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チョコレートの賞味期限

作者: れーやん
掲載日:2026/03/14

司書室は埃っぽくて、冬なのに妙にぬるい。


「先輩、これ」


振り向くと、一年下の水瀬が突っ立っていた。ブレザーの裾からシャツがはみ出ている。吹奏楽部の昼練帰りだろう、唇が少し赤かった。


差し出されたのは、コンビニの板チョコだった。銀紙がちょっとめくれている。


「……なに、これ」


「バレンタインです」


男子校で何を言ってるんだこいつは。笑った。水瀬も笑った。だからそれは冗談ということになって、僕はチョコを受け取って、二人で半分に割って食べた。司書室の鍵を返しに行く途中、銀紙を丁寧に畳んでブレザーのポケットにしまったことを、たぶん水瀬は知らない。


僕が大学に進んでからも、水瀬はときどき連絡をよこした。


最初の春は「落ちました」だった。


「浪人します」というLINEに、僕は「おう、来年待ってる」と返した。待ってる、というのは嘘ではなかった。何をどう待っているのか、自分でもよくわからなかったけれど。


水瀬は予備校に通いながらも、夏になると「死にそうです」と送ってきた。僕は「死ぬな」と返した。秋になると「先輩の大学についてに聞きたいことがあって」と電話が来た。志望校の話をしているはずなのに、なぜか最後は高校の文化祭の話になった。あのとき吹奏楽部がやった「宝島」、僕が客席で聞いていたことを水瀬は覚えていた。僕も覚えていた。


二度目の春も「落ちました」だった。


さすがに声に力がなかった。電話口で鼻をすする音がして、僕は何も気の利いたことが言えなくて、ただ「聞こえてるよ」とだけ言った。水瀬は少し黙って、「もう一年やります」と言った。


二浪。周囲はざわつくだろう。親だって簡単には頷かない。でも水瀬の声には、泣いたあとの妙な透明さがあった。腹を括った人間の声だった。


「やれよ」と僕は言った。


「はい」と水瀬は言った。


その一年は、僕のほうから連絡することが増えた。模試の判定を聞いて、「Cなら全然圏内」と言ったり、「過去問何年分やった?」と聞いたり。自分が受験生だった頃よりよほど受験に詳しくなった。水瀬の志望校の配点も、二次の傾向も、全部頭に入っていた。


おかしいな、とは思っていた。


三度目の春が来る少し前、二月の終わりに、水瀬が「会いたいです」と言った。


試験はもう終わっていた。発表はまだだった。


駅前のチェーンの喫茶店で会った水瀬は、高校のときより背が伸びていて、顔つきが少し大人びていた。でも相変わらずシャツの裾が出ていた。


「先輩」


アイスコーヒーを両手で持ったまま、水瀬はテーブルを見つめていた。


「あの、司書室のチョコ」


「うん」


「あれ、冗談じゃなかったです」


店内のBGMがやけにはっきり聞こえた。ジャズだった。水瀬のアイスコーヒーの氷が、かちりと鳴った。


「……知ってた?」


知っていた、と思う。たぶん、ずっと。銀紙をポケットにしまったあの日から。


「うん」


水瀬が顔を上げた。目が赤かった。泣いてはいなかった。


「ごめんなさい、こんなタイミングで。でも落ちてても受かってても、言おうって決めてたんで」


僕は何と答えたのか、正確には覚えていない。覚えているのは、水瀬の手がテーブルの上で少し震えていたことと、僕がその手に自分の手を重ねたこと。それだけだ。


そのあと何を話したのか覚えていない。覚えているのは、店を出たとき水瀬が少しだけ笑ったことだけだ。


水瀬は受かった。


ただし僕とは別の大学だった。


最初の半年はよく会った。電車で四十分。会えない距離じゃない。水瀬は大学で吹奏楽のサークルに入って、僕はゼミが忙しくなって、LINEの頻度が週に三回になり、二回になり、一回になった。


会う回数は月に一度になり、二ヶ月に一度になった。


嫌いになったわけじゃない。忙しかっただけだ。距離のせいだ。そういうことにした。本当は、あの喫茶店で手を重ねたあと、僕たちは一度もその先の話をしなかった。何であるのかを決めないまま、ただ会って、ただ笑って、ただ帰った。名前のない関係は、輪郭を持たないまま薄れていく。


水瀬から久しぶりに連絡が来たのは、秋だった。


「彼女できました」


一行だった。スタンプもなかった。


僕はスマホを持ったまま、しばらく天井を見ていた。


「おめでとう」と打って、消して、「よかったな」と打って、消して、「マジか」と打って、送った。


水瀬は「マジです」と返してきた。そのあと少し間があって、「先輩には、ちゃんと言いたかったので」と来た。


ちゃんと。


僕はその二文字をしばらく見つめて、それから「大事にしろよ」と送った。水瀬は「はい」と返した。高校のとき、浪人を決めたときと同じ、「はい」だった。


あの銀紙は、まだ机の引き出しの奥にある。


捨てられないわけじゃない。捨てないだけだ。


チョコレートには賞味期限がある。たぶん、僕たちにもあった。それを過ぎたら味が変わるとか腐るとかじゃなくて、ただ静かに、棚の奥に押しやられていく。誰のせいでもなく。


水瀬のトランペットの音を、僕はまだ正確に思い出せる。文化祭の体育館、パイプ椅子の硬さ、「宝島」のイントロ。あの音だけが、賞味期限を持たずに残っている。


いつか捨てるのかもしれない、銀紙を。


でも今日じゃない。

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