STORY 10
あれからどうやら俺は不眠症になってしまったようだった。
自宅のベッドで横になると、あの日の光景がフラッシュバックのように思い出される。
目を閉じ、軽い睡魔に襲われてもなかなか寝付けない日々が続いていた。
色々な物をBeach Soundに置いてきてしまったけれど、生活に困る程ではないので敢えて取りに行くつもりもなかった。
「はぁ~・・・」
出るのは溜息ばかり。
毎日、忙しい程にバイトに精をだして働いていたから、こうやる事がなくなると手持無沙汰になってしまうらしい。
「・・・バイト、探そうかな」
独り言を呟いて、俺は唯一持ち出して来た携帯に目を向けた。
逃げ出すように、と言うか、本当に逃げ出して来たのだが・・・とても後味の悪い物を感じてしまうけれど仕方ない事。あのままあそこに居たら、多分壊れていた。
「これで・・・良かったんだよ」
自分に言い聞かせ、ベッドから身体を起こす。その時だった。携帯が着信を告げたのは・・・。
恐る恐る液晶を確認すると、見知らぬ番号で戸惑う。
取るべきか取らざるべきか悩んでいる内に着信は途切れた。妙な緊張に包まれていた俺は、詰まっていた息を吐く。その瞬間、再度携帯が音を立てた。番号はさっきと同じで、一瞬悩んだけれど通話のボタンを押していた。
携帯を耳に当て、恐る恐る聞いてみる。
「・・・はい?」
一瞬の間があり、返答があった。
『因幡っちの携帯ですか?』
電話の向こうの声は、柊だった。緊張が解け肩から力が抜ける。
「はい、そうです。柊さん、ですよね?」
俺の問いかけに柊は溜息を吐いた。
『突然いなくなるからびっくりしたよ。因幡っち元気?』
優しい声音に何故だか涙が溢れる。柊にはばれないように気を付けながら答えた。
「ご迷惑お掛けして、申し訳ありませんでした。柊さんはお元気でしたか?」
『おう、元気だよ。今休憩時間なんだ』
不思議と、涙と共に笑顔が浮かぶ。店を飛び出してからそう時間は経っていないはずだけれど、懐かしく思えた。
「そうなんですか、お疲れ様です。・・・ところで柊さん、俺の携帯番、良く解りましたね」
俺の言葉に、あぁ、そんなの簡単だと答える。
『因幡っちの履歴書見せてもらったんだよね、オーナーに』
成程、少し考えれば解る事か。そう言えば履歴書の連絡先は携帯番号を記した事を思い出す。
「そうでしたか・・・。ところで、何か御用でしたか?」
世間話をする為に連絡してきたのだろうか、と思いながら聞いてみた。
『あぁ、そうだった。慧がさ、因幡っちに会いたいってうるさいんだよね。そっちの都合でいいからさ、近々会えない?』
綺麗な、しかし意思の強そうな柊の恋人を思い浮かべる。そういう事なら、と俺は承諾をしたのだった。
携帯の液晶を確認する。
柊と約束をしたのは、慧の職場の前だった。慧は今日早番らしく、後10分程で終わりその後3人で食事に行くという計画らしい。
「悪い、待ったか?」
液晶を見詰めていた俺に、柊の声が掛けられた。
振り向いた先に柊は立っていた。その手には何やら紙袋が握られている。
「いえ、たいして待っていませんので…」
俺の言葉に破顔する。
「あぁ、これ、如月さんから預かって来たやつ…」
そう言って手渡された袋の中を確認すると、あの部屋に持ち込んだ、大学の教材だった。
表向きの理由が勉学だったから、これはまずい事をしたらしい。
俺は苦笑を浮かべながら、其れを受け取った。
「・・・なぁ、なんか」
「おっまたせ〜!!」
袋を渡した柊が何かを言おうとした時だった。店内から勢い良く飛び出して来たのは待ち人の慧。
柊の溜息が聞こえたけれど、それよりも威勢の良い慧が早速俺に絡みつく。
「永久〜!元気だった?!」
そのあまりにも強引な態度に、柊共々笑顔になる。
「はい、なんとか…」
微苦笑を浮かべると、慧のつるりとした頬がぷっくりと膨れた。
「もう!僕たち親友なんだから敬語はなしなのにぃ!」
そんな抗議を受け、答えに困ってしまう。
更に首に腕を絡ませ、下から甘えたような視線を向けられると、その気もないのに何故だか少しドキマギしてしまう。
そんな困って状況を助けてくれたのはやっぱり柊だった。
「こら!慧、俺がやきもち妬いちゃうだろ?…因幡っちから離れなさい」
嘘なのか本気なのか解らない低い声に、背筋が凍ってしまう。それでも、えー?!っと不満たらたらにまだ俺に絡まる慧に、俺は頼むとばかりに視線を向けた。
「お願いします、離れて下さい。…俺、まだ死にたくないです」
頼み込むと、漸く慧は絡ませていた腕を解いてくれた。
本当に柊の視線が怖かったから、安堵の溜め息を吐く。柊は己の態度を後悔したのか、苦笑を浮かべていた。
「じゃあ、行きますか?」
慧の合図で歩き出した俺は、前を歩く2人を見詰める。
回りの視線なんか関係ない、とばかりに手を繋ぎ楽しそうに話している姿に、少し嫉妬を覚えた。
自分は想い人に振り向いてもらえない。
想いを伝えたのに、物凄い仕打ちを受けて振られてしまったのだ。あんな風に仲良くしたいと思う事さえも許されない。
だけれど、心の中でそして頭の中で思い出されるのはちょっと怖そうで、しかし本当は情が深く、一途に想い人を見ている大きな手のあの人の姿。
