STORY 8
ソファーに座らされ、何処からか持って来たグラスを握らされる。
涙で曇る視界を何とか凝らし良く見ると、それは店のものだった。
中身はレモネード。ちらりと柊を見ると、とても困った顔をしていた。
その瞬間、俺の涙が潮を引くように姿を消す。自分の失態に今更ながら気付いて、そうして柊に申し訳なくて、顔を上げられないでいた。
「因幡ちゃん・・・。取り敢えずそれ飲んで?店長には、具合悪いって言っておいたから」
苦笑を浮かべながら、柊は自分もソファーに腰を降ろす。そうして優しく、俺の頭を撫でた。
「・・・何があった?」
再度、そう聞かれる。色々あって、でも言える訳が無い。
俺は、小さく頭を振るしかなかった。
横から溜息が聞こえる。それでも頭を上げる事は出来なかった。
「・・・言いたくなければ無理には聞かないけど、1つだけいいか?」
柊の言葉に、小さく頷く。
「あんま溜め込むと壊れるぞ?・・・誰にも言えなければ、原因から少し離れろ。そしてゆっくり考えて答えを出せば良い」
再び頭を撫で、そうして柊は部屋を後にした。
手の中のグラスに口を付けると、さわやかな酸味と優しい甘味が広がる。そうして俺は1つ決意をしたのだった。
「具合が悪いって聞いたけど、大丈夫なの?因幡くん」
翌日、喫茶の仕事に入った俺に如月が声を掛けた。上手く笑える自信がなくて俺は視線を外しながら口角を動かした。
「あ、はい、もう大丈夫です」
「そう?じゃあ、今日も宜しくね」
俺の言葉を信じてくれた如月は、ふわりと笑い俺に背を向けた。そんな如月を急いで呼び止める。
決意を実行する為にはオーナーである千葉を捕まえなければならない。千葉とどうやらお付き合いしているらしい如月に居所を確かめるのが一番早いと思った。
「あ、あの・・・オーナーとお会いしたいんですが、今日はどちらにいらっしゃるか解りますか?」
振り向いた如月に口早に訪ねてみる。如月は少し驚いた顔をし、何やら思案している様子だった。
「ん~・・・急ぎ?」
其れはもう、勿論なので頷く。
如月は再び思案しそうして俺を見た。
「・・・今日なら、僕の家にいるはずだから、昼間終わったら一緒に来る?」
同棲しているのだろうか?などと余計な事を思いながら、願ったりの申し出だったので受ける事にする。
「は、はい、お願いします」
ぺこりと頭を下げると、じゃあ又後でね、と言う如月の綺麗な声がした。
其処は都内でも有数の高級マンションが立ち並ぶ一角だった。
目の前に見える大きなマンションも、良くTVでみかける物。
俺は驚きながらも、前を歩く如月に付いて行った。
最上階までエレベーターが、たいして揺れる事もなく上昇する。下に見える道路には、人がまるでありんこのように小さく見えた。
「散らかっているけど・・・どうぞ?」
カードキ―で開けられた玄関をくぐると、今までに見た事もない広大なリビングが俺を出迎える。壁に掛けられた大きな薄型TVが見え、その前に白い大型のソファーがしつらえてある。
そこに大きな背中の人物が座っていた。多分、いや間違いなくオーナーの千葉であろう。
俺は改めてここに来た理由を思い出していた。
「諒さん、因幡くんきましたよ」
如月がそう声を掛け、あぁ、やっぱり2人が付きあっているのは真実なのだと痛感した。
「ん?あぁ、そう言えばそんなメール来てたな」
大きな背中が億劫そうに言う。俺は背筋を伸ばし、こちらを見ない千葉に頭を下げた。
「お寛ぎの所すみません。お話したい事があり、如月さんに無理を言ったんです」
俺の言葉に千葉は背伸びをし、漸くこちらに顔を向ける。何時もはカチッと髪をセットしているけれど、今はラフな感じになっていて、何時もより若々しく見えた。実際、千葉はいくつなのだろう、と漠然と思った。
「“すみません”と思うなら来るなよ」
「諒さん!!」
千葉の言葉に如月は綺麗な顔を歪めた。
