思った。
そらしていた視線を上げる。ついでに涙を乱暴に拭った。
「・・・あなたの事が好きになりました!でも、あなたには想っている人がいますよね。俺はまだまだガキだから、気持ちにそう簡単には蓋をできないんですよ・・・!!」
1度強く目を閉じ、キッと佐伯を睨むと驚きに見開いている瞳があった。清々しいまでに玉砕、と思っていたけれど、臆病な俺は全身で答えを聞きたくない、と思ってしまう。
佐伯の形の良い唇が動き、言葉を紡ぐ前には心が折れてしまっていた。折角、形を潜めた涙が再び溢れ出す。
だから言葉が音になる前に、失礼します、と告げ踵を返した。
・・・はずだった。
なのに、今自分は扉を背にしている。
視界を阻んでいる物が何なのか解らずに声を出そうとするけれど、やっぱり唇を何かに塞がれていてそれも出来ない。
唇にかかる温かい風が、思考をストップしている自分に唯一わかる感触だった。
ぼやけていた障害物がゆっくりと動き、そうして温かい風も遠のいて行く。
瞬間、今自分に何が起きていたのか理解した。
自分の視界を遮っていた物が佐伯の顔で、触れていた温かい風は佐伯の呼吸だったのだ。
ここまで来て、漸く自分がキスをされたのだと解り、赤面すると共に左手の甲で顔半分を覆い隠す。
想い人に触れられたこの唇がとても愛おしい物に感じ、そうして悲しみの対象にも感じてしまう。
抱き締めて大事にしたいような、毟り取り燃やしてしまいたいような、そんな複雑な感情が俺を襲った。
好きな人からのキスは、本当はとても嬉しい物で、ただただその人の腕に抱き締めてもらえると核心出来る物。
だけれど・・・これは違うと、キリキリと痛む胸が教えてくれた。
佐伯は自分の行動にこそ驚いている様子で、ただ呆然とこちらを見ている。
「・・・同情・・・ですか?それとも、報われない俺の気持ちを弄んでいる、とか?!」
もう、何も見えなかった。
おい!っと言う佐伯の言葉には振り向かずに駈けだしていた。
そのままフロアーに飛び出し、危うく柊にぶつかりそうになる。
「危ねぇな!・・・?!因幡っち、何処行くんだよ、おい!!」
謝るのもそこそこに、背後に聞こえる柊の声にまるで追われるかのようにそのままBeach Soundを飛び出した。
ただただ、一秒もここには・・・、佐伯の前にはいたくない、と強く思った。