諦めなければ、と思うのになかなか心は言うことを聞いてくれそうになかった。
再度2人の姿を見て、羨ましいと思うと共に、冷えた笑みが込み上げてきて、急いで口角を引き締めた。
「因幡っち、ここでいい?」
一軒の店の前で徐に振り向いた柊が聞いて来る。ここ近辺にどのような店があるのかはまったく解らない俺は、素直に了承した。
そこはこじんまりとした店だったけれど、静かな空間があり、ホッと息を吐くには丁度良い。
通された席は、奥座敷だった。
「良く御2人でいらっしゃるんですか?」
前に座った2人に聞いてみると、どうやらそうらしい。手際良く注文し終わった柊は、何やら慧に目配せを送っている。慧は苦笑を浮かべながら、俺に向き直った。
「もう、回りくどい事は言わないよ。だから永久も正直に応えて」
前置きに、取り敢えず頷く。
「・・・佐伯さんと何があったの?」
どストレートな質問に息が詰まるかと思った。
「急にバイト辞めたのも、大学が理由じゃないでしょ」
流石は年上、という所か・・・。
前置きに、取り敢えずだったけれど頷いてしまったから、多分嘘は吐けない。ましてや、大学は嘘、と言われてしまっているのだ。
視線を上げると、困ったような柊の顔があった。
「・・・はい、大学が理由ではないです」
俺の返事と同時に座敷の扉が開かれて、注文の品が運ばれてくる。一旦言葉を止め、並んで行く食事に目を向けた。
仲居さんがお辞儀をして出て行くと、今度は柊が言葉を発した。
「俺は、因幡っちの全てを知っているわけじゃないけど、何にも言わずに飛び出して行くような辞め方をする人間じゃないと、解釈しているんだ。其れにあの後、佐伯さんと千葉さんがもの凄い良い争いして、佐伯さんめちゃくちゃ機嫌悪かったんだよね・・・」
あの後そんな事があったのか、と何処か遠くで漠然と思う。慧が其れを咎めた。
「他人事、ってな感じに受け取ってない?間違いなく、永久が絡んでるよね?」
そう言われて、誤魔化す事を辞める。きっと慧に、柊に嘘を言っても見破られてしまうと思ったから・・・。
「・・・俺、佐伯さんの事が、好きになっちゃったんです。でも、あの人には好きな人がいますよね?慧も以前にそう言ってましたよね?気持ちに気付いた時はそれでも同じ空間に居られれば良いと思っていました。でも、如月さんが倒れた時、やっぱり限界だと思ったんです。・・・それで、オーナーと如月さんに嘘を・・・」
一気に言葉にすると、封印していた涙が再び溢れてくる。必死に涙を拭いながら、苦笑を浮かべた。
「・・・そっか」
黙って聞いていてくれた慧が小さく言葉を吐く。
「ごめん。まさか永久が佐伯さんの事好きだなんて知らなかったから、パーティーの日悪態吐いちゃって・・・。耳に入れなくても良い情報与えちゃったね・・・」
眉をハの字に曲げながら苦しそうに言う慧に、柊の優しい拳がその形の良い頭に軽くぶつかった。
「だから、後先考えずに物を言うなよって言っただろう・・・?」
柊の言葉に慧は鼻をすすりながら頷く。しかし、急いで俺の方を向いた。
「でも、でもね?・・・佐伯さんにははっきり認識して欲しかったんだ。如月さんは他の人を見ているって事。そんで、佐伯さんに新しい恋をして欲しかったんだよ・・・」
僕たちにとっては大切な人だから・・・と呟く。
どういう意味だろう、と柊を見ると苦しそうな、でも優しい表情をしていた。
「・・・俺と慧、始めは色々と大変だったんだよ。でも、佐伯さんが間に入ってくれた。それで今はラブラブって事に・・・ね」
しんみりと語りそうして再びお互いを優しく見詰める。なんだかこちらが恥ずかしくなって、こほん、とせき込み、さっきから美味しそうな香りを漂わせている料理に目を向けた。
「あの~・・・そろそろ頂きませんか?折角の料理が冷めてしまいますし・・・」
俺の言葉に2人は世界を作っていた事に気付き、申し訳なさそうな顔をする。そうして、取り敢えず食事をする事となった。
「はぁ~、美味しかった」
慧が食後の焙じ茶を飲みながら言う。柊も俺も同意した。
「食事中、僕色々と考えたんだけど・・・」
湯呑みを置きながら慧はちらりと俺を見た。
「なんだ?突然」
柊が疑問を口にする。慧はそれに小さく頷き、居住まいを正した。
「兎に角、もう一度永久は良く考えた方がいいよ。その・・・キスして来た真相もちゃんと聞いてないんでしょ?」
思わず飲んでいた焙じ茶を吹き出しそうになる。・・・どうやら勢いに任せて、その事も話してしまったみたいだ。誤魔化す事は無意味と知っているから、素直に頷く。
「確かに、怖い状況ではあるけど、ちゃんとした理由があるかもしれない。・・・だから話し合いしたほうがいいと、僕は思うな」
にこりと笑顔を浮かべて綺麗に言いきる。
俺はとても曖昧に頷く事にした。
そんな反応に2人は顔を合わせ、困ったように笑うけれど、自分では決心が付かないのが現状で曖昧に笑うしかない。
「店に来辛いなら俺が場所作ってやるよ?」
そんな言葉に、俺は急いで首を振った。
「なんなら、今から呼ぼうか?」
慧が拍車を掛けたように笑いながらそんな事を言うから、仕方なく店に行く事を約束した。
「荷物もありますから・・・」
そんなしなくても良い言い訳をしながらの言葉に、2人は心底嬉しそうに笑ったのだった。