「はい、本当にすみません。…でも、早い方が良いと思ったので」
俺の謝罪に千葉は苦笑を浮かべた。
「なんだよ、苛めがいのない奴だなぁ。まぁいい。で?用件はなんだ?」
俺は再び背筋を伸ばす。そうして、一つ深呼吸をした。
「誠に申し訳ないのですが…、バイトを辞めさせて欲しいんです」
「因幡くん?!」
「な、に?!」
如月と千葉は同時に声を上げ、そうして俺を見る。2人は一度お互いを見、千葉が口を開いた。
「何か不都合でもあるのか?」
怪訝な千葉の声に、下を向く。まさか真実を言える訳が無くて、ここに来るまでの間に考えた“理由”を伝えた。
「実は、所属しているゼミの教授に呼ばれまして、どうしても来て欲しいとの事だったので・・・」
嘘なのは自分が良く解っているから、やっぱり顔は上げられない。
「数日だけではないの?」
如月の声に、苦笑を浮かべた。
「毎日、という訳ではないのですが1日置きに行かなければならないらしいんです・・・。本当にすみません」
一気に言うと、勢い良く頭を下げた。千葉と如月の深い溜息が聞こえる。
俺は頭を下げたまま、ぎゅっと目を瞑った。
「そうか・・・。まぁ、事情があるならしかたが無いな。でも、今週は頑張ってくれるだろ?」
言葉を選びながらの千葉に、嘘を吐いている自分がNOと言える訳もない。本当は今すぐにでも“Beach Sound”を出たかったけれど迷惑を掛ける事も解っていたから、了承するしかなかった。
「それでは、お邪魔しました」
玄関で靴を履き、見送りに来てくれた如月に頭を下げる。頭を上げると思いもよらない真剣な眼差しがあった。澄んだ瞳が俺を捉えて身動きがとれない。
戸惑いながら如月を見詰めた。
「・・・本当に、大学が理由?」
核心を突く言葉に本当にフリーズした。ゆっくりと喉を動かす。
「・・・な、に言ってるんですか?」
「他に理由があるんじゃないの?」
まさか、気付かれている?
いや、そんなはずはない。誰にも気付かれないように、必死に隠してきたのだ。ましてや、想い人の想い人にばれるはずが無い。
俺はなんとか笑顔を作った。
「やだなぁ、如月さん。俺だってもっと働きたかったですよ?他に理由なんてあるわけないじゃなですか」
お願いだ、気付かないでと念じながら伝えると、如月は諦めたように息を吐いた。
「そっか、わかった。ごめんね、変な事言って」
如月の固まっていた表情が融ける。
其れを見届けて、俺は如月の豪華なマンションを後にしたのだった。
「永久、具合はもういいのか?」
仕事着のギャルソンエプロンを巻いていると、突然佐伯の声が聞こえた。驚いて思わず飛び上がってしまう。
「あぁ、悪い驚かせたか?」
申し訳なさそうな佐伯の言葉に急いで首を振った。
「あ、いえ大丈夫です、具合も・・・良くなりました」
言いながら振り向き、再度驚く。其処には自分を何時も以上に優しく見ている佐伯がいたのだ。
それは如月が倒れた時に見せた優しさとほぼ同じような気がして困惑する。
ただ、機嫌が良いだけなのだと自分に言い聞かせ、言葉を続けた。
「昨日はすみませんでした。途中で抜けてしまう事になってしまって・・・」
頭を下げると、熱を伝える何かが頭の上に圧し掛かった。近くにある佐伯の身体で其れがあの大きな手だと解ると、嬉しさと切なさが俺を襲う。
込み上げて来た涙を急いで拭き取り、その手から逃れるように身体をずらした。
頭を上げると、大きな手を拳に変え読み取れない表情の佐伯が立っていた。そうしてふいっと視線を外される。
俺は急いで居住まいを正し一礼をするとロッカールームを後にした。
解っていた反応。
でも、目の当たりにすると胸が張り裂けそうな位辛くなる。
あと1週間。
それを乗り越えれば、もう二度と逢う事はなくなるのだ。こんな辛い思いをしないで済む。
きゅっと口角を噛締め、俺はフロアーに入っていった。